作品を知る

画帖の名が、書かれていない一葉——馬遠、馬麟、夏珪ほか九点

種別は「画帖の一葉」。ところが、どの画帖の葉かが書かれていない。もとの冊子が分からなくなっているからである。二十五センチ四方の絹に、八百年の変色。まわりを失った一葉の見え方を読みたい。添えられた細い紙に、後の人が書いた名も残っている。

滝を観る文人
馬遠《滝を観る文人》メトロポリタン美術館蔵

種別は「画帖の一葉」、ただし画帖の名がない

メトロポリタン美術館の記録に、「画帖の一葉」という種別がある。

前の回に見た周亮工のための画帖は、題に冊子の名が入っていた。

ところが、そうでないものが多い。

種別は「画帖の一葉」なのに、どの画帖の葉かが書かれていない。

題は《蘭》《滝を観る文人》《魚の戯れ》とだけある。

冊子の名がない。

つまり、もとの冊子が分からなくなっている。

一葉だけが残り、まわりが失われている。

九点を並べて、その一葉ずつを見ていきたい。

滝を観る文人
馬遠《滝を観る文人》13世紀はじめ。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨と彩色。画面は縦25.1センチ、横26センチ。番号は1973.120.9。中国、南宋時代。メトロポリタン美術館蔵。馬遠《滝を観る文人》メトロポリタン美術館蔵

画面はほぼ正方形である。

縦二五・一センチ、横二六センチ。

左に、松の生えた岩が大きく張り出している。

その枝が、右へ向かって斜めに伸びる。

岩の上に、白い衣の人物が腰かけている。

顔は右を向き、視線の先に何かがある。

右下に、細い滝が落ちている。

そして画面の右側は、ほとんど空白である。

薄く墨が刷かれ、霧のようになっている。

人物の小ささが、まわりの広さを示している。

この構図は、南宋の小品に共通している。

重いものを片側に寄せ、反対側を空ける。

前の回に見た団扇の絵と、同じ組み立てである。

団扇でも画帖の葉でも、画面が小さければ同じ方法になる。

父と子が、並んでいる

九点の作者を並べると、同じ姓が二組ある。

馬遠が二点、馬麟が二点。

夏珪が二点。

馬麟は馬遠の子と伝えられる。

館の記録は、その関係を書いていない。

書いているのは、活動時期だけである。

馬遠は一一九〇年ごろから一二二五年ごろ。

馬麟は一一八〇年ごろから一二五六年より後。

重なりながら、馬麟のほうが長く生きている。

蘭
馬麟《蘭》13世紀の第二四半期。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨と彩色。画面は縦26.5センチ、横22.5センチ。番号は1973.120.10。中国、南宋時代。メトロポリタン美術館蔵。馬麟《蘭》メトロポリタン美術館蔵

こちらは縦がわずかに長い。

縦二六・五センチ、横二二・五センチ。

絹の地は、褐色に変わっている。

もとは白かったはずである。

八百年のあいだに、絹が焼けた。

その褐色の上に、蘭が二株描かれている。

細い葉が、左右に長く伸びている。

一本の葉が画面の右下まで届き、そこで折れ返る。

花は淡い紫で、小さく開いている。

右下の隅に、赤い印が一つある。

背景には何も描かれていない。

蘭だけが、空間に浮かんでいる。

小さな画面に一つの主題だけを置く。

これも、画帖の葉によく見られる作りである。

大松のある山水
馬麟《大松のある山水》13世紀の第二四半期。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨と彩色。縦25.2センチ、横26センチ。番号は47.18.63。中国、宋時代。メトロポリタン美術館蔵。馬麟《大松のある山水》メトロポリタン美術館蔵

同じ画家の、別の一葉である。

こちらは山水である。

右に、大きな松が一本立っている。

幹が斜めに伸び、枝が画面の上に広がる。

その根方に、小さな建物と人影。

左は、水と霧である。

遠くに、薄い山影がある。

そして画面の左上に、赤い印が二つ並んでいる。

右上にも、大きめの赤い印がある。

いずれも収蔵印だろう。

館の記録は、印文を翻刻していない。

蘭の一葉と、この山水を並べると、同じ画家でも扱う主題の幅が分かる。

花の一株と、山と水。

どちらも同じ大きさの絹に描かれている。

印の位置に、二つの層がある

九点のうち何点かでは、印の位置が画面の中に入り込んでいる。

作者が押したものなら、署名のそばに置く。

収蔵者が押したものなら、余白のどこかに置く。

余白が少ない画面では、絵の上に重なることもある。

魚の戯れ
趙克夐《魚の戯れ》12世紀から13世紀後半。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨と彩色。画面は縦22.5センチ、横25.1センチ。番号は13.100.110。作者の欄は12世紀はじめの人とするが、文化の欄は南宋とする。メトロポリタン美術館蔵。趙克夐《魚の戯れ》メトロポリタン美術館蔵

この一葉には、記録どうしの食い違いがある。

作者の欄には「十二世紀はじめに活動」とある。

十二世紀のはじめは、まだ北宋の時代である。

ところが文化の欄は南宋、年の欄は「十二世紀から十三世紀後半」である。

つまり、作者の活動時期より後の年が入っている。

伝称と推定が、別々に書かれている。

名は残っているが、この一葉が本人の筆かどうかは分からない。

だから年の幅を広く取っている。

こういう書き方は、古い中国絵画では珍しくない。

画面には、水草のあいだを泳ぐ魚がいる。

四匹ほどが、それぞれ違う向きに泳いでいる。

尾が長く、ひれが薄い。

墨の濃淡だけで、水中の光が作られている。

絹はすっかり褐色になり、輪郭が沈んでいる。

見えにくい絵だが、魚の姿勢はよく分かる。

一匹が上を向き、一匹が横を向いている。

群れの動きが、数匹の向きだけで示されている。

表装の紙に、名が書かれている

松下に月を観る
馬遠《松下に月を観る》13世紀はじめ。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨と彩色。縦25.4センチ、横25.4センチ。番号は23.33.5。右の縁に、題と作者名を書いた細い紙が添えられている。メトロポリタン美術館蔵。馬遠《松下に月を観る》メトロポリタン美術館蔵

寸法が、縦横とも二五・四センチである。

正確な正方形になっている。

画面の右に、大きな松が斜めに伸びる。

その下に、腰かけた人物と、立った従者。

二人とも上を見ている。

見ている先は、画面の左上の余白である。

そこに月があるはずだが、はっきりとは描かれていない。

薄い墨で、丸い形がわずかに示されている。

そして、画面の右の縁に、細長い紙が付いている。

そこに文字が縦書きされている。

作者の名と題らしい四文字が読める。

これは絵の一部ではない。

画帖に仕立てたとき、あるいは表装したときに添えられた紙である。

誰かが、この一葉に名を与えた。

その紙が、いまも一緒に残っている。

館の記録は、この紙の文字を翻刻していない。

したがって、誰が書いたかも分からない。

山市晴嵐
夏珪《山市晴嵐》13世紀はじめ。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨。縦24.8センチ、横21.3センチ。番号は13.100.102。右の縁に、細長い題箋が添えられている。メトロポリタン美術館蔵。夏珪《山市晴嵐》メトロポリタン美術館蔵

こちらにも、右の縁に細長い紙がある。

そこに文字が書かれ、下に赤い印がある。

画面は縦長で、墨だけである。

上に、切り立った峰が霞のなかに浮かぶ。

中ほどに、木立と建物が並ぶ。

下は、水と土坡である。

題の《山市晴嵐》は、八つの決まった景色の一つである。

瀟湘八景と呼ばれる主題の、第一景にあたる。

山あいの市に、霧が晴れる。

もしこの一葉が八景の一つだとすれば、残り七葉があったはずである。

八葉で一組の画帖だった可能性がある。

館の記録は、そこまで書いていない。

しかし題そのものが、失われた七葉の存在を示している。

遺贈の年と、受け入れの年がずれる

銭塘江の河口
夏珪《銭塘江の河口》1200年ごろ。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨と彩色。縦23.2センチ、横23.8センチ。番号は49.6.11。出所の行の年は1948年だが、番号の頭は1949年である。メトロポリタン美術館蔵。夏珪《銭塘江の河口》メトロポリタン美術館蔵

この一葉の記録には、小さなずれがある。

出所の行は「エリス・グレイ・シーモア氏の遺贈、一九四八年」。

ところが番号は四九・六の一一である。

四九は、一九四九年に受け入れたことを示す。

一年ずれている。

理由は、たぶん手続きの時間差である。

亡くなった年と、遺産の整理が済んで館に渡る年が違う。

遺贈では、よくあることである。

このずれは、記録の誤りではない。

二つの年が、別の出来事を指している。

技法の欄にも、小さな不備がある。

「絹に墨と彩色」と書くべきところが、助詞が一つ落ちている。

大きな目録では、こうした小さな揺れが残る。

画面には、河口の景色がある。

右に岩と松、左へ水が広がる。

遠くに帆が小さく見える。

墨の濃淡で、水面の光が作られている。

建物だけを、細い線で描く

黄楼
夏永《黄楼》1350年ごろ。館の記録では、画帖の一葉、絹に墨。画面は縦20.6センチ、横26.7センチ。番号は1991.438.3。中国、元時代。メトロポリタン美術館蔵。夏永《黄楼》メトロポリタン美術館蔵

これまでの八点とは、線の性質が違う。

建物が、定規を当てたような細い線で描かれている。

屋根の反り、柱の並び、欄干の格子。

すべてが正確に引かれている。

界画と呼ばれる描き方である。

画面の右に、二層の楼閣がある。

その左に、山と水が薄く広がる。

そして画面の中央上に、四角い塊がある。

細かい文字が、びっしりと詰まっている。

楼閣の由来を書いた文だろう。

建物の絵に、文章が添えられている。

こういう作りの一葉も、画帖の中にあった。

年は一三五〇年ごろ、元時代である。

南宋の八点より、百年以上あとになる。

同じ「画帖の一葉」という種別に、時代の違うものが並んでいる。

紙に描かれた、新しい一葉

雲と春の木、夕暮れ
顧澐《雲と春の木、夕暮れ》1888年。館の記録では、画帖の一葉、紙に墨。縦24.8センチ、横34.3センチ。番号は1988.324.5。中国、清時代。メトロポリタン美術館蔵。顧澐《雲と春の木、夕暮れ》メトロポリタン美術館蔵

九点でいちばん新しい一葉である。

一八八八年。

そして、これだけが紙に描かれている。

他の八点は、すべて絹である。

紙は白く残り、絹のように褐色に変わっていない。

三百年から七百年の差が、地の色に出ている。

画面は横長で、九点でいちばん横に広い。

縦二四・八センチ、横三四・三センチ。

左に岩と木立、中央に川、右に山。

上の余白に、四行の書き込みと赤い印。

線は細く、点が細かく重ねられている。

古い画帖の葉の描き方を、意識的に踏まえた作りに見える。

ただし、館の記録はそう書いていない。

したがって、こちらの見立てにとどめる。

絹の色が、時間を示す

九点のうち八点は、絹に描かれている。

そして八点とも、地の色が褐色から茶色に変わっている。

もとは、もっと明るい色だったはずである。

絹は、時間がたつと色が変わる。

繊維が酸化し、黄ばみ、やがて茶色になる。

この変化は止められない。

だから、南宋の絹本を見るとき、私たちは必ず変色した状態を見ている。

描かれたときの見え方とは違う。

具体的に言えば、墨と地の対比が弱くなっている。

白い絹に置かれた薄墨は、はっきり見える。

褐色の絹の上では、沈む。

《魚の戯れ》がとくにそうである。

魚の輪郭が、地の色に溶けかけている。

もし絹が白ければ、魚はもっと浮き出て見えただろう。

一方、濃い墨は残る。

《山市晴嵐》の峰の輪郭は、いまでもはっきりしている。

つまり、時間は絵の一部だけを消していく。

薄いところから先に消える。

そして、消えたぶんだけ、絵は静かになる。

いま静かに見える南宋の小品は、描かれたときにはもう少し明快だった可能性がある。

これは推測だが、絹の性質から考えて無理のない推測である。

顧澐の一葉だけが紙で、白いままなのは、時代が新しいからでもあり、材質が違うからでもある。

名の伝わり方に、段差がある

作者の欄を、確からしさで並べてみたい。

顧澐は、生没年が一八三五年から一八九六年と書かれている。

年が特定できている。

夏永は「十四世紀半ばに活動」。

馬遠は「一一九〇年ごろから一二二五年ごろ活動」。

馬麟は「一一八〇年ごろから一二五六年より後」。

活動時期だけが書かれ、生没年はない。

趙克夐は「十二世紀はじめに活動」だが、作品の年が合わない。

古くなるほど、欄の書き方が曖昧になる。

これは当然である。

古い画家ほど、記録が少ない。

そして、名前が作品に付いて伝わってきた期間が長い。

長いあいだに、名は入れ替わることがある。

似た作風の絵に、有名な画家の名が付けられる。

館は、それを頭から否定しない。

伝えられてきた名を書き、そのうえで年の欄で幅を取る。

この二段構えが、伝称の作品に対する扱い方である。

読む側も、二つを分けて読むとよい。

名は伝承である。

年は、館の判断である。

一葉になった理由は、書かれていない

九点に共通しているのは、冊子の名がないことである。

もとは、どれかの画帖に綴じられていたはずである。

いつ、なぜ一葉になったのか。

記録には書かれていない。

考えられる筋道はいくつかある。

一つは、売るときにばらされた場合である。

十二葉の画帖を十二人に売れば、十二倍の相手に届く。

もう一つは、もともと一葉ずつ流通していた場合である。

古い小品は、掛軸や画帖に仕立て直されながら伝わる。

そのたびに、組み合わせが変わる。

いまある画帖が、もとの組み合わせとは限らない。

だから「どの画帖の葉か」を書けない。

書けないから、種別だけが残る。

八景という組は、いまも数えられる

《山市晴嵐》の題について、もう少し書いておきたい。

瀟湘八景は、中国の湖南のあたりの景色を八つに数えた組である。

山市晴嵐、遠浦帰帆、平沙落雁、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照、江天暮雪。

十一世紀ごろから、この八つが決まった主題として描かれてきた。

日本にも伝わり、屏風や掛軸に繰り返し描かれた。

つまり、この題は組であることを前提にしている。

八景の一つだけを描くこともあるが、題そのものは組の一員を指す。

この一葉が八葉の一組の残りかどうかは、記録からは分からない。

しかし、題を読んだ人は、必ず残り七つを思い浮かべる。

組の名を持つということは、そういうことである。

一点であっても、単独では読めない。

このあとの回で見る三枚続や祭壇画も、同じ性質を持っている。

名前が、失われたものを呼び出す。

種別の欄が、失われたものを示す

「画帖の一葉」という語は、その一葉が単独ではなかったことを示している。

一葉だけを見ていると、その事実は見えない。

正方形に近い、小さな絵。

それだけである。

種別の欄を読むと、まわりに他の葉があったと分かる。

そして、その葉がいまどこにあるかは分からない。

記録は、失われたものを直接には書かない。

しかし、形式の名を通して、失われたものの輪郭を示す。

「画帖の一葉」とは、そういう語である。

同じことは、このあと見ていく多くの例にも当てはまる。

三枚続の一枚。祭壇画の一部。対の片方。

いずれも、名前のなかに、いま無いものが含まれている。

出所の行に、同じ家の名が三度出る

九点の出所の行を読むと、同じ語が繰り返し現れる。

「王家旧蔵」。

三点にこの語がある。

二十世紀の中国絵画の収集で、大きな役割を果たした家である。

館の記録は、その家がどういう家かを説明していない。

書いているのは、館に入る前にそこにあった、という事実だけである。

他の行には、別の名が並ぶ。

ディロン基金の寄贈。バール氏の蒐集品から。ロジャーズ基金。

ケネディ基金。エルスワース氏の寄贈。唐氏一家の蒐集品から。

受け入れの年も、一九一三年から一九八八年まで散らばっている。

七十五年のあいだに、少しずつ集まってきた。

同じ館の同じ棚に並んでいても、来た道はばらばらである。

そして、来た道の違いは、記録の細かさにも表れる。

古い受入ほど、出所の行が短い。

一九一三年の二点は「ケネディ基金、一九一三年」だけである。

新しい受入ほど、行が長くなる。

旧蔵者の名、蒐集品の名、寄贈者の名、記念する人の名。

記録の作法が、この百年で変わってきたことが読める。

同じ大きさが、そろっている理由

九点の寸法は、ばらばらのようでいて、ある範囲に収まっている。

縦は二〇・六センチから二六・五センチ。

横は二一・三センチから三四・三センチ。

いちばん小さいものといちばん大きいものでも、二倍に届かない。

これは偶然ではない。

画帖の台紙に収まる大きさが、だいたい決まっていたからである。

大きすぎれば冊子にならない。

小さすぎれば余白が目立つ。

手に持って開き、目の近くで見る。

その条件が、二十センチから三十センチという範囲を決めている。

形式が、寸法を決める。

そして寸法が、構図を決める。

余白の取り方も、線の細さも、この大きさを前提にしている。

一葉を、どう見せるか

館は、この九点をそれぞれ一件として公開している。

そして画像は、画面だけを写している。

表装の紙や、貼られていた台紙は、二点をのぞいて写っていない。

《松下に月を観る》と《山市晴嵐》には、右の縁の細い紙が写り込んでいる。

これは、その紙が画面と一体になっているからだろう。

外せない位置にある。

他の七点では、まわりが切られている。

絵だけを見せる。

この見せ方には利点がある。

構図に集中できる。

一方で、失われるものもある。

その一葉が、何に貼られていたかが見えない。

前の回に見たホイッスラーの帖では、台紙ごと写っていた。

だから、貼られていることが一目で分かった。

こちらでは、種別の欄を読まなければ分からない。

写真の切り方も、単位の示し方の一つである。

どこまでを写すかで、見えるものが変わる。

小さな絵の、見え方

最後に、この形式の見え方について書いておきたい。

九点の画面は、どれも二十センチから三十センチである。

手に持って、目の近くで見る大きさである。

画帖なら、膝の上に置いて開く。

そして、一葉ずつめくる。

一葉を見ているあいだ、他の葉は隠れている。

この見え方が、構図に影響している。

余白を大きく取っても、間が持つ。

近くで見るので、細い線も届く。

夏永の楼閣の格子や、馬麟の蘭の葉先は、離れて見れば分からない。

近くで見ることを前提にした線である。

いま、当サイトの画面では、九点が並んで表示される。

もとの見え方とは違う。

しかし、大きさの数字を読めば、想像はできる。

二十五センチ四方。

手のひらを二つ並べたくらいである。

その大きさを頭に置いてから、もう一度見てほしい。

余白の広さの意味が、少し変わって見えるはずである。

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