画家を知る

歌川広重の代表作と特徴——東海道五十三次と名所江戸百景はどう違うのか

歌川広重の代表作と特徴を、公開中の五点でたどる。雪は紙の白、雨は版木に彫った直線、夜は藍のぼかし。天気と時刻を摺りで作り分けた絵師である。『東海道五十三次』と『名所江戸百景』の紙の向き、場所、時期の違いもあわせて確かめる。

蒲原 夜の雪(東海道五十三次のうち。保永堂版)
歌川広重《蒲原 夜の雪(東海道五十三次のうち。保永堂版)》シカゴ美術館蔵

歌川広重の代表作は、『東海道五十三次』と『名所江戸百景』の二つの揃物に集まっている。広重は1797年に生まれ、1858年に没した江戸の浮世絵師である。風景を主題にした多色摺の木版画で知られる。

蒲原 夜の雪(東海道五十三次のうち。保永堂版)
歌川広重《蒲原 夜之雪》1833年から34年ごろ。館の記録では、多色摺木版。24.1×36.8センチ。番号は1925.3517。シカゴ美術館蔵。館の記録は、この揃物を保永堂版の東海道とも呼ぶ。歌川広重《蒲原 夜の雪(東海道五十三次のうち。保永堂版)》シカゴ美術館蔵

この記事では、まず広重という絵師の位置を押さえる。次に当サイトで公開している代表作を、揃物ごとに見る。そのうえで、天気と時刻の描き分けという特徴と、二つの揃物の違いをたどる。最後に、実物を見るときの手がかりと所蔵先を記す。

歌川広重とはどんな絵師か

江戸で働いた浮世絵師である。役者絵や美人画ではなく、街道と江戸の町の風景を数多く残した。花や鳥を描いた図も多い。

生まれは江戸の八代洲河岸にあった定火消同心の家である。江戸城まわりの火消しを務める下級の武士だった。1809年、数えで十三歳のときに両親を相次いで亡くし、家督と職を継いだ。

十五歳で歌川豊広に入門し、歌川広重の名を許された。ただし武士の勤めはやめず、絵師との兼業は三十代半ばまで続いた。

風景の絵師として名が出るのは、1833年に東海道の揃物を出してからである。満年齢で三十六歳、勤めを離れて制作に専念したころにあたる。それから没するまでの二十五年ほどが、風景版画の時代になる。

当サイトで扱えるのは、館がCC0として公開した画像だけである。幸い、クリーヴランド美術館とシカゴ美術館が広重の版画を多く出している。そのため代表作の多くを、実際の図版で見ることができる。

版画は絵師一人の仕事ではない。下絵を描く絵師、版木を彫る彫師、紙に色を乗せる摺師、そして出版する版元がいる。摺りとぼかしの手順については歌川広重の雨・雪・夜の描き方で扱った。

広重の代表作はどれか

代表作は保永堂版の『東海道五十三次』と、晩年の『名所江戸百景』である。この二つに、渓斎英泉と分けて描いた『木曽海道六十九次』が続く。以下、当サイトで公開している図で順に見る。

二つの揃物は何枚あるのか

『東海道五十三次』は全五十五図である。五十三の宿場に、起点の日本橋と終点の京都を加えている。1833年に刊行が始まり、翌1834年に揃った。

はじめは保永堂と僊鶴堂が共同で出し、のちに保永堂の単独の出版になった。館の記録が「保永堂版」と呼ぶのはこのためである。保永堂の主人は竹之内孫八で、館の記録にも版元としてその名が出る。共同の版元だった僊鶴堂は、鶴屋喜右衛門の店である。

広重はその後も東海道を何度も描いたため、版元の名で区別する。1849年ごろに丸屋清次郎が出した版は、題を隷書で書くことから「隷書東海道」と呼ばれる。

『名所江戸百景』は1856年から1858年にかけて、版元の魚屋栄吉が出した。広重の百十八図に、二代広重の一図と目録を加えた百二十図からなる。百景と名乗りながら、実際は百を超える。図は春夏秋冬の四つの季節に分けられている。

刊行が始まったのは、1855年の安政の大地震の翌年である。クリーヴランド美術館の解説は、《大はしあたけの夕立》を地震と火災の二年後の刊行と位置づけている。

『東海道五十三次』の雪と雨

一点目に挙げた《蒲原 夜之雪》は、保永堂版の一図である。雪が積もった坂道を三人が歩く。左に一人、右に二人で、どの人も笠や蓑に身を縮め、顔は見えない。

家の屋根も山も白く塗り残されている。空は上端が明るく、山の稜線に近づくほど暗い灰色になる。降る雪は、その暗い空に散る小さな白い点で表される。色はほとんど使われず、紙の白と灰色と墨の黒の三つの調子で雪の夜が組み立てられている。色が付くのは、人の衣や蓑と、題の印くらいである。

庄野 白雨(東海道五十三次のうち)
歌川広重《庄野 白雨》1833年。館の記録では、多色摺木版。番号は1948.306。クリーヴランド美術館蔵。歌川広重《庄野 白雨(東海道五十三次のうち)》クリーヴランド美術館蔵

同じ揃物の《庄野 白雨》では、雨が斜めの細い線で画面を覆う。坂は右下から左上へ上がっている。駕籠かきは駕籠を担いで坂を左へ駆け上がる。傘を前に構えた人と蓑を着た人は、右へ駆け下りる。

館の解説は、これを二組の旅人と読む。背後の竹林は濃さの違う三つの灰色で重ねられ、そのために版木が三枚要ったと館は記す。奥ほど色が薄く、形が雨に溶ける。

駆け下りる人の傘には、版元の竹内の名と揃物の題の一部が書かれている。宿場の家は、右下に屋根がのぞくだけである。急な雨に追われる動きだけで、場面が成り立っている。

『名所江戸百景』の夕立

大はしあたけの夕立(名所江戸百景より)
歌川広重《大はしあたけの夕立》1857年。館の記録では、紙に墨と色による多色摺木版。35.3×23.2センチ。番号は1921.318。クリーヴランド美術館蔵。歌川広重《大はしあたけの夕立(名所江戸百景より)》クリーヴランド美術館蔵

《大はしあたけの夕立》は百景の一図で、縦長の紙を橋が斜めに渡る。館の記録では、隅田川に架かる大橋を描き、遠くに安宅の町並みが見える。橋の上では、人々が逆の方向へ急ぐ。

雨は上から下まで通る長い直線で表される。線の角度は一様でなく、わずかに違う向きの線が交じる。川の向こう岸は灰色の帯になり、川面には筏を操る人が一人だけいる。

画面の上端には、黒い雲がむらのある形で垂れ込める。太田記念美術館の展覧会解説は、これを「あてなしぼかし」と呼ばれる不定形のぼかしとする。この一点は歌川広重《大はしあたけの夕立》の解説で詳しく扱った。

『木曽海道六十九次』はだれが描いたのか

江戸と京都を内陸の山道で結ぶ街道の揃物で、渓斎英泉と広重が分けて描いた。英泉が二十四図を手がけ、広重が引き継いで残りを描いた。中山道広重美術館の展覧会解説では、広重の分は異版を含めて四十七図で、刊行は1835年から38年ごろとされる。

長久保(木曽街道六十九次のうち・第二十八)
歌川広重《長久保》1835年または36年。館の記録では、多色摺木版。22.8×35.4センチ。番号は1942.144。クリーヴランド美術館蔵。歌川広重《長久保(木曽街道六十九次のうち・第二十八)》クリーヴランド美術館蔵

《長久保》は月夜の図である。満月が松の枝の上に浮かび、長い橋を渡る人と馬が影絵のように黒く抜かれる。館の記録は、この橋を和田橋とする。

手前の岸では、男が荷を積んだ馬を引き、二人の子どもが二匹の犬と遊ぶ。川は左下で深い藍に沈み、遠くの山は灰色の面になる。

橋の上の人は黒い影だが、手前の人と馬には色が付いている。遠くを影に、近くを色にすることで、月の光が手前まで届いていることが分かる。夜の図でも、真っ暗にはしていない。

広重の特徴は天気と時刻の描き分けにある

広重の画面では、天気と時刻が主題の位置に来る。雪、雨、夕立、夜が、それぞれ別の方法で刷り分けられている。

雪は紙の白をそのまま残す。雨は版木に彫った直線で引く。夜は藍や灰色を広く敷いて沈める。筆で描くのではなく、摺りの手順で天気を作っている。

《蒲原》と《庄野》を並べると、その違いが分かる。雪の図では白い面が画面の大半を占め、線はほとんど見えない。雨の図では逆に、細い線が一方向にそろって走る。

空の上端に帯状の色を置き、下へ向けて薄めていく摺りは、一文字ぼかしと呼ばれる。帯が漢数字の一に似るための名である。版画を見るときは、まず空の上端を見るとよい。

ただし《蒲原》は逆で、空は上が明るく下が暗い。山の白を浮かび上がらせるために、暗さを稜線の側へ集めている。同じぼかしでも、どこを濃くするかで場面が変わる。

同じ図でも、早い摺りと後の摺りでは色やぼかしが違うことがある。あてなしぼかしのように、摺るたびに形が変わる技法もある。館ごとに同じ図の印象が異なる理由の一つは、ここにある。

両国花火(名所江戸百景より)
歌川広重《両国花火》1858年。館の記録では、多色摺木版。33.7×22センチ。番号は1940.986。クリーヴランド美術館蔵。歌川広重《両国花火(名所江戸百景より)》クリーヴランド美術館蔵

《両国花火》は百景の夜の図である。館の解説が言うとおり、画面のほぼ半分を夜空が占める。花火は白い小さな星形の集まりとして散り、細い光の筋が一本、昇って折り返す。

川面は逆に明るい水色で、屋根船や小舟がいくつも浮かぶ。暗い空と明るい水面を上下に分けることで、夜なのに賑わいが見える。

橋の上には人の列が続く。一人ずつの顔は描かれず、点と線の集まりで人出の多さだけが伝わる。館の記録によれば、花火は川沿いの料理屋などが出し、人々は橋や岸や舟から眺めた。

松に鸚鵡
歌川広重《松に鸚鵡》1835年ごろ。館の記録では、多色摺木版。37.8×16.7センチ。番号は1932.169。シカゴ美術館蔵。歌川広重《松に鸚鵡》シカゴ美術館蔵

風景以外では、花鳥を縦長の紙に収めた図がある。館の記録は、この判型を大短冊とする。《松に鸚鵡》では細長い画面に松の枝が二方向から入り、赤い羽の鳥が中ほどに止まる。

左上には二行の漢詩が書き入れられている。初めの句の「十八公」は、松の字を十と八と公に分けた言い方である。絵の松と詩の松が、一つの画面で重なる。

『東海道五十三次』と『名所江戸百景』はどう違うのか

違いは、紙の向き、描く場所、制作の時期、まとめ方の四つにある。東海道は横長の紙で街道の宿場を順に追い、百景は縦長の紙で江戸の名所を季節ごとに集める。間には二十年以上の開きがある。

一つ目は紙の向きである。館の記録では、東海道の《蒲原》は24.1×36.8センチの横長にあたる。これに対し、百景の《大はしあたけ》は35.3×23.2センチの縦長である。

横長の紙では、街道が左右に伸びる。縦長の紙では、橋や木や雨が上下に通る。同じ絵師でも、画面の向きが変われば構図の作り方が変わる。

広重は東海道そのものも、のちに縦長の紙で描き直している。《五十三次名所図会》がそれで、竪絵東海道と通称され、中山道広重美術館も所蔵する。同じ宿場を横長と縦長で比べると、紙の向きが構図を決めることがよく分かる。

二つ目は場所である。東海道は江戸から京都までの街道の宿場を順に追う。百景は江戸の町なかと近郊の名所を集める。

三つ目は時期である。館の記録では、東海道は1833年から34年ごろ、百景は1856年から58年にあたる。東海道は三十代の仕事、百景は没する直前までの仕事である。

四つ目はまとめ方である。東海道は宿場の順に並ぶが、百景は春夏秋冬に分けられた。同じ江戸の風景を、季節の巡りとして見せている。

縦長になった百景では、近くの物を大きく手前に置く図が増える。橋の欄干や舟が画面の下半分を占め、遠景は上に押し上げられる。

月の岬(名所江戸百景より)
歌川広重《月の岬》1857年。館の記録では、多色摺木版。33.9×22.8センチ。番号は1985.320。クリーヴランド美術館蔵。歌川広重《月の岬(名所江戸百景より)》クリーヴランド美術館蔵

《月の岬》はその極端な例である。見る人は座敷の縁側に置かれ、畳の向こうに海と満月を見る。館の解説によれば、月見の宴が終わったところを描いている。

左の障子には、髪を結い上げた人の影が映る。右端には座ったままの人の着物がのぞき、膳や器が畳に残る。人はほとんど姿を見せず、影と裾と器だけで宴の名残を伝える。

空には雁の列が渡り、湾には多くの船が浮かぶ。手前の右下には松の枝が大きく入る。近くの座敷と遠くの海を一枚に重ねるのは、縦長の紙だからこそできる構図である。

出雲大社ほとほとの図(六十余州名所図会より)
歌川広重《出雲大社ほとほとの図》1853年。館の記録では、紙に墨と色による多色摺木版。34.3×22.9センチ。番号は1985.311。クリーヴランド美術館蔵。歌川広重《出雲大社ほとほとの図(六十余州名所図会より)》クリーヴランド美術館蔵

縦長の風景は、百景で急に始まったわけではない。諸国の名所を集めた1853年の《出雲大社ほとほとの図》も、すでに縦長である。霧の中に杉の幹が縦に立ち、右奥に鳥居の影が見える。

手前には頭から衣をかぶった三人の女性が立ち、左奥には二つの人影がかすむ。縦の幹で画面を区切り、霧の濃淡で奥行きを出す作り方が、百景につながる。

広重の版画はどこから見ればよいか

一枚の前に立ったら、題の書かれた短冊と、空の上端と、人の動きの三つを順に見るとよい。題で場所と時刻が分かり、空で天気が分かり、人の向きで場面の動きが分かる。

題の短冊には、揃物の名と場所の名が並ぶ。《蒲原》の右上には「東海道五拾三次之内」と「蒲原」とあり、「夜之雪」が赤い印の中に入る。

次に空を見る。《両国花火》のように画面の半分が暗ければ夜である。《大はしあたけ》のように黒い雲が上から垂れれば、天気の急変を表す。《蒲原》のように暗さが稜線の側に寄る図もある。

最後に人を見る。広重の人物は小さく、顔もほとんど描かれない。それでも、傘をすぼめる手や、駆ける足の向きで、雨の強さや坂の傾きが伝わる。

余白の印にも目を向けたい。《庄野》の左下には、版元の名を入れた大きな赤い印がある。《蒲原》の左下の丸い印には「竹内」とある。どちらも同じ版元から出たことが、印から分かる。

広重の作品はどこで見られるか

当サイトでは、歌川広重の画家ページに公開中の作品が並ぶ。雪の一図は《蒲原 夜之雪》の作品ページで大きく見られる。

実物はシカゴ美術館とクリーヴランド美術館にある。版画は光に弱いため、常に展示されるとは限らない。展示の有無は館の発表で確かめてほしい。当サイトはこれらの館と関係が無い。

国内では、東京の太田記念美術館や、岐阜県恵那市の中山道広重美術館が広重の版画を多く持つ。中山道広重美術館は、浮世絵が熱や光に弱いことから常設展示をせず、企画展で入れ替えて見せている。

版画は同じ図が何枚も刷られるため、一つの図を複数の館が持っていることも多い。館ごとに摺りの早さや色の残り方が違うので、見比べる楽しみもある。

海外ではどう見られてきたか

広重の版画は、海外でも早くから集められた。ファン・ゴッホは自分で集めた日本の版画をもとに、広重の図を二点、油彩で写している。どちらもアムステルダムのファン・ゴッホ美術館にある。

一点が《大はしあたけの夕立》で、1887年にパリで描いた《雨の橋》になった。館の解説によれば、色を原画より強くし、余白に他の版画から写した文字を描き込んだ。

もう一点は百景の《亀戸梅屋舗》を写した《花咲く梅の園》である。館の解説によれば、構図はほぼ正確に写し、黒と灰色だった幹を赤と青の調子に置き換えた。浮世絵が西洋の画家に与えた影響は、ジャポニスムとはでまとめている。

ARTISTS関連する画家

SAME ARTIST同じ画家のコラム

RELATEDあわせて読みたい

画家を知るの記事一覧
  • 画家を知る

    ホイッスラーの代表作と特徴——なぜ題に《ノクターン》と付けたのか

    ホイッスラーの代表作と特徴を、公開中の8点から読む。クリーヴランド美術館の記録では、《ノクターン》という題は後援者フレデリック・レイランドの提案だった。テムズ川の灰色から音楽の題、蝶の署名、版画家としての仕事までを順に見る。

  • 画家を知る

    葛飾北斎の代表作と特徴——なぜ同じ富士を46図も描いたのか

    葛飾北斎の代表作と特徴を、当サイトで公開中の8点から読む。シカゴ美術館の記録では、70歳で始めた『富嶽三十六景』は36図ではなく46図ある。ベロ藍の青、富士の置き方、滝と橋の連作、改名の跡までを、各館の記録とあわせて順に見ていく。

  • 画家を知る

    サージェントの代表作と特徴——なぜ絹とサテンばかりが光るのか

    サージェントの代表作と特徴を、当サイトで公開中の8点から読む。上流社会の等身大肖像で名を上げ、やがて注文を減らして風景と素描へ移った画家である。白いサテン、黒いレース、山の岩。筆の置き方がどう変わったかを、館の記録とあわせて順に見る。