エル・グレコ《ラオコーン》の解説——奥の町はどこで、誰が描かれているのか
エル・グレコ《ラオコーン》の解説。館の記録では1610年から1614年ごろの作で、ナショナル・ギャラリー(ワシントン)が所蔵する。蛇に襲われる神官と息子たち、奥に見える塔と橋の町、細長く伸びた身体を、CC0の画像4点で読む。

《ラオコーン》は何を描いた絵か
蛇に襲われる父と息子たちの場面である。
古代の物語では、トロイアの神官ラオコーンが、息子とともに海から来た蛇に絞め殺される。エル・グレコは、その一場面を横長の画面に収めた。
出典は、古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』である。ギリシア軍が残した木馬を、ラオコーンは町へ入れるなと説き、槍を突き立てた。その直後に海から二匹の蛇が現れ、神官と息子たちを襲う。警告した者が、神々に罰せられる話である。
所蔵館の解説は、罰の理由をこう書く。木馬は女神アテナに捧げられた品で、それに槍を投げたことが神々の怒りを買った。
当サイトの在庫にあるこの画家の作品を見ると、神話を主題にした絵はこの一点だけである。ほかは聖書の場面と肖像、そして風景である。

《ラオコーン》では、人物が画面の下半分に集まる。
中央の白髭の男がラオコーンである。灰黒色の岩に仰向けに倒れ、膝を折り、両手で蛇の胴をつかむ。蛇は開いた口を、男の髪に触れんばかりに寄せている。
左端では若い男が一人、体を反らせて立つ。両手で頭上に弧を描く蛇をつかみ、その牙は男の脇腹へ迫る。
父の右側には、黒髪の若い男が頭をこちらへ向けて横たわる。館の解説では、この息子はすでに死んでいる。父と、立って戦う息子の二人だけが、まだ蛇と組み合っている。
死と、まだ生きている抵抗とが、同じ岩の上に並ぶ。倒れた息子の手は頭の上で地面に投げ出され、立つ息子の腕はまだ上がっている。
画面は横に長い。館の記録では、縦137.5センチ、横172.5センチである。
地平線は、画面の下から三分の二ほどの高さにある。その上では灰と白の雲がもつれ、青い空を裂くように走る。
蛇は二匹で、どちらも人の体に絡む。手前の地面は灰黒色の岩場で、草は生えていない。
物語の残酷な場面なのに、血は描かれていない。見えているのは、ねじれた体と蛇の胴、そして空である。
初めて見るときは、目を三か所に順に置くとよい。まず中央の父の顔、次に左の息子が掲げる蛇、最後に奥の町と馬である。
父の目は上を向き、蛇の頭を見ている。左の息子は反り返り、視線を空へ投げる。どちらも、自分を襲うものから目を離していない。
そこから奥へ目を移すと、町へ向かう小さな馬に行き当たる。手前の死闘と、奥で静かに進む馬とが、同じ画面で同時に起きている。
奥に見える町はどこか
スペインの町トレドである。所蔵館の解説は、画家が場面をギリシアではなく、自分が移り住んだトレドに置いたと書く。
画面の奥には、桃色と赤の壁が並ぶ町が、浅い谷に寄り集まって見える。同じ画家は、この町そのものを主役にした絵も残している。

《トレド風景》は、トレドの町を描いた風景画である。
高い丘の上に建物が密集し、四角い塔と細く尖った尖塔が突き出す。中央左の丘には城壁と塔が連なり、その下を橋が谷を渡る。
二点を並べると、空の扱いが近い。どちらも空は青黒く、雲が白い筋になって斜めに走る。古代の物語が、画家の住んだ町を背にして起きている、と読める。
《トレド風景》では、丘の斜面に明るい黄緑の草地と褐色の道が交差する。人物は一人も描かれていない。
《ラオコーン》では、その町並みが小さく退き、手前の人体に場所を譲る。風景が主役だった構図が、背景に回されている。
町へ向かう道には、小さな黄褐色の馬が一頭いる。こちらに背を向け、前脚を一本上げて、岩陰から町のほうへ進んでいく。
館の画像説明は、これを「褐色の馬」と書くにとどめる。ただ、物語の中で町に入る馬は、ギリシア軍の木馬しかない。この馬を木馬と重ねて読むと、町が落ちる結末が画面の奥ですでに動き出していることになる。
画家は1576年にスペインへ渡り、その後トレドに落ち着いて、1614年にこの町で没した。《ラオコーン》は、その最晩年の数年に描かれている。
なぜトロイアをトレドにしたのかは、分かっていない。館の解説は、争いと神の罰という主題を、当時トレドで激しかった異端審問と結びつけたのではないか、と問いの形で書く。答えは出しておらず、決め手はない。
右に浮かぶ人物は何者か
誰なのかは、まだ決まっていない。所蔵館の解説は、この描きかけの人物たちを、罰を見届ける神々かもしれないと書き、議論が続いているとする。
画面の右端には、裸の人物が寄り集まる。いちばん手前の一人は背をこちらへ向け、横顔で左の惨劇を見る。
その奥の一人も左を見る。さらにもう一つの頭は逆を向き、画面の右の外へ目をやる。数えると頭は三つある。
三人は地面に立っていない。館の画像説明が書くとおり、足先が宙に垂れ、浮いているように見える。
蛇と組み合う左の群れとは違い、この三人は動きを止めている。足もとに蛇はおらず、事件に手も出さない。
見る側は、罰を下した者とも、ただ見ている者とも取れる姿を、同じ画面で見ることになる。
館の修復記録には、右端の人物を「女性の像」と呼ぶ箇所がある。少なくとも一人は女性として描かれている、と館は見ている。
絵は、誰が誰かを説明していない。物語の筋を絵から読み切ろうとすると、ここで手が止まる。分かるのは、人物の数と姿勢と位置だけである。
なぜ身体はねじれて細長いのか
晩年の作品では、人体が縦へ引き伸ばされ、輪郭が背景に溶ける。
所蔵館の解説は、画家が自然を写すだけでなく、見る者の心に働きかける絵を求めたと書く。細長くねじれた人体、ゆがんだ空間、ぶつかり合う色は、そのための手段だった。

《ヨハネの幻視》では、裸の人体が横一列に立ち並ぶ。うつむく者、腕を上げる者、背を向ける者が混じる。
人体はいずれも細長く、腰から脚までが長い。上方では小さな裸の子どもたちが、黄と緑の大きな布を持ち上げるように浮かぶ。
この絵も《ラオコーン》と同じ最晩年の作である。館の記録の寸法欄には、画面の上端が切り詰められているという注記がある。後から足した細い布を含めると、224.8×199.4センチになる。
《ラオコーン》の人物も、同じ引き伸ばしを受けている。肩幅は狭く、脛は長く、胴は細い。膝から下が長いぶん、立つ姿が実際より高く見える。
倒れた人物でも、伸びた形は変わらない。横たわる体は、画面の幅をほとんど使い切る長さになる。
肌の色も、生身の人間らしくない。象牙のような白に桃色の明るみを差し、深い灰色の影を筋のように入れる。館の解説は、この色と輪郭が人物を亡霊のように見せると書く。
同じ主題には、名高い古代の彫刻がある。1506年にローマで掘り出された大理石の群像《ラオコーン》である。ヴァチカン美術館によれば、教皇ユリウス二世がすぐに買い取り、それ以来ほぼ同じ場所に置かれている。
館の目録は、作者をロドス島の三人の彫刻家とし、パロス島産の大理石で紀元前40年から20年ごろの作とする。掘り出されたのは、ローマの丘の上のぶどう畑だった。
画家は1570年から1576年までローマで働いた。この群像はすでに教皇の彫刻の庭にあり、画家が実物を見ていた可能性は高い。ただし、見たと書いた記録は確かめられない。
並べると違いがよく分かる。彫刻では、父と二人の息子が一つの塊に組み合い、上へ伸び上がる。絵では、人体は地面に横たわり、左右へ散る。古い名作と同じ主題で、まったく違う組み立てを示したことになる。
画家はローマへ出る前、1567年からヴェネツィアで学んでいた。メトロポリタン美術館の解説は、ティツィアーノに倣い、ティントレットらの絵を熱心に学んだと書く。ヴェネツィアの大家の筆は、ティツィアーノ《鏡を見るヴィーナス》の解説で見ている。
描きかけの頭と脚は修復で見つかったのか
そうである。右の三つ目の頭と、立つ二人の間に見える五本目の脚は、1955年の洗浄と修復で上塗りの下から現れた。館の技術記録に、そう書かれている。
修復を手がけたのは、修復家マリオ・モデスティーニである。
それまでの絵には、後の手が加わっていた。左端と右端の人物には腰布が描き足され、右の女性像には大きくふくらませた髪形が足されていた。修復でこれらを取り除き、画家の描いた状態に近づけた。
右の人物が宙に浮いて見えるのも、脚が一本多く見えるのも、仕上がる前の姿が残っているためである。描き足しや修復の誤りではない。
技法も、館の調査で分かっている。目の細かい平織りの布に白い下地を塗り、その上に薄い赤の下塗りを重ねた。
この赤い下塗りは、多くの場所で塗り残されている。人物の輪郭や岩の陰に見える赤みは、その色がのぞいているものである。
絵具は不透明な層で厚く置き、明るい部分には薄くこすりつけるように重ねた。盛り上がった厚塗りはないが、筆の跡は生きていて手ざわりがある。
エックス線の写真では、構図の描き直しはわずかしか見つかっていない。画家は迷わずに描き進め、右の人物群を仕上げる前に手を止めたことになる。
左端の人物の喉と胸と脚、ラオコーンの上げた脚には、大きな絵具の欠けがあり、修復で補われている。館は現在の状態を「まずまず」と評価している。
この絵はどこから来たのか
画家の死後、トレドの工房に残っていたと考えられている。所蔵館の来歴の記録は、二つの財産目録を根拠に挙げる。
1614年の画家の遺産目録には、「小さなラオコーン」が二点、「大きなラオコーン」が一点ある。画家は同じ主題を、少なくとも三点手がけていたことになる。
1621年には、息子ホルヘ・マヌエルの財産目録に「幅二バーラ、高さ一と三分の二バーラのラオコーン」が載る。一バーラは約84センチなので、幅およそ168センチ、高さおよそ140センチになる。ワシントンの絵の寸法に近い。
館は、この絵が1614年の「小さな」二点の一つだったとみる。息子ホルヘ・マヌエルも画家で、父の工房で働いていた。館の記録は、目録の点数の食い違いから、息子か工房の誰かが大きな写しをもう一点作った可能性にも触れる。
画面の左下には、「104」という数字が書き込まれている。館の記録では、どの目録の番号かは分かっていない。
十七世紀のスペイン王家の目録にも、ほぼ正方形の大きなラオコーンが載る。館はこれを失われた大きな作とみて、ワシントンの絵とは別のものとしている。
十九世紀には、セビーリャのモンパンシエ公の収集品に入っていた。1910年にはパリの画商デュラン=リュエルの手にあり、同じ年にミュンヘンのエル・グレコ展に出品された。
1915年にはベルリンの画商カッシーラーが持っていた。1923年までには、ピアニストのエトヴィン・フィッシャーの所蔵になる。
1934年には、ユーゴスラヴィアのパヴレ王子夫妻の持ち物になった。同じ年から翌年の末まで、ロンドンのナショナル・ギャラリーに預けられた。
第二次世界大戦中、王子は南アフリカに身を寄せていた。その間、この絵は王子の手配で、ワシントンのナショナル・ギャラリーに預けられて守られた。
1946年、サミュエル・クレス財団が買い取り、同じ年に館へ贈った。いまの番号1946.18.1は、このときのものである。
館に入ってからも、この絵は何度も海を渡った。1982年からの「トレドのエル・グレコ」展では、プラド美術館などを巡回した。没後400年にあたる2014年には、プラド美術館の「エル・グレコと近代絵画」展に出ている。
《ラオコーン》はどこで見られるか
ワシントンのナショナル・ギャラリーである。当サイトの画像も、この館が公開したものを使っている。
館の記録の番号は1946.18.1で、サミュエル・クレスの収集品として館に入った。館はこれを、画家の知られている唯一の神話画としている。晩年の作だが、聖書の場面が並ぶ同じ時期の仕事の中で、主題だけが古代へ飛んでいる。
エル・グレコは1541年にクレタ島で生まれた。呼び名はスペイン語で「ギリシア人」を意味する。
当サイトは美術館の公式サイトではない。掲げているのは、各館がCC0として公開した画像だけである。

《枢機卿フェルナンド・ニーニョ・デ・ゲバラ》は、ニューヨークにある。赤紫の長衣が光を受け、面ごとに銀白へ波打つ。
丸い枠の眼鏡をかけ、白い顎鬚をたくわえた人物が、椅子に腰かけて全身を見せる。足もとには折り目のついた白い紙が一枚落ちている。
同じニューヨークの館には、《トレド風景》と《ヨハネの幻視》もある。館の記録では、《トレド風景》とこの枢機卿の肖像は、どちらも1929年にハヴマイヤー夫人の遺贈で館に入った。三点を見てから《ラオコーン》に戻ると、町と人体と色の扱いが一本につながって見える。
当サイトでは、シカゴ・ワシントン・ニューヨークの三つの館にあるエル・グレコを見られる。聖書の場面が多く、肖像と風景がそれに続く。
神話の場面は《ラオコーン》だけである。同じ画家の中で、この一点だけが主題の系統から外れている。
同じスペインで働いた画家では、ゴヤの絵も四つの館から入っている。フランシスコ・デ・ゴヤの代表作と特徴では、宮廷の肖像から晩年の筆までをたどった。



