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エル・グレコ《トレド風景》の解説——大聖堂はなぜ場所を移されたのか

エル・グレコ《トレド風景》の解説。日本語では《トレドの眺望》とも呼ばれる。館のカタログは、画家が大聖堂を実際より左へ移したと記す。どこから見た眺めか、雲の上の建物群は何か、誰が持っていた絵かを、メトロポリタン美術館の記録と画面から順に読む。

トレド風景
エル・グレコ《トレド風景》メトロポリタン美術館蔵

スペイン中部の都市トレドを描いた風景画である。所蔵するメトロポリタン美術館のカタログは、これをエル・グレコが残した現存する風景画のうちもっとも優れた一点と書く。日本語では《トレドの眺望》《トレドの景観》とも呼ばれる。

トレド風景
エル・グレコ《トレド風景》1599年から1600年ごろ。館の記録では、カンヴァスに油彩。121.3×108.6センチ。番号は29.100.6。メトロポリタン美術館蔵。エル・グレコ《トレド風景》メトロポリタン美術館蔵

《トレド風景》はどこを描いた絵か

丘の上の町と、その上を覆う嵐の空である。町は画面の中ほどに低く収まり、残りはほとんど空と斜面で占められている。

画面の上半分は、灰青と黒が入り混じる空になる。雲は白い筋となって斜めに走る。その下に緑の丘が幾重にも重なる。

右手の高い丘には建物が密集し、四角い塔と細く尖った尖塔が突き出す。中央左の丘には城壁と塔が連なり、その下を橋が谷を渡る。

手前には濃い緑の木立が固まり、川が細く光りながら下へ流れる。水面には小さな石造りの構築物が架かる。左端には灰色の建物の一群が、地面から浮くように置かれている。

館の記録では、カンヴァスに油彩で、縦121.3センチ、横108.6センチである。収蔵番号は29.100.6。1929年のハヴマイヤー夫人の遺贈で美術館に入った。

画面の右下にはギリシア文字の署名がある。館の記録はこれを、ドメニコス・テオトコプーロスがこれを作った、と読む。

これが画家の本名である。エル・グレコはスペイン語でギリシア人を指す呼び名で、本人の署名ではない。

館の記載では、画家は1541年にクレタ島のイラクリオン(カンディア)に生まれ、1614年にトレドで没した。音声解説は、島でまず東方正教会のイコンを学んだと述べる。

日本語の題は一定しない。《トレド風景》《トレドの眺望》《トレドの景観》はどれも同じ一点を指す。

館の解説は、この絵を記録ではなく心情の風景と位置づける。町の輪郭を想像で描き替えている、という見方である。

画面の形は正方形に近い

縦121.3センチ、横108.6センチ。縦がわずかに長いだけで、ほぼ正方形である。

風景画としては珍しい形で、横に広く見渡す絵ではない。空へ向かって縦に積み上げる絵になっている。

この形は、のちに見る財産目録の記載とも関わる。カタログは、カンヴァスが後世に切り詰められていると注記している。

なぜ大聖堂は本来の位置にないのか

画面に入らない場所にあったからである。

館のカタログは、トレドが北側から描かれていると書く。そのうえで、この画面はタホ川の上にあたる町の東端だけを切り取っているとする。

この切り取り方では、大聖堂は本来なら画面の外に出てしまう。そこで画家は、大聖堂を想像でアルカサル(王宮)の左へ移した。カタログはそう説明する。

アルカサルは画面右手の丘の頂きにある。ひときわ大きい四角い塊として描かれ、周りの建物より頭一つ高い。

そこから建物の列が急な斜面を下り、ローマ時代のアルカンタラ橋へ続く。タホ川の向こう岸、やや左寄りに見えるのがサン・セルバンド城である。

つまり、見えている地形と建物は実在する。入れ替えられたのは並び順と大きさの比である。

館の音声解説は、画家が大聖堂と王宮をことさら目立たせたと述べる。現在のトレドの写真と見比べて違うと感じるのは、見る側の記憶違いではない。

写真と照らすときは、まず橋と川の位置を合わせるとよい。地形は合い、建物だけがずれていることが確かめられる。

トレドは、タホ川が深い谷を刻んで町を囲む高台にある。だから北から見ると、町は川の向こうに壁のように立ち上がる。

画面でも、川と谷が町の手前を横切る。町へ入るには橋を渡るほかない、という地形がそのまま出ている。

絵の中で道を目で追うと、橋から丘を登る順路が見える。画家は町の入口から順に、見る側の目を上へ運んでいる。

館のカタログは、この絵を紋章のような都市図の伝統に連なるものと書く。ブラウンとケイガンの見方である。

そして、絵の力はまさに描き替える自由から来るとする。肖像画と同じく、記録ではなく解釈だという説明である。

町の実際の姿ではなく、町の本質を描こうとした絵だ、とカタログは結んでいる。

雲の上に乗った建物群は何か

何の建物かは決まっていない。館のカタログは、サン・セルバンド城の下に、雲のような形の上に乗った建物の一群があると書く。

同じ画家の《トレドの景観と地図》(トレドのエル・グレコ美術館蔵)では、タベラ施療院が雲の上に持ち上げられている。その絵には、施療院が市門を隠さないようにこの方法を採ったと、画家自身の銘が記されている。カタログはそう伝える。

この前例をもとに、研究者のブラウンとケイガンは1982年に一つの推測を示した。《トレド風景》の建物の一群は、アガリエンセ修道院かもしれないという見方である。

アガリエンセ修道院は、トレドの守護聖人である聖イルデフォンソが籠った場所とされる。カタログは、画家が町の精神的な肖像にこの修道院を欠かせないと考えた可能性を記す。

聖イルデフォンソ
エル・グレコ《聖イルデフォンソ》。所蔵館は1603年から1614年ごろの作とする。カンヴァスに油彩。112×65.8センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。エル・グレコ《聖イルデフォンソ》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

その聖人を描いた一点も、当サイトで公開している。机に向かって書きものをする姿で、同じ画家の晩年の作である。

ただし、雲に乗っているという読みには異論もある。建物のあたりには歩く人の姿が見えるからである。カタログはその指摘を紹介したうえで、この形をほかに説明する方法はないと書く。

ここは分かっていないが答えになる。断定された説明を探して読むと、かえって絵から離れてしまう。

なぜ修道院が候補に挙がるのか

注文主の関心から逆算した推測である。カタログは、ケイガンがペドロ・サラサール・デ・メンドーサを二点の成立の鍵と見ていると書く。

この人物はタベラ施療院の管理者だった。地図への関心が、《トレドの景観と地図》の性格を説明しうるとされる。

さらに聖イルデフォンソへの関心が深く、聖人が籠ったアガリエンセ修道院の場所を突きとめようとしていた。

そこから、雲の上の建物を修道院と読む案が出てくる。絵の中の形だけを見て導かれた説ではない。

空と光はどう描かれているか

町よりも空に面積が割かれている。縦長の画面の、上半分近くが空である。

雲は白く、刷毛の跡が残る太い筋で描かれる。その切れ目から光が差し、丘の草地だけが黄緑に明るむ。

建物の壁は、光を受ける面が白く、影の面は灰になる。壁の色は石そのものの色ではなく、空の明暗に従っている。

川と木立は深い青と暗緑で、互いの境目がぼける。全体は緑と青灰に統一され、雲の白と水の面だけが明るい。

奥行きは、線ではなく色の明暗で作られている。手前の木立がもっとも暗く、丘が中ほど、空がもっとも明るい。

館の音声解説は、この風景画が画家の作品のなかでほとんど例のないものだと述べる。たしかに当サイトの在庫でも、風景を主役にした一点はこれだけである。

同じ解説は、嵐の空が神と自然の力を示すとも言う。空が建物を暗くし、木の葉を毒々しい緑に変えている、という読み方である。

形が浮き、ねじれて見える扱いは、この画家の人物像にも共通すると解説は続ける。風景と人体が同じ手で作られている、ということになる。

初期の作品と比べると違いが見える

盲人を癒すキリスト
エル・グレコ《盲人を癒すキリスト》1570年ごろ。館の記録では、カンヴァスに油彩。119.4×146.1センチ。番号は1978.416。メトロポリタン美術館蔵。エル・グレコ《盲人を癒すキリスト》メトロポリタン美術館蔵

イタリア時代の《盲人を癒すキリスト》では、床の方形の敷石と左右の建築が、奥の一点へ向かって縮んでいく。人物は床の線の上に立ち、どこにいるかが測れる。

約30年後の《トレド風景》には、その種の線が一本もない。丘と空の明暗だけで距離が示される。

エル・グレコが何を手放して何を得たかは、この二点を並べると見当がつく。館の音声解説は、画家がヴェネツィアでイタリア絵画に触れ、のちにトレドに住みついたと述べる。色で空間を作る手は、その経歴の延長にある。

ヴェネツィアの絵そのものについては、ティツィアーノ《鏡を見るヴィーナス》の解説でも扱っている。

リルケとフィッツジェラルドが見たもの

1908年、パリでこの絵を見た詩人リルケは、彫刻家ロダンへ手紙を書いた。カタログはその文面を引く。

砕けた光が地面を耕し、木々は眠れぬ者のように立つ、という書き方である。町は丘の斜面を大聖堂へ、さらに上の四角い城へと急いで登る、とも書いている。

1920年、絵は美術館の開館50年の展覧会に貸し出された。カタログは、作家フィッツジェラルドがそのときに見たらしいと記す。

『グレート・ギャツビー』の終わり近くには、ロングアイランドの家並みをエル・グレコの夜の風景にたとえた箇所がある。嵐の空が20世紀の読者に何を見せたかは、この二つの反応に残っている。

誰が持っていた絵か

目録をたどると、画家の手元から始まる。

館のカタログは、1614年に作られた画家の遺産目録に風景画が3点あると書く。トレド1点と、トレドの風景2点である。

1621年から22年の、息子ホルヘ・マヌエルの財産目録にも同じ3点が現れる。寸法は、1点が横長で、残る2点がほぼ正方形だった。

正方形の2点は、一辺が約43.75インチと記される。およそ111センチで、いまの画面とは完全には一致しない。

それでもカタログは、この絵が正方形の2点のどちらかである可能性を認める。切り詰められた分を考えれば、近い寸法だからである。

横長の1点は、ふつう《トレドの景観と地図》に当てられる。ただしカタログは、その絵の実寸が目録の数字と合わないと注記する。

同じ1621年の目録には、ほかに風景画が6点ある。描きはじめか未完成とされ、作者も主題も書かれていない。

1629年には、画家の友人で庇護者だったペドロ・サラサール・デ・メンドーサの目録に、トレドの絵が2点載る。うち1点は、アルカンタラ橋のほうを望むトレドの風景と書かれている。カタログは、この記述が画面の視点と合うとする。

1632年から39年の目録では、アルコス伯ペドロ・ラソ・デ・ラ・ベガの蔵品に風景画2点が見える。

枢機卿フェルナンド・ニーニョ・デ・ゲバラ
エル・グレコ《枢機卿フェルナンド・ニーニョ・デ・ゲバラ》1600年ごろ。館の記録では、カンヴァスに油彩。170.8×108センチ。番号は29.100.5。メトロポリタン美術館蔵。エル・グレコ《枢機卿フェルナンド・ニーニョ・デ・ゲバラ》メトロポリタン美術館蔵

このアルコス伯は、エル・グレコの絵を少なくとも7点持っていた。そのうちの一つが、同じ美術館にある《枢機卿フェルナンド・ニーニョ・デ・ゲバラ》である。

カタログによれば、1901年に、この枢機卿像と風景画は伯爵家の子孫のもとで並べてハヴマイヤー夫妻に見せられた。

夫人が風景画を買ったのは1909年で、夫の死後である。売ったのはパリの画商デュラン=リュエルで、スペインでの仲介を通じて手に入れた絵だった。

絵はその間、マドリードのオニャーテ家の屋敷に長く置かれていた。1884年の目録には、トレドの眺めとして記されている。

二点は1929年の遺贈で美術館に入った。館の記録では、どちらもいま同じ展示室にある。

その後の貸し出しも記録に残る。1982年にはマドリードのプラド美術館と、ワシントンのナショナル・ギャラリーの展覧会に出た。

1993年には、ハヴマイヤー家の収集をたどる展覧会にも出ている。目録の記載から現在の展示室まで、持ち主の鎖がほぼ切れずにつながる絵である。

制作年はいつか

館の記録の年代欄は1599年から1600年ごろとする。ただしカタログの本文は、もう一つの推定も書く。1597年ごろという案である。

根拠は、ほかの絵の背景にトレドが現れることである。1597年に注文されたトレドのサン・ホセ礼拝堂の祭壇画には、町の眺めが描き込まれている。

1607年に注文された《無原罪の御宿り》(トレドのサンタ・クルス美術館蔵)にも、アルカサルを欠いたトレドが出てくる。

カタログは、工房にトレドを描いた絵があり、背景を描くときの手本に使われたはずだと書く。そこから、この絵かよく似た絵が祭壇画の手本になったと見て、1597年ごろという年代を導く。

画家には、評判のよい構図を作り直す習いがあった。カタログは、同じ風景の変奏が二つ残る例を挙げて、その習いが風景画にも及んだと見る。

断片説にも触れておきたい。この絵は大きな宗教画の一部だったのではないか、という説である。カタログはこれを否定する。カンヴァスは切り詰められているが、断片と考える理由はないとする。

ラオコーン
エル・グレコ《ラオコーン》。所蔵館は1610年から1614年ごろの作とする。カンヴァスに油彩。137.5×172.5センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。エル・グレコ《ラオコーン》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

町が背景に回った例は、当サイトでも見られる。《ラオコーン》の奥には、塔と橋のある町が広がる。手前の死闘に場所を譲り、風景は小さく退いている。

この絵については、エル・グレコ《ラオコーン》の解説で詳しく書いた。

《トレド風景》はどこで見られるか

ニューヨークのメトロポリタン美術館である。館の記録では、ヨーロッパ絵画部門の所蔵で、第619室に展示されている。

展示室は入れ替わることがある。行く前に館の案内で確かめるとよい。同じ部屋には、上に挙げた枢機卿像など、この画家の作品が並ぶ。

もう一点の風景画《トレドの景観と地図》は、スペインのトレドにあるエル・グレコ美術館の所蔵である。別の絵なので、同じ場所では見られない。

手元で見るなら、《トレド風景》の作品ページから画像を開ける。館が公開した画像で、ライセンスはCC0である。

画面を大きくして、まずアルカサルの四角い塊を探すとよい。次にその左の大聖堂、丘を下る建物の列、そして左端の雲の上の一群へ目を移す。

順に見ていくと、この絵が地図でないことがはっきりする。描かれているのは町の形ではなく、町の見え方である。

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