フランシスコ・デ・ゴヤの代表作と特徴——なぜ背景を黒く塗ったのか
フランシスコ・デ・ゴヤの代表作と特徴を、館の記録とCC0の画像で確かめる。《裸のマハ》と黒い絵はマドリードのプラド美術館にあり、当サイトでは扱えない。かわりに見られる肖像・風俗・闘牛の6点から、黒い背景と厚い筆を読む。

ゴヤの代表作
フランシスコ・デ・ゴヤの代表作としてまず挙がるのは、《裸のマハ》《着衣のマハ》と、晩年の「黒い絵」である。
どちらもマドリードのプラド美術館にある。当サイトの在庫には無く、図版として出すことはできない。
当サイトの記録では、生没年は1746年から1828年。スペインで宮廷の仕事をした画家である。晩年は南フランスのボルドーへ移り、そこで没した。
画像を見られるのは、ニューヨーク・ワシントン・シカゴ・クリーヴランドの四つの館にある作品である。油彩の肖像が中心で、番号の付いた版画も多い。

なかでも知られているのが、《マヌエル・オソリオ・マンリケ・デ・スニガ》である。朱色の衣を着た子どもが、全身で画面に立つ。
右手は細い紐を握り、紐は床へ伸びて左下の鵲につながる。鵲は嘴に小さな紙をくわえる。
その後ろの闇から、三匹の猫が身を寄せて鳥を見る。白と灰の斑、黒、灰の縞の三匹で、どれも目を見開いて鳥を見つめる。
右手前には緑色の鳥籠が置かれ、格子の中に小さな鳥が数羽とまる。愛らしい子どもの絵に、捕られる側と狙う側が一緒に入っている。
背景は灰緑で、床は褐色。物は紐と鵲、猫と鳥籠だけに絞られている。
館の記録では、鵲がくわえる紙は画家の名刺で、「ドン・フランシスコ・ゴヤ」と署名がある。画面の下の縁には、子どもの名と、1784年4月11日に生まれたことが書き込まれる。モデルはアルタミラ伯爵夫妻の息子である。館の題に添えられた生没年は1784年から1792年で、描かれて四年ほどのちに八歳で亡くなっている。
《裸のマハ》と「黒い絵」はどこにあるのか
どちらもマドリードのプラド美術館である。
「黒い絵」は、ゴヤが晩年に自宅の壁へ描いた一群の絵で、のちに壁から剥がして運ばれた。壁画だったものが、いま館の壁に掛かっている。
「黒い絵」はどう描かれ、どう館に入ったのか
「黒い絵」は十四点ある。ゴヤが1819年に買ったマドリード郊外の家の、二つの部屋の壁に描かれた。七十歳を過ぎてからの仕事である。
この家は「聾者の家」と呼ばれる。ゴヤ自身も耳が聞こえなかったが、プラド美術館の解説では、この呼び名はゴヤが買う前から付いていた。館の記録では、絵の制作は1820年から1823年である。
のちの持ち主エルランジェ男爵が、1870年代に壁の絵をカンヴァスへ移させた。館の解説は、この移しで絵が傷んだとする。のちに男爵は絵を国へ贈り、1889年からプラドで展示されている。《我が子を食らうサトゥルヌス》はその一枚である。
二枚の「マハ」
《裸のマハ》と《着衣のマハ》は、ほぼ同じ大きさの二枚で、同じ姿勢の女を描く。館の記録では、《裸のマハ》が最初に記録に現れるのは1800年11月である。宰相ゴドイの館を描写した文の中に出てくる。《着衣のマハ》の名が初めて出るのは1808年の目録で、館は1800年から1807年の作とする。
記録の順からみて、《裸のマハ》が先に描かれたと考えられる。二枚は1836年から王立サン・フェルナンド美術アカデミーにあり、1901年にプラドへ移った。モデルの名は分かっていない。
プラドにはほかに、《カルロス四世の家族》や《1808年5月3日》もある。ゴヤの代表作をまとめて見るなら、マドリードが中心になる。
当サイトが掲げられるのは、各館がCC0として公開した画像だけである。プラドの作品はその中に入らない。
だから代表作の図版は出さない。代わりに、公開されている肖像と風景と闘牛の絵を読む。
ゴヤはどうやって宮廷画家になったのか
壁掛けの織物の下絵を描く仕事から入り、王家の肖像画家へ上った。サラゴサ大学の年譜では、1786年に国王付きの画家、1789年に宮廷画家、1799年に首席宮廷画家となる。四十歳から五十三歳までの十三年で、宮廷のいちばん上まで進んだ。
同じ年譜によると、ゴヤは1746年にアラゴン地方の村フエンデトードスで生まれた。父は金箔を貼る職人だった。1775年1月にマドリードへ移り、王立サンタ・バルバラ織物工場の下絵を描きはじめた。義兄の画家フランシスコ・バイェウらの勧めによる。

《牡羊に乗る少年》は、その下絵の一枚である。館の解説では、マドリード郊外のエル・パルド宮の食堂に掛ける織物のために描かれた。大きな面には四季が織られ、扉の上の小さな面に、子どもと動物の場面が入った。
麦わら帽の子どもが黒い牡羊にまたがり、右手の細い枝を振り上げる。牡羊の首には鈴が下がる。背景は青い空と白い雲で、のちの暗い肖像とは画面の明るさがまるで違う。
宮廷の外の注文主も、早くからいた。

《マリア・テレサ・デ・ボルボン・イ・バリャブリガ》は、国王カルロス三世の弟、ルイス親王の娘を描く。館の記録では、注文したのは父の親王である。左下の書き入れは、モデルの年を「二歳九か月」と記す。
幼い子が石の露台に全身で立ち、白い被り布が膝まで垂れる。右下には白い小犬が座ってこちらを向く。子どもを全身で立たせ、脇に動物を置く組み立ては、四年後の《マヌエル・オソリオ・マンリケ・デ・スニガ》にもつながっている。
ゴヤの特徴はどこにあるのか
背景を暗く詰めて、人の顔と手だけを明るく残すところである。

《サバサ・ガルシア夫人》では、黒く塗り込めた背景から上半身が浮かび上がる。
体は右へ向き、顔だけがこちらへ返る。頭から落ちる白い薄物が、輪郭を細い白い線で拾う。
肩には黄と褐色の格子のショールが掛かる。縁は橙色で、幅広の筆の跡が模様をそのまま絵具の帯として残す。
背景の黒には、カンヴァスの織り目が透ける。塗り重ねて平らにするのではなく、一度で置いた黒である。
顔と手の白さ、ショールの黄だけが明るく、それ以外は闇に沈む。背景を消して人を残す手つきは、レンブラントの代表作と特徴で見た光の当て方と比べると分かりやすい。

早い時期の《ポンテホス侯爵夫人》は、背景が明るい。薄緑の樹木と灰青の空の前に、女性が全身で立つ。
薄い灰白の絹のドレスに、桃色の帯とリボンが散る。片手には桃色のカーネーションを一輪、茎を下げて持つ。
二十年を隔てた二点を並べると、背景の扱いが逆になっている。明るい戸外から、光の当たる人だけを残す闇へ動いた。
サラゴサ大学の年譜では、ゴヤは1792年12月にセビーリャで倒れ、病は翌年4月まで続いた。このとき耳が聞こえなくなった。当サイトの二点では、明るい背景の絵は病の前、暗い背景の絵は病の後にあたる。
肖像画のほかに何を描いたのか
町の風俗と闘牛である。注文された顔だけを描いていたわけではない。

《バルコニーのマハたち》では、黒い鉄の手すりが画面の下半分を縦に区切る。
その向こうに二人の女が並ぶ。左は椅子に腰掛けて両腕を手すりに載せ、右は立って身を寄せる。
背後は暗く、広つばの帽子で口元を隠す男と、褐色の外套の大きな人物が影の中に立つ。白い衣と二人の顔だけが強く明るい。
ただし館の記録は、この絵を「ゴヤに帰属」とする。次の闘牛の絵も同じである。ゴヤの手と断定はせず、その可能性が高い作として扱っている。この二点は、ゴヤの主題と描き方を示す例として読んでほしい。

《仕切られた闘牛場の闘牛》は、闘牛場が板と土の仕切りで斜めに二つに分かれる。
左では褐色の牛が突進し、青と赤の衣の男が布を構える。右では黒い牛が走り、白い馬の男が槍を下ろす。
桟敷は見物人で埋まり、奥の家々の屋根や露台にも人が鈴なりになる。空は灰青から桃色へ移る。
同じ主題は、番号の付いた版画にも繰り返し出てくる。当サイトに入っているクリーヴランド美術館のエッチングには、闘牛場の場面が並ぶ。
版画の題に付く番号は何を指すのか
版画集の中の番号である。ゴヤは大きな版画集を四つ残しており、当サイトの版画の題に付く番号や「〜より」は、どの集の何番かを示す。
1799年の「ロス・カプリチョス」は八十図。年譜では、同じ年の2月に売り出したが、まもなく店から引き上げた。銅版を酸で腐食させる線に、面を灰色に染めるアクアチントを重ねている。《ひどい夜(第三十六図)》はその一枚である。
夜の荒れ地で、強い風が二人の女の衣を吹き上げる。右の女は白い裾を押さえて身をかがめ、もう一人は衣ごと風にあおられて顔だけを見せる。空は腐食で黒く沈み、衣の白だけが浮かぶ。肖像の暗い背景と同じく、闇から明るい部分だけを残す作りである。
1816年の「闘牛技」は三十三図。「戦争の惨禍」と「ことわざ」は、版こそ生前に作られたが、刊行は没後である。「戦争の惨禍」が初めて刷られて世に出たのは1863年だった。
ボルドーに移ってからは、石版画の「ボルドーの闘牛」を出した。1825年の作で、闘牛という主題を、八十歳近くになって新しい版の技法で描き直している。
晩年の筆はどう変わるのか
絵具が厚くなり、筆の跡がそのまま残るようになる。

《建築家ティブルシオ・ペレス・イ・クエルボ》は、暗い灰褐色の背景の前に男が立つ。
袖のない黒い胴着の下から、白い麻の袖が両腕に大きく膨らむ。袖口は手首で細く絞られる。
白い部分は絵具を厚く置き、筆の跡が縞になって残る。光は左上から入り、この袖が画面でいちばん明るい。
両腕は胸の前で組まれ、右手の指が左の袖口を押さえる。肖像でありながら、見えているのは絵具の置き方である。
描かれた1820年は、自宅の壁に「黒い絵」を描いていた時期と重なる。
その四年後、ゴヤはスペインを離れる。年譜では、1824年6月に国を出て、9月にボルドーに落ち着いた。1828年4月16日、その地で没している。
プラド以外でゴヤを見るならどこか
アメリカの四つの館がまとまった数を持つ。メトロポリタン美術館、ワシントンのナショナル・ギャラリー、シカゴ美術館、クリーヴランド美術館である。どの館も画像を自由に使える形で公開しており、当サイトで開ける。
メトロポリタン美術館にあるのは、この記事で見た子どもの肖像と建築家の肖像である。ワシントンには、《ポンテホス侯爵夫人》《サバサ・ガルシア夫人》と、幼いマリア・テレサの肖像がそろう。
ワシントンにはもう一組、夫婦の肖像がある。《バルトロメ・スレーダ・イ・ミセロル》と《テレーズ・ルイーズ・ド・スレーダ》である。館はどちらも1803年から1804年ごろの作とする。館の来歴の記録では、二点はスレーダ家に伝わり、1897年にニューヨークの収集家ハヴマイヤー夫妻が一緒に買った。
シカゴ美術館には、六枚続きの小さな板絵がある。1806年の夏に実際に起きた事件を描いたもので、《馬が逃げるなかエル・マラガートを撃つ修道士ペドロ》はその一枚である。館の解説では、脱獄した盗賊が民家に立てこもり、托鉢に来た修道士が盗賊の銃を奪って撃った。
ゴヤは、新聞や歌で広まったこの話を、漫画のように順を追って描いた。六枚は1812年の目録でもまだ画家の手もとにあった。館は、注文ではなく自分の楽しみのために描いた可能性を挙げる。
クリーヴランド美術館の《ドン・フアン・アントニオ・クエルボの肖像》は、1819年の作である。館の解説では、モデルは王立サン・フェルナンド美術アカデミーの長で、ゴヤの友人だった。手にするのは、マドリードのサンティアゴ教会を改修したときの図面である。赤と金の錦の上着は、アカデミーの会員であることを示す。
版画の多くも、クリーヴランド美術館の所蔵である。1825年の「ボルドーの闘牛」には、《仕切られた闘牛場での闘牛》という一枚がある。メトロポリタン美術館の油彩と同じく、仕切りで二つに分けた闘牛場を描く。
同じスペインで働いた先の世代では、エル・グレコの絵も当サイトで見られる。エル・グレコ《ラオコーン》の解説では、晩年の一点を読んだ。


