浮世絵は、西洋の絵に何を渡したのか——《神奈川沖浪裏》からカサットの一枚まで
ジャポニスムはよく語られるが、実際に渡ったものは何だったのか。北斎の波、広重の雨、ドガの舞台、ホイッスラーの夜、カサットの版画を並べ、画面の切り方・影の扱い・視点の高さ・顔の見せ方という具体で確かめる。渡らなかったものにも触れる。

二十五センチの海
画面いっぱいに波が立ち上がっている。説明のいらない絵である。
ただ、実物の寸法を聞くと少し驚く。縦25.7センチ、横37.9センチ。A4の紙より、わずかに大きい程度でしかない。

小さな紙の上に、三艘の舟が浮かんでいる。漕ぎ手たちは舟べりに伏せ、波にほとんど呑まれかけている。
中央のくぼみの奥に、白い富士が見える。遠くの山なのだから小さくて当然だ。ところが手前で砕けた波の白も、ほぼ同じ大きさに描かれている。
近くの波頭と、遠くの山。画面の上では、この二つが対等な図形として並んでいる。距離が、大きさの序列をつくっていない。
形の作り方も見ておきたい。大きな波は、左からせり上がって右へ倒れ込む一本の曲線でできている。
その曲線の内側に、小さな波頭が同じ形で繰り返されている。ひとつの形を大小で反復させることで、うねりの速度が出る。
いっぽう富士は、直線二本の三角形である。曲線だけの海に、たったひとつ直線の図形が置かれている。
この対比が画面を締めている。荒れているのは水だけで、山は動かない。動と静が、形の種類そのもので描き分けられている。
三艘の舟は、波の谷にきれいに沿って並ぶ。人間は、この画面では波の形を説明するための線でしかない。
この一枚が、のちにヨーロッパの画家たちの机に載る。ただし、まだ三十年ほど先の話である。
そして重要なことに、これは一点ものの絵ではない。版木から刷られた紙であり、同じ図柄が何百枚も存在した。
美術館の壁に掛かる油彩ではなく、店先で買える商品として作られている。この記事の話は、そこから始まる。
青が安くなった年
まず色を見てほしい。この絵を支配しているのは、濃い青である。

この青は、ベロ藍と呼ばれた輸入顔料だと考えられている。ヨーロッパで作られた合成顔料で、いまはプルシアンブルーの名で知られる。
十八世紀の初めにベルリンで偶然に合成された、と伝えられる色である。日本には長崎経由で入ってきたが、当初はきわめて高価だった。
それが1820年代の終わりごろ、中国経由の輸入によって値を下げたとされる。絵師と版元にとっては、新しい絵具が手の届く価格になったということだ。
《冨嶽三十六景》の刊行は1830年ごろから32年ごろ。青が安くなった時期と、ほぼ重なっている。
事実、この揃物の初期には、輪郭線まで藍で刷った「藍摺」の摺りが知られている。青を売り物にした企画だったと考えてよい。
つまりこの絵の青は、画家の内面から出てきた色というより、材料と市場の条件から出てきた色でもある。
新しい絵具が安く入る。ならば青を主役にした揃物を出す。版元と絵師の、かなり商業的な判断がそこにある。
そう聞くと少し興ざめだろうか。しかし、絵の強さは判断の質から生まれることもある。この記事は、その種の判断を追いかける話でもある。
「影響を受けた」では、何も言っていない
浮世絵が西洋の絵を変えた、とはよく言われる。ジャポニスムという呼び名もある。
ただ「影響を受けた」で片づけると、何が渡ったのかは分からないままになる。憧れの話なのか、技術の話なのか。
ここでは後者として読みたい。西洋の画家が浮世絵から受け取ったのは、雰囲気ではなく、いくつかの具体的な判断だったと考えるからである。
前提として、渡った経路にふれておく。開国後、日本の版画は陶磁器や漆器の緩衝材として、あるいは雑貨とともに、大量に西へ流れた。
1867年のパリ万国博覧会には日本からの出品があり、以後、パリの東洋雑貨店や画材屋に版画が並ぶようになる。
ヨーロッパの画家たちにとって、浮世絵は美術館で拝む対象ではなかった。買える紙であり、机に置いて眺め、壁に貼れるものだった。
この距離の近さは重要である。手元にあるから、何度も見て、真似ができる。
以下、当サイトで公開している版画と絵画を並べながら、渡ったものを具体的に確かめていく。画面の切り方、影の扱い、視点の高さ、そして顔の見せ方である。
一、画面を切る
歌川広重《大はしあたけの夕立》。1857年の作である。
この絵は《名所江戸百景》という揃物の一枚である。広重の晩年、江戸の名所を百枚以上にわたって刷り続けた大きな企画だった。
注目したいのは判型である。それまで風景版画は横長が主流だったが、この揃物は縦長で通している。
縦長は、風景にとって不利な形である。横に広がる景色を、わざわざ縦の枠に押し込むことになる。
その不利を、広重は逆手に取った。手前に大きなものを置き、遠景を上へ追いやる。縦の枠が、遠近を強引に圧縮する装置になる。

まず橋を見てほしい。左下から右上へ太い弧を描いて画面を横切り、両端は紙の外へ出ていく。
西洋の絵画において、枠は主題を収める容器だった。人物も建物も、額の内側に収まるように配置される。
この絵では逆になっている。枠のほうが対象を切っている。橋は「たまたまここで切れた」という顔をしている。
橋の上を人が渡っていく。傘を差した者、蓑をかぶった者、荷を担いだ者。誰の顔も見えない。
雨は、無数の細い直線として引かれている。実際の雨はこんなふうには見えない。線は約束事として置かれている。
しかも線は二方向にかかっている。斜めの角度が違う二組を重ねることで、雨脚の密度と風の向きが同時に出る。
空にも仕掛けがある。上端が黒く、下へ行くほど薄い。版木に絵具を置くとき、摺師が指と刷毛で濃淡をつくる「ぼかし」という技である。
版木に彫られているのは輪郭と色の区画だけで、この暗さの階調はどこにも彫られていない。刷るたびに手で作られている。
つまりこの空は、一枚ごとに少しずつ違う。同じ絵柄でも、暗さの深さは摺師の手の中にある。
見えるとおりに写すのではなく、伝わるように決める。この判断のしかたが、のちにヨーロッパの画家たちを驚かせることになる。
切られた画面は、パリで何になったか
「枠が対象を切る」構図を、最も早く自分のものにした画家のひとりがエドガー・ドガである。

《黄色い踊り子(袖にて)》。1874年から76年ごろの作である。
手前の三人は、肩から下が黄色い衣装で埋まり、画面の下端であっさり切られている。顔の位置は右へ寄り、中央は空いている。
そして左側、書き割りの下の隙間に、脚だけが六本ほど見えている。舞台に出ている踊り子たちである。
胴も顔もない。脚だけが、床すれすれの帯のなかに並んでいる。これは相当に大胆な省略である。
こうした「たまたまこう見えた」風の構図について、写真の影響を指摘する見方もある。両方が同時に働いたと考えるのが自然だろう。
ただ、写真が偶然に切り取るのに対し、浮世絵は意図して切っている。どこで切ると効くかを、あらかじめ設計している。
ドガが学んだのは、その設計のほうだったと考えたい。彼の画面は、偶然を装いながら、切る位置がきわめて厳密である。
もうひとつ、この絵には版画的な感覚がある。色の置き方である。
黄色い衣装は、しわの陰影をほとんど作らずに、大きな面としてまとめられている。背景の書き割りも同様に平らである。
ドガ自身、生涯にわたって版画とパステルを手放さなかった画家だった。銅版に何度も手を入れ、同じ図柄を刷り分けている。
一点の完成品を仕上げるより、同じ主題を条件を変えて繰り返す。その姿勢は、版で仕事をする者の姿勢に近い。
浮世絵から来たのは構図だけではなく、「絵は工程である」という感覚だったのかもしれない。
二、影を捨てる
1888年10月16日、南フランスのアルルにいたフィンセント・ファン・ゴッホは、弟テオに手紙を書いた。自分の寝室を描いた絵についての説明である。
影と落ちる影は取り払った、日本の版画のように平坦な色で塗った——手紙にはそう書かれている。

影を描かないと決めるのは、思うより大きな決断である。ヨーロッパの絵画は、影によって物の丸みと位置を示してきたからだ。
影を捨てれば、物は平らな色の面になる。かわりに、輪郭線と色そのものが働きはじめる。
ゴッホは弟とともに数百点の日本版画を集め、広重の図柄を油彩で写した作品も残している。彼にとって浮世絵は、眺める対象であると同時に教科書だった。
興味深いのは、彼がこの方法を「休息を描くため」に使っていることである。技法の輸入ではなく、目的に合わせた選択になっている。
平らな色は、静かなのだ。陰影があると、物は重くなり、時間が生じる。それを消せば、部屋は一枚の紋様に近づく。
平らな色は、どこまで薄くできるか
同じ「平らな色」を、別の方向へ極端に進めた画家がいる。ジェームズ・マクニール・ホイッスラーである。

《ノクターン 青と金——サウサンプトン・ウォーター》。1872年の作である。
描かれているものを数えてみると、驚くほど少ない。遠くの岸、数隻の舟、光の点。それ以外はすべて青灰色の面である。
輪郭線すらほとんどない。浮世絵から輪郭を取ったのがゴッホなら、ホイッスラーは色面の側だけを取ったことになる。
彼は日本の版画と東洋の陶磁器の収集家でもあった。作品に《ノクターン》《シンフォニー》《アレンジメント》と音楽の言葉を付けたのも、主題より配置を前に出すためである。
当時、この「何も描いていない」画面は理解されなかった。批評家ジョン・ラスキンが痛烈に批判し、名誉毀損の裁判にまでなっている。
裁判の記録は、絵の価値が何によって決まるかという議論として、いまも引用される。省略が高くつくことを、当時の人は受け入れがたかった。
逆に言えば、浮世絵が持ち込んだのはそれほど異質な考え方だった。描く量を減らすほど強くなる、という発想である。
もっとも、ホイッスラーの空白は日本の版画そのままではない。版画の余白は紙の白であり、彼の余白は絵具の層である。
薄く溶いた絵具を何度も重ね、最後に何も描かれていないように見せる。手間をかけて手数を消す、という倒錯した工程になっている。
そこが面白いところだと思う。輸入されたのは形ではなく考え方なので、実現の方法は各自が発明することになる。
三、高いところから見る
喜多川歌麿《行水》。1801年ごろの作である。盥のなかの子どもを、母親が支えている。

私たちはこの場面を、斜め上から覗き込んでいる。人物の背後では、衣桁に掛けられた着物が画面の上端を占めている。
床も壁も描かれない。奥行きを示すのは、重なりと角度だけである。
それから九十年後のパリで、これとよく似た画面を作った画家がいる。メアリー・カサットである。

1890年、パリの美術学校で日本の版画の大規模な展覧会が開かれた。カサットはこれを見て、翌年にかけて十点組の色刷り版画を制作する。《湯浴みする女》はその一点である。
女性は盥ではなく洗面台に向かい、うつむいている。顔は見えない。視点は高く、床は奥へ行くほど上へせり上がる。
輪郭線ははっきりと引かれ、色は面として置かれている。影による丸みは、ほとんど使われていない。
技法の選び方にも学んだ跡がある。カサットが使ったのは、色ごとに版を分けて刷り重ねるやり方だった。銅版に酸で調子をつくり、線は直接ひっかいて彫る。
材料は西洋の銅版画のものである。しかし「線の版と色の版を分け、重ねて一枚にする」という考え方は、木版の側にある。
主題はパリの室内である。しかし画面の作り方は、歌麿の側から来ている。
母と子、もう一枚
カサットは同じ主題を、油彩でも描いている。1893年の《子どもの入浴》である。

母親が子どもの足を洗面器に浸し、片手で膝を支えている。二人とも顔を伏せ、こちらを見ない。
視点の高さが、この絵をふつうの母子像から引き離している。真横から描けば聖母子の系譜に入るが、真上から描くとそうならない。
しかも画面は下端で切られ、水差しは右端で切られている。切ることと見下ろすことが、同時に使われている。
歌麿の《行水》と並べてみると、主題も動作もよく似ている。盥と洗面器、支える手、うつむいた顔。
もちろんカサットが《行水》そのものを見たかどうかは分からない。だが同種の母子図は、彼女が見たであろう版画のなかに数多くあった。
似ているのは図柄だけではない。日常の一場面を、大げさな物語にせずに描くという態度が共通している。
西洋絵画で「母と子」は、長く宗教画の型だった。そこから型を外す手がかりが、東の版画にあったことになる。
顔は、型で見せる
もうひとつ、渡ったものがある。顔の扱い方である。

写楽は1794年に突然現れ、一年に満たない期間に大量の役者絵を出して姿を消した絵師である。
その役者絵の顔は、写実でも理想化でもない。目と口の形を誇張し、役柄の性格を図として立てている。
西洋の肖像画は「その人」を描く。役者絵は「その人が演じている役」と「その人自身」を、同じ顔の中に重ねる。
この二重性は、のちにパリのポスターへ引き継がれたと考えたい。舞台の踊り子や歌手を、線と平らな色で一目の記号にする方法である。
顔を単純化すれば、遠くからでも誰か分かる。似せることを減らすほど、伝わる速度は上がる。
役者絵は、劇場の宣伝物でもあった。売るための印刷物という性格まで含めて、ポスターの先祖と呼びたくなる。
誰が作っていたのか
ここで、浮世絵の作られ方に触れておきたい。西洋の画家たちが取り違えた、いちばん大きな点だからである。
一枚の版画は、絵師ひとりの作品ではない。版元が企画し、絵師が下絵を描き、彫師が版木を彫り、摺師が刷る。
彫師は、絵師の描いた線を版木に移す。髪の生え際の細い線は、彫りの技量がそのまま出る場所である。
摺師は、色の重ね順と圧力を決める。先ほどの「ぼかし」も摺師の仕事で、同じ版から刷っても仕上がりが変わる。
さらに検閲の印がある。改印と呼ばれる小さな印が画面に入っていて、出版の許可を受けた時期を示す。
つまり浮世絵は、企画・分業・検閲・流通を備えた印刷産業の産物である。値段も、庶民が買える範囲だった。
ヨーロッパの画家たちは、それを個人の作家による表現として受け取った。北斎や広重を、自分たちと同じ「芸術家」として読んだのである。
誤解ではある。しかし、実りのある誤解だった。商品としての合理性から生まれた省略を、彼らは表現上の選択として引き受け直した。
同じ誤解は、値段の感覚にも及んでいる。当時の版画は、庶民が気軽に買える印刷物だったとされる。
消耗品だから、破れれば捨てられ、包み紙にもなった。それがパリで額装され、画家の壁に貼られたわけである。
ものの位置づけが移動している。日用品が、海を渡ったところで手本になった。
渡らなかったもの
渡ったものを数えたので、渡らなかったものも見ておきたい。ここに、影響という現象の輪郭が出る。
まず、線そのものの質である。浮世絵の輪郭線は、書の伝統につながる線であり、太さの変化に意味がある。
ヨーロッパの画家たちは輪郭線を採用したが、その内側にある筆勢の文化までは持っていかなかった。彼らの輪郭線は、色面を仕切る境界として働く。
次に、画面のなかの文字である。浮世絵には題箋があり、狂歌や役者の名が刷り込まれ、版元と検閲の印まで入る。
文字は絵の邪魔をしていない。むしろ画面を構成する図形のひとつとして置かれている。この共存は、ほとんど渡らなかった。
そして季節と引用である。桜、雨、雪、月。浮世絵の観客は、それらが指す和歌や物語の記憶を共有していた。
図柄の背後にある共有知識は、輸出されない。パリに着いた時点で、絵は主題を失い、形だけが残ったとも言える。
皮肉なことに、意味が抜け落ちたおかげで、形の面白さが際立ったのだとも考えられる。読めない文字は模様に見える。
外から来たものが役に立つとき、たいていこの種の目減りが起きている。理解ではなく誤読が仕事をすることがある。
渡ったのは「省略してよい」という許可
四つの論点を並べてみると、渡ったものの性格が見えてくる。それは主題でも様式でもなく、省略の許可だったのだと考えたい。
西洋の絵画は、数百年かけて手続きを積み上げてきた。遠近法があり、陰影があり、筆跡を溶かし込む仕上げがある。
浮世絵は、その手続きを踏まずに成立していた。しかも弱い絵にはならず、むしろ強い画面になっていた。
積み上げたものを捨ててよい。そう証明する実例が、外から大量に届いた。渡ったのは、そういう性質のものだったはずである。
しかも、届いたのが「安い印刷物」だったことに意味がある。傑作として恭しく展示されていたら、真似の対象にはなりにくい。
机に置ける紙だったからこそ、切り方や色の置き方を、道具として盗むことができた。
カサットの版画の余白には、鉛筆の書き込みが残っている。刷りは画家自身とルロワ氏による、部数は25——そう読める。
絵師は刷らない、というのが浮世絵の分業である。カサットは、刷りの現場に自分で入った。受け取った様式を、自分の制作の形に組み直したことになる。
ここに、影響というものの一番おもしろい形が出ている。真似ることではなく、原理を取り出して別の場所で組み直すこと。
同じ絵が三枚ある、ということ
最後に、版画そのものの性質にふれておきたい。
当サイトには《大はしあたけの夕立》が三点ある。いずれも1857年の、同じ版から生まれた図柄である。
寸法を並べると、37.5×24.4センチ、36.5×24.3センチ、34.0×24.1センチ。少しずつ違う。
紙の断ち方が違い、そのあと百六十年あまりの扱いも違ったのだろう。色の残り方も一枚ごとに異なる。
どれが本物か、という問いは、ここでは立てにくい。版画には「原本の一枚」が存在しないからである。
油彩なら、世界にひとつの絵がある。版画では、同じ版から生まれた複数が、それぞれ別の時間を過ごしている。
いま画面に表示されている画像も、そのうちの一枚を写したものにすぎない。誰かの手に渡り、断たれ、褪せた一枚が、たまたまそこに写っている。
冒頭の《神奈川沖浪裏》にも、そういう来歴がある。この一枚は、1929年にハヴマイヤー夫人の遺贈としてメトロポリタン美術館へ入った。
夫妻の収集を長く助言していたのは、カサットである。日本の版画に学んだ画家が、日本の版画を集める収集家を導き、その集積がいま公開画像として世界に配られている。
二十五センチの紙は、だからこそ海を越えられた。小さく、複数あり、運べたからこそ、パリやニューヨークの机の上に届いた。
この絵の小ささは、その意味では作品の一部である。そして複数あることも、褪せることも、同じように作品の一部なのだと思う。







