ゴッホはなぜ、同じ部屋を三度描いたのか——シカゴの《寝室》を読む
《寝室》の油彩は三枚ある。繰り返しは川の氾濫から始まり、影のない部屋は日本の版画にならって塗られた。そして壁の色は、いま見えている青ではなかった。手紙と科学調査、そして三枚が歩いた道から、一枚を読み直す。

誰もいない部屋
寝台がある。椅子が二脚ある。小さな机の上に、水差しと洗面器、瓶がいくつか並んでいる。
それだけの絵である。人はいない。物語も起きていない。

見ていると、いくつか妙なことに気づく。まず、影がない。寝台の脚のあたりにも、椅子の下にも、暗い溜まりができていない。
次に、床が傾いている。板の目が右奥へ急な角度で走り、部屋がこちら側へせり出してくるように見える。
壁は青い。掛かっているのは、二枚の肖像画と、風景らしい小さな絵。窓は緑の鎧戸で閉じられている。
細かいものも描かれている。壁の釘に上着が掛かり、その隣に麦わら帽子らしい形がある。
机の上には水差しと洗面器、小瓶が二つ。左手の壁には鏡と、白い布が一枚。
生活の道具だけがある。本も、絵筆も、描きかけの絵もない。画家の部屋なのに、仕事の痕跡が消してある。
寝台は画面の右半分を占め、こちらへ向かって斜めに置かれている。頭の側が奥、足の側が手前。
その配置のせいで、見る者は部屋の入口あたりに立たされる。入ってきて、まだ座っていない位置である。
寝台の上には枕が二つ並び、椅子も二脚ある。ひとりの部屋にしては、すべてが二つずつある。
そして家具の輪郭には、濃い線が引かれている。木の量感を描くのではなく、形を線で確定してから内側を塗る描き方である。
この部屋は、南フランスのアルルにあった。ゴッホが「黄色い家」と呼んだ借家の二階である。1888年の秋、彼はここに移り住んだ。
黄色い家という計画
この絵を読むには、部屋そのものより先に、部屋を含む計画のほうを知っておく必要がある。
ゴッホがアルルに着いたのは1888年の2月である。パリの画壇に疲れ、南の光を求めての移動だった。
5月に「黄色い家」を借り、9月に住みはじめる。ただし彼は、そこを自分の住処としてだけ考えていたわけではない。
画家たちが共同で暮らし、働く場所にしたかった。仲間を呼び、費用を分け、互いの制作を支える——そういう構想である。
最初に来ることになったのがポール・ゴーギャンだった。10月に到着する予定で、部屋の準備が進められた。
準備とは、絵を描くことだった。壁に掛ける絵を自分で用意し、家全体を飾りとして作り上げる。

向日葵の連作も、この飾りの一部である。黄色い花を黄色い壁に掛ける、という強い指定が手紙に残っている。
そして自分の寝室も、絵として描いた。飾るための絵ではなく、飾られる部屋そのものを主題にしたことになる。
つまり《寝室》は、単独の風景画や静物画とは成り立ちが違う。「これから始まる共同生活」の設計図の一部だった。
二脚ずつの椅子と枕を、来客を待つ部屋のしるしと読む見方があるのは、この文脈のためである。
ただし本人がそう書き残しているわけではない。ここは推測として置いておきたい。
計画のほうは、うまくいかなかった。ゴーギャンが着いたのは10月下旬。二人の共同生活は二か月ももたなかった。
12月下旬に決裂し、ゴッホは自分の耳を切って病院へ運ばれる。ゴーギャンはパリへ戻り、二度とアルルへは来なかった。
翌年5月、彼はサン=レミの療養院へ移る。黄色い家に戻ることはなかった。
そして家そのものも、いまは存在しない。第二次世界大戦中の空襲で損傷し、のちに取り壊されている。
つまりこの部屋は、絵と手紙のなかにしか残っていない。実物と見比べる方法は、もうどこにもない。
空の部屋を描くということ
ここで一度、主題そのものを考えてみたい。人のいない部屋を一枚の絵にするのは、当時としてかなり珍しい選択である。
室内画の伝統は古い。十七世紀のオランダには、室内を描いた絵が数えきれないほどある。
ただしそこには必ず人がいる。手紙を読む女、床を掃く女、酒を飲む男。部屋は人物の背景であり、性格を語る道具だった。
十九世紀に入ると、家具や小物だけを描いた絵も出てくる。とはいえ多くは静物であり、卓上の一角を切り取ったものである。
部屋そのものを、住人抜きで、正面から一枚に収める。これは肖像画に近い態度だと思う。
事実この絵は、部屋の肖像として読める。持ち物の少なさ、家具の安さ、寝台の大きさ。写っているのは、住人の暮らしの条件である。
しかも本人は不在である。不在のまま、その人の生活が説明されている。
こういう絵が成立するには、「人物こそ主題である」という前提を外す必要がある。前の世紀なら、下絵の段階で止められたはずの企画だろう。
三枚ある、ということ
この構図の絵は、一枚ではない。同じ部屋を描いた油彩が三枚ある。
一枚目は1888年10月。アルルで、移り住んだ翌月に描かれた。いまはアムステルダムにある。
二枚目が、いま見ているシカゴの一枚である。1889年9月。一枚目から十一か月後。
三枚目は、二枚目から間もなく描かれた。少し小さい寸法で、母と妹に贈るためのものだった。いまはパリにある。
十一か月のあいだに、彼の生活は大きく変わっている。ゴーギャンとの共同生活は二か月で破綻し、耳を切る事件が起き、病院に入り、療養院へ移った。
同じ部屋の絵が、まったく違う状況で二度描かれたことになる。なぜ、そこまでして繰り返したのか。
そして、二度目と三度目は「複製」なのか。この記事はそこを読む。
繰り返しは、事故から始まった
きっかけは、本人の意欲ではなかった。事故である。
1888年の暮れ、ゴッホは体調を崩してアルルの病院に入る。その間にローヌ川が氾濫し、預けてあった絵が水を被った。一枚目の《寝室》も傷んだ。
翌1889年4月、彼はその絵を弟テオに送る。傷んだことを詫びる手紙が添えられていた。
テオは、裏打ちをして補強したうえで送り返すことを提案する。写しを作れるように、という意図があった。
そして1889年9月、サン=レミの療養院にいたゴッホが、送り返された一枚目を見ながら、同じ寸法でもう一枚を描く。
彼はこれを「répétition」と呼んでいる。繰り返し、という意味の言葉である。複製とも模写とも言っていない。
言葉の選び方に、態度が出ている。同じ曲をもう一度弾く、という感覚に近い。楽譜は同じでも、演奏は同じにはならない。
この語は、当時の画家にとって特殊な言葉ではなかった。注文に応じて自作をもう一枚描くことは、ふつうに行われていた。
売れた絵の控えを手元に置くため、あるいは別の顧客のために、同じ構図をもう一度描く。工房の仕事としては当たり前である。
ただしゴッホの場合、注文があったわけではない。売れていない絵を、自分の意思でもう一度描いている。
なぜか。ひとつには、一枚目を弟に預けたまま手元に置けなかったことがある。手放した絵を、手元に取り戻す方法が「描くこと」だった。
もうひとつは、この構図に対する彼自身の評価だろう。手紙のなかで彼は、この絵を自分の代表作のひとつとして扱っている。
繰り返しは、寝室だけではなかった
同じことを、彼は別の主題でもやっている。近所の郵便配達人の妻、オーギュスティーヌ・ルーランを描いた《ゆりかごを揺らす女》である。
同じ構図の油彩が、五点ある。そのうちの二点が、当サイトで公開されている。並べて見てほしい。


寸法はほぼ同じ、姿勢も同じ、椅子の色も同じである。それでも二枚は明らかに別の絵になっている。
彼はこの主題に、はっきりした用途を考えていた。荒れた海に出る漁師が船室でこれを見たら、揺すられるような慰めを感じるのではないか。手紙にそう書いている。
飾り方の構想もあった。向日葵の絵二枚でこの絵を挟む、三枚一組の並べ方である。小さな下図まで描いて弟に送っている。
繰り返し描くことは、彼にとって「届く形にする」ことだったのだと思う。一枚では、一か所にしか置けない。
ここには、複製技術のない時代の切実さがある。同じ絵を複数の場所に届けたければ、手で描くしかない。
浮世絵なら版を彫れば済んだ話である。油彩の画家にとって、繰り返しとは技術的な不足を身体で埋める作業だった。
同じ発想は、家具を描いた二枚にも見える。ゴーギャンが去る直前、彼は二脚の椅子を別々の絵にしている。
自分の椅子には粗末な木の椅子とパイプを、ゴーギャンの椅子には肘掛けと蝋燭と本を置いた。人物を描かずに、二人の違いを椅子で語っている。
《寝室》に椅子が二脚あることを思い出したい。家具は、この時期の彼にとって人の代わりだった。
不在の人を、物で描く。この方法は繰り返しにも向いている。物は、記憶のなかで形を変えないからである。
影を消した部屋
なぜこの部屋の絵を、そこまでして残したかったのか。手がかりは、一枚目を描いた直後の手紙にある。
1888年10月16日、テオ宛。ゴッホはこの絵について、影と落ちる影は取り払った、日本の版画のように平坦な色で塗った、と書いている。
これは技法の説明であると同時に、目的の説明でもある。彼はこの絵で、休息そのものを表そうとしていた。
影を消せば、物は重さを失う。輪郭の中に平らな色が置かれ、画面から緊張が抜ける。そのために日本の版画のやり方を借りた。
もっとも、いまの私たちがこの絵を見て「休息」を感じるかというと、そうとも限らない。傾いた床も、きしむような遠近も、むしろ落ち着かない。
本人の意図と、絵の効果は一致していない。そのずれ自体が、この絵の面白いところだと思う。
日本という補助線
「日本の版画のように」という一行は、この時期の彼にとって単なる比喩ではなかった。
パリにいた1886年から88年にかけて、彼は弟とともに数百点の日本版画を集めている。広重の図柄を油彩で写した作品も残っている。
アルルへ移ったのも、その延長にある。強い光と鮮やかな色のある土地を、彼は手紙のなかで日本になぞらえていた。
実際の日本を知らないまま、版画から組み立てた「日本」である。しかしその想像上の基準が、彼の色を変えた。
手紙のなかで彼は、日本の画家たちの見方をうらやんでいる。単純で、迷いがなく、呼吸をするように描いている、と。
もちろんそれは、分業と修業で成り立つ現場の実態とは違う。彼が見ていたのは、版画という結果だけである。
だが誤解であっても、目標としては機能した。「あれくらい省略してよい」という許可を、彼は日本の版画から受け取っている。

「ムスメ」は日本の少女を指す言葉として、当時フランスで読まれていた小説から借りたものである。モデルはアルルの娘だが、題名だけが日本を向いている。
背景を平らな一色で塗り、衣服の模様を図として並べる。この作り方は、《寝室》の壁や床とまったく同じ考え方である。
浮世絵が西洋の画家に何を渡したのかについては、別のコラムで詳しく書いた。《寝室》の手紙の一行は、その受け渡しがもっとも短い言葉で残った例である。
壁は、青くなかった
さらに厄介な問題がある。この絵の色は、描かれたときの色ではない。
先の手紙で、ゴッホは色をひとつずつ指定するように書いている。壁は淡いすみれ色、床は褪せた赤、椅子と寝台はクロムイエロー、枕とシーツはごく淡いレモングリーン、掛け布は血のような赤、化粧台はオレンジ、洗面器は青、窓は緑。
読みながら画面と照合すると、ほとんどは合っている。ひとつだけ合わないのが壁である。手紙は「すみれ色」、画面は青。
長いあいだ、この食い違いは記憶違いか誇張として扱われてきた。だが2016年、シカゴ美術館が三枚を集めた展覧会で、調査の結果を示した。
青い壁の絵具を微量だけ取り、断面を顕微鏡で見る。すると青の層の中に、赤い顔料の粒が残っていた。
カーマイン・レーキ。虫から作る赤の顔料で、鮮やかだが光に弱い。青に赤を混ぜれば紫になり、赤だけが褪せれば、あとに青が残る。
つまり手紙は正しかった。壁は、描かれたときには紫だったのである。私たちが百三十年後に見ているのは、色が抜けたあとの姿ということになる。
この展覧会は、離ればなれになっていた三枚を一室に集めてもいる。同じ構図が三つ並ぶ機会は、そう多くない。
そして褪せ方は、三枚で同じにはならないはずである。絵具の配合も、百年以上のあいだ置かれてきた場所も、それぞれ違うからだ。
赤が弱いことは、当時から知られていた話でもある。それでも彼はこの赤を使った。安く、鮮やかで、手に入る絵具だったからである。
画家の選択には、いつも材料の事情が混ざっている。前の記事で見た浮世絵の青と、構図は同じである。
この調査には続きがある。分析の結果をもとに、描かれた当時の色をデジタルで復元した画像が作られた。
紫の壁、もっと赤みの強い床。並べて見ると、部屋の印象はかなり変わる。冷たい部屋が、少し体温のある部屋になる。
同じ展覧会では、この部屋を実物大で再現する試みも行われた。絵の中の家具を作り、宿泊できる部屋として公開している。
やりすぎのようにも思えるが、意図は分かる。この絵は「部屋にいる感じ」を主題にしているので、体で確かめたくなるのである。
ただし再現された部屋は、絵の再現であって、アルルの部屋の再現ではない。傾いた床も食い違う壁も、絵の中の出来事である。
サン=レミの九月
二枚目が描かれた場所のことも、書いておきたい。
1889年5月、ゴッホはサン=レミの療養院に自ら入る。そこで一年ほどを過ごし、そのあいだに多くの作品を描いた。
外出できない時期には、模写と繰り返しに向かっている。ミレーやドラクロワの版画を手本にした油彩も、この時期のものである。
手本を前に置いて描き直す作業は、彼にとって手の運動であり、同時に精神を保つ手順でもあったようだ。

《寝室》の平らな色面と、この糸杉のうねりは、同じ年に同じ人の手から出ている。
繰り返しの絵が静かなのは、手本があるからでもある。目の前の絵の指示に従って手を動かすとき、画面は落ち着く。
二枚目の《寝室》には、その落ち着きがある。線は一枚目より整い、色の配置も明快になっている。
事故がきっかけで始まった繰り返しが、結果として彼の仕事を支えた。そう読むこともできる。
三枚が歩いた道
三枚がどこへ行ったかも、たどっておきたい。絵の一生は、描かれた日から始まって今日まで続いている。
シカゴの一枚は、完成の三か月後、1889年12月に弟テオのもとへ送られた。差し出した翌日の手紙に、送ったことが書かれている。
テオは1891年に亡くなる。絵は妻ヨハンナの手に渡り、彼女はゴッホの作品を世に出す仕事を引き受けた。
1901年ごろ、この一枚はパリの画商へ売られる。その後ウィーンの収集家の手に渡り、1909年と1914年の展覧会に出品されている。
1926年、パリの画商を経てシカゴの収集家フレデリック・クレイ・バートレットが購入し、同じ年に美術館へ寄贈された。
死後三十六年で、ロッテルダムでもウィーンでもなく、シカゴの美術館に落ち着いたことになる。
一枚目はアムステルダムに残り、いまはゴッホ美術館にある。三枚目はパリのオルセー美術館にある。
同じ部屋を描いた三枚が、三つの都市に分かれて掛かっている。この散り方も、絵の履歴のうちである。
「同じ絵」は、はじめから存在しない
ここまで来ると、最初の問いに答えが出せる。繰り返しは複製ではない、と言える。
手で写す以上、二度目には二度目の判断が入る。線の勢いも、絵具の厚みも、そのときの手の状態が出る。
しかも三枚は、描かれたあとに別々の時間を過ごした。水を被った一枚、療養院で描かれた一枚、家族に贈られた一枚。褪せ方も、修復の履歴も同じではない。
はじめは同じ図だったものが、時間の側からも別々にされていく。三枚は「同じ絵の三つの状態」ではなく、三枚の別の絵として、いま存在している。
版画の世界では、これは当たり前のことでもある。同じ版から刷られた紙が、それぞれ違う褪せ方をして各地に散っている。
油彩は世界に一枚だから確かだ、という感覚のほうが、実は素朴すぎるのかもしれない。一枚しかない絵も、時間の中では毎年少しずつ違う絵である。
家のほうも描かれている
ついでに書いておくと、彼はこの部屋を含む建物そのものも描いている。1888年の《黄色い家》である。
外から見た建物、前の広場、通りを行く人。角の二階に、この寝室の窓がある。
内と外の両方を描いた例は、彼の作品でも多くない。それだけ、この家に思い入れがあったということだろう。
いまその建物は残っていないので、外観を知る手がかりも絵と写真だけである。
《寝室》を見るときに、この建物の絵を思い出すと、部屋の位置が具体的になる。二階の角、通りに面した窓、閉じられた緑の鎧戸。
閉じているのは、南フランスの日差しを避けるためだろう。あの鎧戸の向こうに、いま私たちが立っている場所がある。
三枚を見分ける
三枚は同じ構図だが、細部にはっきりした違いがある。見分けるための手がかりを挙げておきたい。
いちばん分かりやすいのは、壁に掛かった絵である。三枚とも、寝台の頭側の壁に小さな絵が掛かっている。
一枚目とシカゴ版では、そこに描かれている肖像が違う。誰を描いた絵かも、研究者のあいだで議論がある。
寸法も違う。三枚目は他の二枚より小さく、母と妹に贈るために縮められている。
そして色の調子である。褪せ方が同じでない以上、いまの三枚は違う印象を与える。
もし三枚を並べて見る機会があれば、まず壁の絵を見比べてほしい。次に床の色、最後に壁の色。
同じ構図をなぞりながら、画家が毎回どこを描き直したのか。その痕跡が、繰り返しという行為の中身を教えてくれる。
それでも、見る価値がある理由
では、褪せた絵を見ることに意味はあるのか。あると思う。ただし、見方に一段だけ手を加えたい。
この絵の場合、私たちは幸運なことに、画家自身が書いた色の指定を持っている。手紙という「本人の設計図」と、現状の画面を、並べて見ることができる。
壁を紫だと思って見直すと、床の赤みや掛け布の赤が違う効き方を始める。青一色の部屋に見えていた画面が、もう少し暖かい方へ寄っていく。
もちろん、頭の中で色を戻すのは想像でしかない。それでも、いま見えている色を最終形だと思い込むよりは、絵に近いはずである。
そしてもうひとつ。この部屋には、実現しなかった計画が写り込んでいる。
椅子は二脚あり、枕は二つ並んでいる。共同生活は二か月で終わり、家は空になり、画家は病院へ移った。
それでも彼は、同じ部屋をもう一度描いた。壊れた計画の図面を、療養院の机で引き直したことになる。
作品は完成した時点で止まるものではない。褪せ、直され、写され、また褪せていく。三枚の《寝室》は、その過程を三つの速度で見せてくれている。





