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ターナーはなぜ、自作をロランの隣に掛けよと遺言したのか

ターナーは遺言で、自作をロランの絵に挟んで展示せよと命じた。敬意では説明できないこの執着の正体を、借りた構図、月に置き換えた太陽、そして骨格が消える晩年までたどる。

ヴェネツィア、サルーテ聖堂の玄関から
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《ヴェネツィア、サルーテ聖堂の玄関から》メトロポリタン美術館蔵(CC0)

遺言に書かれた条件

1851年、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが亡くなった。イギリス絵画史上もっとも成功した画家のひとりであり、莫大な数の作品を残していた。

その遺言には、少し変わった条件がついていた。自作の二点を国に寄贈する。ただし、それらをクロード・ロランの絵の隣に掛けること。

指定されたロランの作品は《シバの女王の乗船》と《イサクとレベカの結婚》。どちらも1648年の作である。ターナーの絵は、この二点に挟まれて展示されなければならない、というのだ。

条件は守られた。ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、いまも四点がその通りに並んでいる。

ここで注意しておきたいのは、この条件が「敬意」だけでは説明しきれないことである。

尊敬する先人の隣に置いてほしい、という願いなら分かる。だがターナーが指定したのは、二点のロランに自作を挟ませる配置だった。並べて見比べさせる、という意思がある。

死後の展示位置まで指定する。それも、百七十年ほど前に死んだ他人の画家の隣を。この執着は何だったのか。

ヴェネツィア、サルーテ聖堂の玄関から
ターナー《ヴェネツィア、サルーテ聖堂の玄関から》1835年ごろ。左右に建物を置き、中央を奥へ抜く。骨格はロランの港湾風景と同じである。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《ヴェネツィア、サルーテ聖堂の玄関から》メトロポリタン美術館蔵(CC0)

借りたのは骨格だった

ターナーは1775年生まれ。ロランが亡くなってから、およそ九十年後の人である。会ったことはもちろんない。

だが実物を見る機会はあった。18世紀のイギリスでは、ロランの絵は上流階級の収集対象として珍重されており、複数の個人蒐集家が所蔵していた。

なかでも《シバの女王の乗船》を初めて見たときのことは、逸話として伝えられている。ターナーはひどく動揺し、涙を流したという。理由を問われて、自分にはあんな絵は決して描けない、と答えたとされる。

真偽を確かめるすべはない。だがこの話が語り継がれてきたこと自体が、二人の関係の受け取られ方をよく示している。

それでも、彼が何を受け取ったかは画面を見れば分かる。上に掲げた《ヴェネツィア、サルーテ聖堂の玄関から》を見てほしい。

右手にサルーテ聖堂の階段。左手に建物の列。中央を舟が埋め、その先が奥へと抜けていく。左右を建物で挟み、中央を明るく開くこの構成は、ロランが港湾風景で繰り返し使った骨格そのものである。

もっと分かりやすい例もある。1811年の《サルタッシュの渡し場、コーンウォール》だ。

サルタッシュの渡し場、コーンウォール
ターナー《サルタッシュの渡し場、コーンウォール》1811年。石造りのアーチ、舫われた舟、群がる人々。港湾風景の型に、イギリスの日常が入っている。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《サルタッシュの渡し場、コーンウォール》メトロポリタン美術館蔵(CC0)

石造りのアーチがあり、その下に人が群がり、赤い帆の舟が舫われ、左奥が霞んで明るい。ロランの理想的な港の絵から、構成要素をそのまま持ってきたように見える。

アーチというのが特に分かりやすい。ロランの港では、古代風の門や柱廊が画面の縁を締める役割を果たしていた。ここではその位置に、実用のための石橋が据えられている。

ただし中身が違う。ここにいるのは女王でも英雄でもなく、渡し舟を待つコーンウォールの人々である。積まれているのは異国の財宝ではなく、日々の荷物だ。

光の扱いにも違いがある。ロランの港では日が水平線際から差し込むが、ここでは湿った空気が全体を包み、光は拡散している。イギリスの天気である。

型は借りる。中身は自分の国の、自分の時代のものにする。これが若い頃のターナーのやり方だった。

三十代半ばの仕事だが、すでに「借りたうえで外す」という構えが見える。真似ているだけの絵ではない。

イギリスの実景に、型を当てる

もうひとつ、型の使い方がはっきり見える一枚がある。1827年の《モートレイク・テラス》である。

Mortlake Terrace
テムズ川に面した邸宅の芝生。左右から樹が枝を伸ばして視界を挟み、中央の川面に太陽が落ちている。ロランの構図が、そのままイギリスの庭に置かれている。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《Mortlake Terrace》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵(CC0)

描かれているのはロンドン西郊の実在の邸宅で、注文主の家である。つまりこれは、屋敷の記念写真のような仕事だった。

にもかかわらず、画面はロランの型で組まれている。左右の樹が舞台の袖のように立ち、中央が明るく抜け、逆光の水面が奥へ続く。

依頼された仕事に、先人の様式を当てはめる。イギリスの上流階級は、まさにその様式を欲しがっていたのだから、噛み合っている。

面白いのは細部である。手前の石の欄干に、黒い犬が一匹立っている。

この犬は絵具で描かれたものではなく、紙を切って貼りつけたものだと伝えられる。展示中に別の画家が悪戯で置き、ターナーがそのまま残したという話が残っている。

真偽は確かめようがない。ただ、この犬が画面の光量を締める錘として効いているのは事実である。全体が明るいなかで、ここだけが黒い。

型を借りた絵に、こういう小さな異物を入れる。それがターナーの仕事のやり方でもあった。

『真実の書』への返答

執着を示す証拠は、絵の中だけではない。

ロランには自作の構図を帳面に写し取る習慣があった。『真実の書』と呼ばれるその記録は、贋作を防ぐために始められたと伝えられ、彼の死まで四十年以上続けられている。

この帳面は、1770年代にイギリスで版画集として複製され、広く出回った。ロランの構図が海を越えて流通したわけである。

ターナーが直接手本にしたのは、この版画集のほうだった。1807年、彼は『習作の書』という名の版画集を刊行しはじめる。自作の構図を版画にして、分冊で世に出していく企てである。

名前からして重ねてある。『真実の書』に対する『習作の書』。刊行は1819年まで続き、五点ずつ十四分冊、計71点が世に出た。

当初は百点を予定していたが、完結しないまま終わっている。それでもこの仕事は、技術の面でも構想の面でも高く評価された。

メトロポリタン美術館は、この『習作の書』に関わる作品を百点以上所蔵している。ターナーが何を意識していたかは、企画の形そのものが語っている。

先人の版画集に、自分の版画集で応じる。競い方として、これはかなり直接的である。

しかも『習作の書』には、ロランには無かった分類がある。歴史、山岳、牧歌、海景といった区分を立て、風景をいくつもの種類として整理してみせた。

先人の仕事を受け継ぎながら、その枠組みを一段広げる。若いターナーの野心が、体系の作り方にも出ている。