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ターナーはなぜ、自作をロランの隣に掛けよと遺言したのか

神話も、まだ手放していない

ただし、晩年のターナーが物語を捨てたわけではない。1839年の《プロセルピナの略奪》を見ると、そのことが分かる。

The Rape of Proserpine
神話の場面である。だが人物は小さく、画面の大半は樹立ちと谷と光に譲られている。ロランの《パリスの審判》と、置き方がよく似ている。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《The Rape of Proserpine》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵(CC0)

冥界の王が娘を奪い去るという神話の場面だが、事件は画面の一部でしか起きていない。

主題を掲げて、実際には風景を描く。ロランがやっていた「二枚看板」を、ターナーは百八十年後にそのまま使っている。

つまり彼は、型も、時刻も、二枚看板の手つきまで受け継いでいた。そのうえで、少しずつ外していったことになる。

一気に否定して新しくなる、という道ではない。長く使い込んで、要らなくなった部品から捨てていく道である。

晩年に骨格が消えたのは、若い頃に骨格を徹底して使い込んだからだと考えたい。何を捨ててよいかは、使ってみないと分からない。

色そのものを主題にする

最晩年には、さらに踏み込んだ画面が現れる。1843年ごろの《大洪水の夕べ》を見てほしい。

The Evening of the Deluge
渦を巻く暗い調子のなかに、光がかろうじて差している。何がどこにあるのかを言葉にするのが難しい画面である。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《The Evening of the Deluge》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵(CC0)

主題は旧約聖書の洪水である。しかし出来事の説明は、ほとんど放棄されている。

この時期のターナーは、色そのものの働きに強い関心を持っていた。暗い側と明るい側、冷たい色と暖かい色を対にした画面を、いくつも試している。

背景には、当時読まれていた色彩論への関心があったとされる。光と闇のあいだに色が生まれる、という考え方である。

理屈が絵をよくするとは限らない。だが、絵を先へ押し出すことはある。彼の場合は後者だった。

ここまで来ると、ロランの骨格はもう見えない。それでも、光を主題にするという一点だけは受け継がれている。

紙の上で試していた

油彩ばかり見てきたが、ターナーの仕事の土台は紙のほうにあった。この点にも触れておきたい。

彼は生涯にわたって水彩と素描を描き続けた。国に遺されたものだけで、数万点に及ぶ。

水彩は油彩より速い。天候の変化も、光の推移も、その場で捉えられる。

そして水彩では、紙の白がそのまま光になる。絵具を置かないことが、明るさを作る手段になる。

油彩でいえば、これは「塗らない」という選択に当たる。晩年の白っぽい画面は、水彩の考え方を油彩へ持ち込んだ結果とも読める。

ロランもまた、現場では紙に描いていた。素描で光の配分を採取し、工房で油彩に組み直す。

二人とも、紙の上で考えて、画布の上で仕上げた画家である。手順が似ていることは、受け継がれたものの一部かもしれない。

執着の正体

ここまで見てくると、ターナーがロランから受け取ったものが見えてくる。

それは港の描き方でも、木の形でも、構図の公式でもなかった。もっと根本的なもの——光を主題にしてよいという許可である。

ロランは、名もない牧人しかいない風景に《日の出》と名づけた画家だった。何が起きたかではなく、いつの光かを主題にした。当時としては危うい選択である。

ターナーはその許可を受け取り、行けるところまで行った。骨格が要らなくなるまで、対象の輪郭が消えるまで。

だから彼は、自分の絵をロランの隣に掛けよと言い残したのだと思う。師への感謝というより、証明の要求に近い。あなたが開けた扉から、私はここまで行きましたよ、と。

付け加えるなら、ロラン本人にそこまでの自覚があったとは限らない。彼は注文に応じて風景を描き続けた職業画家であって、風景画の地位を変えようと運動した人ではない。

扉を開けた側は、たいてい自分が何を開けたか気づいていない。気づくのは、そこを通った後の人である。

もちろん、これも絵から引き出した読み方にすぎない。遺言の真意は本人にしか分からない。

遺贈という制度

冒頭の遺言に戻りたい。あの条件は、そもそもどういう仕組みの上に成り立っていたのか。

ターナーは自作の大部分を国に遺した。油彩だけでなく、水彩と素描を含む膨大な量である。

条件つきの遺贈だった。作品を一括して保存し、公開すること。そして自作二点をロランの隣に掛けること。

遺言の解釈をめぐっては、死後に争いが起きている。親族との訴訟を経て、作品は国のものとして落ち着いた。

ここで注目したいのは、彼が「一枚の絵の扱い」ではなく「作品群の扱い」を設計したことである。

自分の仕事の全体を、まとめて後世に渡す。しかも比較の相手まで指定して。

自作が単独で評価されることを、彼は望まなかったのかもしれない。ロランの隣に置かれてはじめて意味が完成する、という考え方である。

作品を残すとは、物を残すことではなく、見られ方を残すことでもある。この遺言は、その難しさを引き受けた例だと言える。

擁護する批評家がいた

もうひとつ、晩年のターナーを支えたものにも触れておきたい。批評である。

当時の批評は、輪郭の消えた画面に冷淡だった。仕上げていない、乱暴だ、といった評が並ぶ。

そこへ若い批評家が現れる。ジョン・ラスキンである。彼はターナーを擁護する長い著作を書き、後半生を通じてその評価を押し上げた。

ラスキンの主張は単純ではない。自然をよく観察した結果としてこの画面がある、という論の立て方をしている。

輪郭が消えているのは、いい加減だからではない。実際に空気を通して見れば輪郭はそう見える、というわけである。

同じラスキンが、後年ホイッスラーの夜景を「絵具を投げつけた」と酷評して裁判になったのは、別のコラムで触れたとおりである。

観察の裏づけがあるかどうか。彼の物差しは一貫していたが、その物差しに合わない絵も現れはじめていた。

批評は、新しい絵を説明するために言葉を作る仕事でもある。ターナーの晩年作は、その言葉が追いつくかどうかの試験でもあった。

二人を並べて見る

2026年10月から、東京・上野の国立西洋美術館で「テート美術館 ターナー展——崇高の絵画、現代美術との対話」が開かれる。油彩・水彩あわせて80点以上が来日する大回顧展である。

会場でターナーの絵の前に立ったら、ロランのことを思い出してみてほしい。見るべき点は三つだけでよい。

左右に何かが立っているか。中央は奥へ抜けているか。影はどこまで暗いか。この三つを確かめるだけで、その絵がロランの骨格をどれだけ残しているかが分かる。

そして、その骨格がいつ消えるのかを追ってみる。制作年順に見ていくと、ある時期から画面が急に軽くなるはずである。

軽くなった先にあるのが《捕鯨船》のような画面だ。何が描いてあるか分からない、と感じたらそれは失敗ではない。分からせないことが目的になっている絵である。

当サイトにはロランの作品が十一点、ターナーの作品も複数そろっている。会場へ行く前でも後でも、画面で見比べることはできる。

見比べる順番として、ひとつ提案がある。制作年順ではなく、明るさの順に並べてみてほしい。

暗い前景を持つ絵から、前景まで明るい絵へ。そう並べると、二人の画家が同じ一本の道を歩いていたことが見えてくる。

ロランの《日の出》の暗い手前と、ターナーの《捕鯨船》の白い大気は、両端に置かれた同じ問題への答えである。

九十年の隔たりを越えて、片方がもう片方に投げたものが何だったのか。並べて見ると、絵の手触りが少しだけ変わってくるはずである。

そして、この見比べができること自体が、ここ十数年の変化でもある。両者の作品が CC0 で公開されていなければ、こんなふうに並べることはできなかった。

美術館の壁で隣り合わせるという遺言は、いまや画面の上で、誰の手元でも実現できる。ターナーが望んだ比較は、思っていたより広い場所で行われている。

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