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風景はいつ「主役」になったのか——クロード・ロランの十数年をたどる

当サイトで公開しているクロード・ロランの十一点を、1629年の混雑した岸辺から1673年のデルフォイまで並べてみる。減っていくのは物語と人物と構図の型、最後まで残るのは光。風景画が「時刻を売る」商品になるまでをたどる。

日の出
クロード・ロラン《日の出》メトロポリタン美術館蔵

五枚が同じ館にある

ニューヨークのメトロポリタン美術館は、クロード・ロランの油彩を五点所蔵している。制作年はいずれも1630年代から1650年ごろに収まる。

《浅瀬》がおよそ1636年。《牧歌的風景:ローマのカンパーニャ》が1639年ごろ。《船隊に火を放つトロイアの女たち》が1643年ごろ。《日の出》がおそらく1646年から47年。そして《ラ・クレシェンツァの眺め》が1648年から50年。

ひとりの画家の十数年を、同じ館の中で順に追えるということである。これは案外めずらしい。名品は各地に散らばるのが普通で、一館に同一画家の油彩が五点そろうこと自体が幸運に属する。

しかもその十数年は、風景画の性格が変わっていく時期にあたっている。

ただし断っておくと、これらの年代の多くは「およそ」であり、確定した日付ではない。きれいな一本道の物語に仕立てるのは慎むべきだろう。

それでも、五枚を並べて見えてくるものはある。何がだんだん減っていき、何が最後まで残ったのか。この記事では、その順に画面を見ていく。

先に結論めいたことを言っておくと、減っていくのは物語と人物、そして構図の型である。残るのは光だ。

なお当サイトでは、この五点に加えて、ワシントンとシカゴの美術館から来た作品も公開している。合わせると十一点になる。

そのなかには、五点より早い1620年代の一枚も、はるかに遅い1673年の一枚も含まれる。話の途中で、この二枚にも登場してもらう。

その前——1620年代の混雑した岸辺

五点の話に入る前に、もっと早い時期の一枚を見ておきたい。1629年ごろの《商人のいる風景》である。

商人たちのいる風景
左に高い樹立ちがあり、川が奥へ退いていく。ただし手前は荷箱と壺と人でいっぱいで、視線は簡単には奥へ行けない。クロード・ロラン《商人たちのいる風景》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

構成の骨格は、のちの作品と同じである。左に暗い樹、中央に川、遠くに霞む山。

違うのは手前の扱いだ。荷を解く商人、船を繕う男、花を植えた壺、麻袋、材木。細かいものが所狭しと並んでいる。

見どころが分散している、と言ってもいい。目はまず手前の賑わいを追い、それから奥へ向かう。

のちの作品では、この手前がごっそり空になる。暗く沈めて、何も置かない。奥へ行かせるために、手前を犠牲にする判断である。

二十歳代の画家は、まだそこまで割り切っていない。目録のように事物を並べる楽しさのほうが勝っている。

出発点——人が休み、川が流れる

十年ほど下って、もっとも早い《浅瀬》から五点の話を始めよう。

浅瀬
画面左を大きな樹が占め、その先を川が遠い山へ退いていく。手前の人々は、誰と特定できる人物ではない。クロード・ロラン《浅瀬》メトロポリタン美術館蔵

大きな樹の下に数人が腰を下ろしている。川には小舟が浮かび、そこにも人が乗っている。奥には青くかすむ山並み。それだけの画面である。

水面は白く光り、遠景は霞んで輪郭を失っている。この「遠くほど淡く、青みがかる」扱いが、狭い画面に深い距離を作り出している。

樹の葉むらの描き方にも触れておきたい。一枚一枚を追うのではなく、明るい塊と暗い塊の重なりとして置かれている。近づけば筆の跡でしかないものが、離れると葉に見える。

ここに神話はない。聖書もない。人物はいるが、名前を持たない。旅の途中で休んでいる誰か、という以上のことは分からない。

このように、名もない牧人や旅人だけを置いた風景を「牧歌的風景」と呼ぶ。物語を語らない絵として、当時すでに認められていた領域である。

つまりロランは、出発点からすでに物語なしで絵を成立させていた。この点は押さえておきたい。物語を捨てたのが晩年の発見だった、という話ではないのである。

ただしこの段階では、構図の作り方がまだ緩い。樹も川も人物も、置かれるべき場所に置かれているという感じが薄い。写生の延長という気配が残っている。

型ができる

三年ほど後の《牧歌的風景:ローマのカンパーニャ》を見ると、様子が変わっている。

牧歌的風景:ローマのカンパーニャ
左右の端に暗い樹を立て、中央を明るい水辺へ抜く。奥行きは、この明度の落差が作っている。クロード・ロラン《牧歌的風景:ローマのカンパーニャ》メトロポリタン美術館蔵

画面の両端に暗い樹が立つ。その内側が明るく開き、水面と小舟を経て遠い山並みへ視線が送られる。手前には牛と山羊、腰を下ろした牧人がひとり。

左右を暗く締め、中央を明るく抜く。この構成は舞台の袖が客席の視界を挟むのと同じ働きをするので、フランス語で袖を指す語がそのまま呼び名になった。

重要なのは、これが「型」だということである。目の前の自然をそのまま写したのではない。奥行きが最もよく効くように、画面が組み立てられている。

型があると何が得か。まず、どんな題材でも画面が破綻しない。どこに何を置けばよいかが決まっているからだ。

そしてもうひとつ、見る側にも効く。暗い枠の内側に明るい奥行きがあると、人はそこを覗き込む姿勢になる。絵の中へ入っていく感覚が生まれるのである。

断っておくと、この型はロランひとりの発明ではない。彼以前の風景画家たちも似た工夫を使っていた。ロランがしたのは、それを徹底して洗練させたことである。

ともあれ、風景画が写しから設計へ移った跡がここにある。以後ロランは、この骨格を手を変え品を変え使い続けることになる。

物語を載せる

では物語はどうなったのか。1643年ごろの《船隊に火を放つトロイアの女たち》を見てみたい。

船隊に火を放つトロイアの女たち
帆柱と旗が画面を占め、岸辺の女たちが身振りで物語を告げる。ただし面積の大半は空と海である。クロード・ロラン《船隊に火を放つトロイアの女たち》メトロポリタン美術館蔵

ウェルギリウスの叙事詩から取られた場面である。長い航海に疲れ果てた女たちが、これ以上進むまいと船団に火を放つ。

当時の絵画には序列があった。神話や聖書を描く歴史画が最上位で、風景はその下に置かれる。

だから風景画家は、画面に物語の人物を配することがあった。物語の格を借りて、自分の絵を上の段へ寄せるのである。

ただしこの絵をよく見ると、面積の大半を占めているのは空と海と光である。物語は画面の下辺に、細長い帯のように収まっているにすぎない。

女たちの姿は小さく、身振りは大きいが表情までは分からない。誰が誰であるかを見分けることは、まず不可能である。

かわりに丁寧に描かれているのは、帆柱の林立と、旗のはためきと、水平線際の光の広がりだ。画家の熱意がどこに注がれているかは、見れば分かる。

主題として掲げられているのは物語だが、実際に描き込まれているのは大気のほうだ。看板と中身がずれている、と言ってもいい。

物語は、どこに置かれるか

このずれ方は、彼の作品にほぼ共通している。ワシントンにある《パリスの審判》で確かめてみたい。

パリスの審判
1645年から46年。神話の場面でありながら、人物は画面の左下、岩と樹のあいだの狭い場所に収まっている。クロード・ロラン《パリスの審判》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

三人の女神と羊飼いパリス。誰がいちばん美しいかを競う、西洋絵画で繰り返し描かれてきた主題である。

ふつうなら人物が画面の中心を占め、身体の描写が見どころになる。ところがここでは、人物は小さく左下に寄せられている。

画面の大半は、岩と滝と樹、そして遠い山並みと空である。神話は、風景の片隅で起きている小さな出来事として置かれている。

これは当時の格付けをうまくかわす方法でもあった。神話を描いている以上、この絵は歴史画である。だが実際に見えているのは風景である。

看板は歴史画、中身は風景画。ロランの多くの作品は、この二枚看板で成り立っていた。

そして注文する側も、それを承知だったはずである。教養ある主題を掲げつつ、実際には壁に掛けて心地よい景色を買う。需要と供給が噛み合っている。

光そのものが主題になる

そのずれが表に出てくるのが、1646年から47年ごろの《日の出》である。

日の出
題名が示すのは出来事ではなく、時刻である。手前の人影は小さく、誰とも特定できない。クロード・ロラン《日の出》メトロポリタン美術館蔵

画面中央に大きな木立が影となって立ち、その向こうの空が橙色に染まっている。左手には平野が開け、遠い山まで薄明かりに沈む。

手前の水辺には牛を追う人影があるが、小さく、暗く、誰とも特定できない。物語は、もはや口実としても置かれていない。

注目したいのは明るさの配り方である。画面の下半分はほとんど闇に沈み、光は空の帯と、遠くの丘の上の集落にだけ当たっている。

暗い前景を置いて遠景を明るくすると、目は自然に奥へ引かれる。ロランはこの効果を、この頃には完全に手中にしている。

そして題名である。《日の出》。人の名でも事件の名でもなく、時刻の名がついている。

何を描いた絵かと問われれば、朝の光を描いた絵だと答えるほかない。風景が主役になったというより、光と時刻が主役になったと言うべきかもしれない。

ちなみにこの絵の画面はかなり大きい。縦およそ103センチ、横134センチ。前節の《トロイアの女たち》に迫る寸法である。

物語のない絵に、物語画と同じ大きさの画面が与えられている。この事実だけでも、当時としては小さな事件だったのではないか。

なぜ朝と夕方なのか

彼の絵は、朝か夕方であることが多い。真昼の絵はほとんどない。好みの問題だけではないと思う。

太陽が高いと、光は上から落ちてくる。物には短い影がつき、それぞれの色がはっきり出る。個々の形を見せるには都合がよい。

太陽が低いと、事情が変わる。光は横から差し、影は長く伸び、遠くの空気の層を長く通ってくる。

すると全体に一枚の膜がかかる。赤みを帯びた膜であり、この膜が画面をひとつにまとめてくれる。

そしてもうひとつ、低い太陽は画面に入れられる。真昼の太陽は見上げる位置にあり、風景画の枠には入らない。

太陽そのものを画面の中に置き、そこから手前へ光の帯を引く。彼の港の絵が繰り返しやっているのは、この操作である。

つまり朝と夕方は、光を主題にするための条件だった。時刻の選択は、主題の選択でもある。

到達点

そして1648年から50年の《ラ・クレシェンツァの眺め》に行き着く。

ラ・クレシェンツァの眺め
実在する館を主題にしながら、館は小さく、木立の隙間から半ば覗くだけである。クロード・ロラン《ラ・クレシェンツァの眺め》メトロポリタン美術館蔵

画面は五枚の中でもっとも小さい。縦およそ39センチ、横58センチ。前節の《日の出》の半分ほどしかない。

そしてここでは人影がほぼ消える。牛が数頭いるが、目を凝らさなければ気づかない。

左右を挟む樹の枠もない。木立は画面を横切る一列の衝立のように立ち、視線を導く小道具は置かれていない。

しかも描かれているのは、ローマ北方に実在する館である。ロランが油彩で実在の建物をそのまま主題にした作例は、これひとつとされる。想像でも理想化でもない、ただの場所だ。

型を捨て、物語を捨て、理想化まで捨てて、最後に残ったのが夕方の光だった。

もっとも、この一枚は例外的な作でもある。以後ロランがこの方向へ進んだわけではなく、晩年には再び神話主題の大作を手がけている。到達点というより、いったん行き着いてしまった地点と言うほうが正確かもしれない。

この作品については別稿で一枚まるごと読んでいるので、あわせてご覧いただきたい。

現場では何をしていたのか

ここで、制作の手順にも触れておきたい。これらの油彩は、現場で描かれたものではない。

戸外での油彩制作が広まるのは十九世紀のことで、十七世紀の画家は工房で描いた。では現場では何をしていたのか。

素描である。紙にインクと淡彩で、光の配分を採取していた。

サッソからの眺望
《サッソからの眺望》。極端に横長の紙に、丘と湖と遠い山が淡い茶色の濃淡だけで置かれている。右端の壁の上に、腰かけた小さな人物が見える。クロード・ロラン《サッソからの眺望》シカゴ美術館蔵

輪郭を追った素描ではないことに注意したい。ここで記録されているのは、明るさの層である。

手前の丘は濃く、中景の木立はやや薄く、湖と遠山はほとんど紙の色に近い。三段か四段の調子だけで、何十キロ先までの距離が出る。

同時代の証言によれば、彼は夜明けと日没にローマ郊外へ出かけ、空の色が変わっていく様子を繰り返し観察したという。

つまり彼が現場から持ち帰っていたのは、景色ではなく光の配分表だった。工房での組み立ては、その表を骨にして行われたことになる。

到達点のあと——1673年のデルフォイ

《ラ・クレシェンツァの眺め》を到達点と呼びたくなるが、話はそこで終わらない。

シカゴにある《行列のあるデルフォイの眺め》は1673年の作である。ロランは七十歳を超えている。

行列のあるデルフォイの眺め
岩山の頂に円形の神殿が建ち、崖下に古代の建築が連なる。手前を、花輪をかけた牛を連れた行列が横切っていく。クロード・ロラン《行列のあるデルフォイの眺め》シカゴ美術館蔵

物語が戻ってきている。ギリシアの聖域デルフォイ、神託を求める行列、供犠の牛。文献から組み立てられた場面である。

しかも人物の数は増え、身振りも読み取れる。手前の行列だけで十人以上が数えられる。

《ラ・クレシェンツァの眺め》の無人ぶりを思い出すと、正反対の選択である。二十数年のあいだに、彼は逆方向へ戻っている。

ただし光の扱いは変わっていない。岩山は逆光で暗く沈み、その向こうの平野と海が白く霞んでいる。

前景の人物にも、細かい陰影はほとんど付けられていない。彼らは光を受ける小さな面として置かれているだけである。

つまり戻ったのは主題であって、方法ではない。晩年の彼は、物語をもう一度載せながら、光の絵を描き続けたことになる。

一直線に「物語を捨てて光へ」進んだ画家、という物語のほうが分かりやすい。しかし作品はそう並んでくれない。

こういう食い違いこそ、複数の作品を並べて初めて見えるものである。一枚だけを見て時代を語ると、たいてい間違える。

何が「主役」になったのか

五枚を通して見ると、風景画の主役の座に着いたのは、じつは風景そのものではない、という気がしてくる。

樹も川も館も、結局は光を受け止めるための面として置かれている。何が描かれているかより、そこにどんな光が当たっているかが問題になっている。

考えてみれば、五枚に共通して描かれているものは驚くほど少ない。樹、水、遠い山、小さな人影。組み合わせはほとんど同じである。

違うのは光だけだ。朝なのか、昼過ぎなのか、日が傾いた頃なのか。その一点で、五枚はまったく別の絵になっている。

ロランが顧客に売っていたのは、景色ではなく時刻だった——そう考えたい。朝の光、昼の霞、夕方の斜光。彼の絵は、一日のどの瞬間かを指定する装置である。

この見方が正しければ、後の画家たちが彼に惹かれた理由も分かりやすくなる。ターナーもコローも、結局は光を追いかけた人たちだった。

彼らがロランから受け取ったのは、木の描き方でも構図の型でもなく、「時刻を主題にしてよい」という許可だったのではないか。

とくにイギリスでの受容は徹底していた。十八世紀の英国貴族はイタリア旅行の記念にロラン風の風景画を買い求め、自邸の庭までその画面に似せて造らせた。

「絵のような」という言葉が、そのまま庭園の様式を指すようになった時代である。絵が現実の風景の手本になった、めずらしい例と言える。

ターナーは遺言で、自作二点をロランの二点の隣に永久に並べて展示するよう求めた。条件が守られる限りにおいて、という但し書き付きの遺贈である。

その執着の中身については別のコラムで書いた。単なる憧れではなく、勝負を挑む姿勢だったと考えている。

もっとも、これは五枚から引き出した読み方にすぎない。年代にも幅があり、証明された筋道ではないことは、もう一度断っておきたい。

真似できる形になった、ということ

もうひとつ、彼の光の扱いには副作用があった。型として完成したせいで、真似されやすかったのである。

日没の港
《日没の港》。沈む太陽が水平線の中央にあり、光の帯がまっすぐ手前へ伸びる。左に塔、右に帆船、手前に人物。ロランが確立した配置がそのまま使われている。《日没の港》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

この一枚は、ロラン本人の作ではない。所蔵館は「クロード・ロランの追随者」と記録している。

出来が悪いわけではない。むしろ型がよく守られていて、遠目には見分けがつきにくい。

ロランが自作の構図を『真実の書』という帳面に写し取り続けたのは、まさにこの状況への備えだった。贋作を防ぐため、と本人が語ったと伝えられる。

皮肉なことに、その帳面は十八世紀のイギリスで版画集として複製され、彼の構図を広く配ることになった。守るための記録が、広めるための道具になったわけである。

作者欄の書き分けについては別のコラムで詳しく書いた。「追随者」という一語の重みも、そこで触れている。

なぜローマだったのか

ここで、彼が働いた場所についても触れておきたい。ロランの仕事は、ローマという都市の条件と切り離せない。

十七世紀のローマは、ヨーロッパ随一の美術市場だった。教皇庁と枢機卿たちが常に注文を出し、各国の貴族が滞在して買っていく。

そこへ北方から画家が集まってくる。オランダ、フランドル、フランス、ドイツ。ロランもその一人だった。

彼らは古代の遺跡を写生し、郊外の風景を描いた。北方の写実の訓練と、イタリアの光が、そこで結びつく。

風景画の需要が生まれた背景には、この「外国人の集団」がある。旅行者は、自分が見た土地の記憶として絵を買った。

つまり理想風景とは、ローマ滞在の記念品でもあった。実景に基づきながら、思い出しやすいように整えられている。

そう考えると、彼が実在の館を描かなかった理由も見えてくる。特定の場所を描けば、その場所を知る人にしか意味が届かない。

《ラ・クレシェンツァの眺め》の例外性は、この点にもある。あれは、記念品ではない一枚だったのかもしれない。

点景の人物は、うまくない

彼の絵について、当時から言われていたことがある。人物が下手だ、という指摘である。

たしかに、彼の描く人物は硬い。手足の運びがぎこちなく、顔はほとんど描き分けられていない。

風景の側があれだけ精緻なのに、人物だけが図式的である。並べて見ると、その落差は隠しようがない。

本人にも自覚があったらしく、風景は売るが人物はおまけだ、という趣旨のことを語ったと伝えられる。逸話の真偽は確かめようがない。

重要なのは、それでも彼が人物を置き続けたことである。神話の主題を掲げるには、人物が要る。

苦手な部分を外部の型で処理し、得意な部分に力を集める。職業画家として、これは合理的な配分である。

そして結果的に、この配分が絵の性格を決めた。人物が弱いぶん、見る側の目は風景と光へ向かう。

欠点が主題を押し出している。うまくいった絵には、こういう逆説がしばしば見つかる。

どの時刻を見ているか

絵を見るとき、私たちはたいてい「何が描かれているか」から入る。花の絵、海の絵、人物の絵、という具合に。

ロランの五枚は、そこに別の入り口を差し出す。これは朝の絵か、夕方の絵か。明るい絵か、沈んだ絵か。まず時刻から見る、という入り方である。

試しに、五枚を時刻の順に並べ替えてみてほしい。制作年順とは違う並びになるはずだ。《日の出》が先頭に来て、《ラ・クレシェンツァの眺め》が最後に来る。

そうやって並べると、この画家が一日のどの瞬間を好んだかが見えてくる。答えは、たぶん夕方である。

四百年前の画家が扱っていたものが時刻だったのなら、こちらもその単位で受け取ってみたい。何が起きているかを探すより、いつなのかを感じるほうが、この絵には合っている。

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