父の描いた顔、子の描いた顔——クルーエ父子と16世紀フランス宮廷
父ジャンの描いた学者の顔には皺があり、子フランソワの描いた王の顔には皺がない。腕の差ではなく注文の差である。37ミリの細密画から156センチの騎馬像まで、宮廷画家という職業の幅から16世紀の「顔」を読む。

学者は、こちらを見ていない
一枚の肖像から始めたい。ジャン・クルーエが1536年ごろに描いた《ギヨーム・ビュデの肖像》である。

強い青を背にして、黒い法服の男が座っている。頭には黒い帽子。頬はこけ、鼻は高く、目のまわりには年齢の皺が刻まれている。
注目したいのは手である。右手に羽根ペンを持ち、左手は開いた本の縁に添えられている。この人は、いま何かを書いている途中なのだ。
そして視線。彼はこちらを見ていない。顔をわずかに振り、画面の外の何かに目をやっている。書き物をしていて、ふと呼ばれて顔を上げた——そういう瞬間に見える。
描かれているのは「誰であるか」だけではない。「何をしている人か」が一緒に描かれている。ここが、この絵の要である。
ちなみにギヨーム・ビュデは、当時のフランスを代表する人文学者だった。ギリシア語とローマ法の研究で名を知られ、国王の蔵書を預かる役も務めている。後に王立の講座が設けられる際にも力を尽くした人である。
そういう人物を、玉座でも紋章でもなく、書きかけの机の前に置く。手にペンを持たせるのは、彼にとって最も正しい紹介の仕方だっただろう。
画面上部にはうっすらと文字の痕跡も見える。誰であるかを示す銘だが、いまはほとんど読み取れない。
父の手つき
ジャン・クルーエは、16世紀前半のフランス宮廷に仕えた画家である。生年も出自もはっきりしないが、フランソワ1世の時代に宮廷画家として活動したことは分かっている。
彼の名声を支えたのは、油彩よりむしろ素描だった。チョークで描かれた宮廷人の肖像素描が数多く残っており、その観察の鋭さは高く評価されている。
当時の宮廷では、こうした素描そのものが収集の対象だった。誰それの顔を写した紙が束ねられ、人名録のようにやりとりされる。顔の記録に対する需要が、それだけあったということである。
ビュデの顔を見ると、素描家の目がそのまま油彩に持ち込まれているのが分かる。頬の落ちくぼみ方、口の端のたるみ、まぶたの重なり。造作の一つひとつが、線で確かめられたうえで置かれている。
美化していない、と言ってもいい。少なくとも、若く見せようとはしていない。
これは注文主が自分をどう見せたかったかとも関わる。学者にとって、老いた顔は不利ではない。むしろ積み上げた年月の証しとして働く。
王の肖像で同じことをすれば、話は変わってくる。老いは衰えと読まれかねないからだ。同じ「似せる」でも、相手によって許される範囲が違う。
背景の青も効いている。人物の輪郭がくっきりと切り出され、顔と手だけが明るく浮かぶ。何を見せたい絵なのかが、色の配置だけで伝わってくる。
この青は、当時としては安い色ではない。無地の背景に高価な顔料を敷くという判断そのものが、この絵の性格を語っている。
素描という商売
父ジャンの本領が素描だった、という点をもう少し見ておきたい。ここに、この時代の肖像の作られ方が出ている。
彼が残した肖像素描は、黒と赤のチョークで描かれたものである。紙の上で、顔の造作だけを的確に拾っていく。
衣装はほとんど省かれ、線が数本引かれるだけのこともある。関心が顔の構造に集中していることが分かる。
こうした素描は、油彩を描くための下絵であると同時に、それ自体が完成品でもあった。宮廷では紙のまま束ねられ、人から人へ渡っていく。
つまり「顔の名簿」である。誰がどんな顔をしているかを、宮廷の内部で共有するための資料だった。
写真のない時代に、これは実用の道具である。会ったことのない相手の顔を知る手段は、ほかにほとんどない。
そして同じ顔が、必要に応じて何度でも油彩に起こされた。一枚の素描から複数の肖像画が作られることも珍しくない。
肖像画とは一回きりの創作ではなく、顔の情報を保管し、複製し、配るための仕組みだった。この前提を押さえておくと、次に見る息子の絵の性格が分かりやすくなる。
子の描く顔
では息子はどうか。フランソワ・クルーエの《フランス王シャルル9世の肖像》を見てみたい。

背景は黒である。青でも室内でもなく、ほとんど何も見えない闇だ。そこから少年の顔が、白く浮かび上がっている。
手は描かれていない。持ち物もない。彼が何をする人かは、この画面からは分からない。
顔の造作も違う。ビュデの顔にあった皺や落ちくぼみは、ここにはない。滑らかで、若く、表情がほとんど動いていない。父の絵にあった「いま何かをしている感じ」が、きれいに抜かれている。
もちろん、モデルが少年だという事情はある。シャルル9世は1560年、十歳で王位に就いた。母のカトリーヌ・ド・メディシスが実権を握り、宗教対立が激化していく時期の王である。
この絵の中の彼も、まだ少年の顔をしている。政治の当事者というより、王家の血筋を示す存在としてそこにいる。
だが問題は年齢だけではない。金糸の刺繍、毛皮の縁取り、首もとの白い襞襟。丁寧に描き込まれているのは、顔より衣装のほうなのである。
帽子の羽根飾りを見てほしい。一本ずつの毛先まで追われている。同じ密度が顔に注がれていたら、まったく別の絵になっていたはずだ。
どこに手間をかけるかは、画家の選択であると同時に、注文の側の要求でもある。
衣装が主役になるのには理由がある。当時の服は、着る人の身分をそのまま示す記号だった。
どの色を使えるか、どんな毛皮を許されるか、金糸をどこまで入れてよいか。国によっては法で定められていたほどである。
だから王の肖像で衣装を描き込むのは、装飾ではなく情報の伝達である。この人物がどの階層に属するかを、誰の目にも分かる形で示している。
首もとの白い襞襟にも、同じ働きがある。糊で立てた襞は、それを維持できる暮らしを意味する。
顔は変わっても、記号は変わらない。だから代替わりのたびに、同じ型の肖像が作り直された。
同じ工房、違う注文
父子の違いを「腕の差」と読むのは、たぶん間違っている。この工房が引き受けていた仕事の幅を見れば、それが分かる。
たとえばフランソワには、こういう仕事もある。

《フランス王アンリ2世の肖像》は縦156センチ、横135センチある。馬にまたがった王が、装飾を尽くした馬具とともに横切っていく。背後には古代風の円柱。
この画面で、王の顔が占める面積はごくわずかである。目に入ってくるのは、馬の脚の運びと、房飾りと、銀糸の光だ。
馬の姿勢にも意味がある。前脚を上げて進む姿は、古代ローマの騎馬像以来、統治者を表す型として使われてきた。背後の円柱も同じ役割を果たしている。
つまりこの絵は、顔を見せるための絵ではない。王という制度を見せるための絵である。
一方、同じ工房からは驚くほど小さな品も出ている。当サイトで公開している《フランス王アンリ3世の肖像》は、羊皮紙に描かれた縦58ミリ、横44ミリの細密画である。父ジャンの《ブリサック伯シャルル・ド・コッセの肖像》に至っては、直径わずか37ミリの円形だ。
37ミリから156センチまで。同じ一族の工房が、これだけ違う寸法の注文を受けている。
37ミリの肖像は、何をする道具か
この小ささについて、もう少し考えてみたい。直径37ミリといえば、五百円玉より少し大きい程度である。

この寸法では、壁に掛けても何も見えない。手に持つか、身につけるか、箱に入れて贈るための品である。
同じ用途の品は、海の向こうにもあった。イングランドの細密画家ニコラス・ヒリヤードの仕事である。

環がついていることに注目したい。これは絵ではなく、装身具として作られている。
首から下げ、あるいは服に留める。人前で開いて見せることも、隠しておくこともできる。
つまり細密肖像は、誰かを「持ち歩く」ための道具だった。宮廷の贈答品であり、忠誠の証しであり、恋愛の小道具でもある。
大きな肖像画が公の宣言だとすれば、こちらは私的な契約に近い。同じ「顔の絵」でも、働き方がまるで違う。
そしてどちらも、クルーエの工房が引き受けた仕事の範囲に入っていた。宮廷画家とは、この幅を全部やる職業だったのである。
技法も寸法に応じて変わる。細密画は羊皮紙やトランプの台紙に、水で溶いた絵具を細い筆で置いていく。
拡大して見ると、頬の色は極細の点や線の集まりであることが分かる。油彩のように絵具を混ぜて溶かし込むのではなく、細かい筆致を重ねて色を作る。
材料も違う。金は絵具として使われ、青には高価な顔料が惜しみなく使われた。小さいほど単位面積あたりの贅沢は増す。
つまり小さいことは安いことではない。むしろ逆で、手間と材料の密度は上がる。
現代の私たちは、大きい絵を重要な絵だと思いがちである。この時代の感覚は、そこと少し違っていた。
なぜ背景が黒いのか
シャルル9世の肖像に戻って、背景の話をしておきたい。あの黒には理由がある。
まず実務上の利点がある。背景に何も描かなければ、制作は速い。同じ顔を何枚も作る工房にとって、これは重要である。
次に、顔の見え方である。黒地に明るい顔を置くと、輪郭がはっきり切り出される。小さな板でも、顔が遠くから読める。
そして、時と場所を消す効果がある。室内を描けば、その部屋がいつのどこかを語りはじめる。無地なら、その情報が出ない。
肖像を長く使いたい注文主にとって、これは都合がよい。背景に流行の家具が写り込んでいれば、十年後には古びて見える。
無地の背景は、絵を時代から切り離す装置なのである。だからこそ、四百年後の私たちが見ても古びて見えない。
もっとも、代償もある。その人がどんな暮らしをしていたかは、いっさい分からなくなる。
父の《ビュデ》に本とペンが描かれていたことを思い出したい。あれは背景ではなく、人物の説明だった。同じ無地の背景でも、置くものが一つあるかないかで、絵の性格は変わる。
顔から個人が引いていく
寸法が違えば、顔に求められるものも変わる。
156センチの騎馬像は、広間の壁に掛けて臣下に見せるための絵である。ここで必要なのは、王がどんな人かではなく、王がいかに王らしいかだ。
37ミリの細密画は、手元に置くか、身につけるか、あるいは人に贈るための品である。宝飾品に組み込んで持ち歩くこともあった。
この寸法では、皺の一本を描き分けることに意味はない。求められるのは、誰の顔かが一目で分かることと、格を落とさない仕上がりである。
その中間にあるのが、シャルル9世のような小さな板絵だろう。手に取れる大きさで、顔をきちんと見せる。
こうして並べてみると、父の《ビュデ》がいかに特殊かが見えてくる。あれは王ではなく学者の絵であり、宮廷の序列を示すための絵ではなかった。だから顔と手に、あれだけの余地があったのである。
つまり父子の違いは、目の違いというより、注文の違いに大きく由来している。父も王を描いており、子も個人を描いている。ただ、残された作例の重心が違う。
海の向こうの同業者
同じ時期、イングランドの宮廷にも同じ仕事をしていた画家がいる。ハンス・ホルバイン(子)である。

描かれているのはヘンリー8世の跡継ぎ、生後まもない王子である。新年の贈り物として王に献じられた作品と考えられている。
赤ん坊の顔は、確かに赤ん坊のものである。頬は丸く、目はまだ焦点が定まっていない。
ところが身振りだけが大人である。右手を上げるこの形は、統治者が民に示す仕草として長く使われてきた型だ。
左手が握っているのは金の玩具だが、位置と持ち方は笏そのものである。生後一年ほどの子どもに、王の記号が着せられている。
下の銘板には、父を超えよ、という趣旨のラテン語詩が刻まれている。絵が何を主張しているかを、文字で念押ししているわけである。
顔は正確に、意味は型で。クルーエ父子の絵で見た配分が、ここでも働いている。
違うのは、政治的な主張がはるかに露骨なことだ。フランス宮廷の肖像が「格を示す」ものだとすれば、こちらは「後継を宣言する」ものである。
顔は、誰のためにあったのか
それでも、二枚を並べたときの印象の差は動かない。
ビュデの顔は、その人固有のものである。この皺とこの鼻を持つ人間はほかにいない、と思わせる描き方をしている。
シャルル9世の顔は、そうではない。若く、整い、表情を抑えられている。個人であることより、王家の一員であることのほうが前に出ている。
十六世紀の宮廷において、肖像は私的な記念品ではなかった。結婚の交渉に送られ、同盟の証しとして贈られ、王権の可視化に使われる。顔は、そのための媒体だった。
写真のない時代である。遠く離れた相手の顔を知る手立ては、絵のほかにほとんどない。だから肖像は、いまでいえば身分証明書と広報物を兼ねたような働きをした。
そう考えると、王の顔が整えられているのは当然でもある。証明書の写真で変顔をする人はいない。
とすれば、顔から個人が引いていくのは技術の後退ではない。むしろ用途への最適化である。誰の顔かが分かり、格が伝わればよい絵に、個人の癖は要らない。
もっとも、これは残された作品から引き出した見方にすぎない。父子それぞれの仕事の全体像を、ここから断ずることはできない。
家業としての宮廷画家
父から子へ役目が渡ったことにも触れておきたい。これは才能の相続ではなく、職の相続である。
ジャン・クルーエはフランソワ1世に仕え、その死後、息子フランソワが同じ役目を引き継いだ。宮廷画家の職は、一族で継がれるものだった。
工房も、顧客も、素描の束も、そのまま受け継がれる。父の描いた顔の記録が、子の仕事の材料になる。
この仕組みは、絵の性格を決めてしまう。過去の顔の型があり、それを踏襲することが求められる。
王家の人々は、代替わりしても似た構図で描かれ続けた。国王とはこう描くもの、という約束が保たれる。
家業であることは、個人の作風が前に出にくいことでもある。誰が描いたかの記録が曖昧な作品が多いのも、そのためだろう。
実際、当サイトが扱う十六世紀フランスの肖像にも、「フランソワ・クルーエの工房」「クルーエに帰属」といった書かれ方をするものが少なくない。
作者名の階層については別のコラムで詳しく書いた。工房が主役の時代には、その階層はいっそう重い意味を持つ。
父子のあとに来たもの
十六世紀の終わりに向けて、フランス宮廷の肖像はさらに硬くなっていく。その先も少し見ておきたい。
フランソワ・クルーエが亡くなったのは1572年。同じ年、パリでは新旧両派の対立が大量の流血に至っている。
内乱の時代に入ると、宮廷の余裕は失われる。大画面の注文は減り、小型の肖像が数を占めるようになった。
そして様式としては、輪郭がいっそう硬く、装飾がいっそう緻密になる。顔は一種の記号に近づいていく。
十七世紀に入ると、今度はオランダやフランドルの写実が入ってくる。硬い顔の時代は、そこで一度終わる。
こうして並べると、クルーエ父子の位置がはっきりする。素描の観察が生きていた時代の、最後のあたりである。
父の《ビュデ》に見た「いま何かをしている感じ」は、その後しばらく宮廷肖像から姿を消す。復活するのは、注文主が王侯でなくなってからである。
誰が絵を注文するかが変われば、顔の描かれ方も変わる。様式の変化は、しばしば客層の変化として説明できる。
肖像は、どこに掛かっていたか
もうひとつ、当時の見え方に関わることを書いておきたい。これらの絵は、美術館の白い壁のためには作られていない。
十六世紀の城館には、肖像を並べた部屋があった。歴代の王、縁戚、同盟者。顔の列が、そのまま一族の系図として機能する。
来訪者はその列の前を歩き、誰と誰がつながっているかを目で読む。壁が政治の地図になっているわけである。
こういう場所では、一枚ごとの個性はむしろ邪魔になる。並べたときに調子がそろっていることのほうが重要になる。
寸法をそろえ、姿勢をそろえ、背景をそろえる。工房が同じ型で描き続けたのは、この用途のためでもあった。
いま美術館で一枚だけを見ていると、この事情は見えにくい。本来は列の中の一枚だったものを、抜き出して眺めていることになる。
当サイトで見る場合も同じである。画面には一枚ずつしか出てこない。もとの隣に何が掛かっていたのかは、想像するしかない。
素描はどこへ行ったか
父ジャンの本領だった肖像素描について、その後にも触れておきたい。
チョークで描かれたこれらの紙は、油彩より数が多く残っている。フランスの図書館や美術館に、まとまった形で伝わっている。
宮廷の人々の顔が、束になって保管されてきたわけである。誰の顔かを書き込んだ紙もあれば、名前が失われた紙もある。
面白いのは、同じ顔の素描が複数存在することだ。原図があり、そこから写された控えがある。
工房が複製を作り、注文に応じて配ったからである。素描そのものが商品として流通していた証拠でもある。
そのため、どれが父の手で、どれが工房の手か、いまも判断が分かれる。線の質という、きわめて微妙な差で判定するしかない。
油彩の帰属より、素描の帰属のほうが難しい。手が直接出る分だけ、複製も見分けにくいのである。
四百年経っても、まだ確定していない。作者の欄は、そういう未決の状態を抱えたまま公開されている。
顔を見る速度
肖像画は、見るのに時間がかかる絵である。
風景なら、全体を一目で受け取れる。だが顔は、目、鼻、口、輪郭と、部分をたどらないと像を結ばない。しかも見終わったあとに、なぜかもう一度目に戻ってしまう。
四百年以上前に描かれた誰かの顔を、しばらく黙って見る。それだけの時間が、日常の中には案外ない。
しかも肖像画は、見返してくることがない。こちらが一方的に見られる立場になることはなく、いつまでも観察していられる。人の顔に対しては、まずありえない条件である。
ビュデでもシャルル9世でもいい。こちらを見ていない顔を、しばらく黙って眺めてみる。
不思議なもので、この種の絵は一度目より二度目、二度目より三度目のほうがよく見える。顔を覚えてしまってからのほうが、細部に目が行くからだろう。
当サイトでは、いずれの作品も拡大して確かめることができる。展示室では近づけない距離まで寄って、皺の一本まで見てみてほしい。



