画家を知る

父の描いた顔、子の描いた顔——クルーエ父子と16世紀フランス宮廷

海の向こうの同業者

同じ時期、イングランドの宮廷にも同じ仕事をしていた画家がいる。ハンス・ホルバイン(子)である。

Edward VI as a Child
《幼児のエドワード6世》。1538年ごろ。赤と金の衣装をまとった赤ん坊が、右手を上げ、金の玩具を笏のように握っている。下部の銘板にはラテン語の詩が記されている。ハンス・ホルバイン(子)《Edward VI as a Child》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵(CC0)

描かれているのはヘンリー8世の跡継ぎ、生後まもない王子である。新年の贈り物として王に献じられた作品と考えられている。

赤ん坊の顔は、確かに赤ん坊のものである。頬は丸く、目はまだ焦点が定まっていない。

ところが身振りだけが大人である。右手を上げるこの形は、統治者が民に示す仕草として長く使われてきた型だ。

左手が握っているのは金の玩具だが、位置と持ち方は笏そのものである。生後一年ほどの子どもに、王の記号が着せられている。

下の銘板には、父を超えよ、という趣旨のラテン語詩が刻まれている。絵が何を主張しているかを、文字で念押ししているわけである。

顔は正確に、意味は型で。クルーエ父子の絵で見た配分が、ここでも働いている。

違うのは、政治的な主張がはるかに露骨なことだ。フランス宮廷の肖像が「格を示す」ものだとすれば、こちらは「後継を宣言する」ものである。

顔は、誰のためにあったのか

それでも、二枚を並べたときの印象の差は動かない。

ビュデの顔は、その人固有のものである。この皺とこの鼻を持つ人間はほかにいない、と思わせる描き方をしている。

シャルル9世の顔は、そうではない。若く、整い、表情を抑えられている。個人であることより、王家の一員であることのほうが前に出ている。

十六世紀の宮廷において、肖像は私的な記念品ではなかった。結婚の交渉に送られ、同盟の証しとして贈られ、王権の可視化に使われる。顔は、そのための媒体だった。

写真のない時代である。遠く離れた相手の顔を知る手立ては、絵のほかにほとんどない。だから肖像は、いまでいえば身分証明書と広報物を兼ねたような働きをした。

そう考えると、王の顔が整えられているのは当然でもある。証明書の写真で変顔をする人はいない。

とすれば、顔から個人が引いていくのは技術の後退ではない。むしろ用途への最適化である。誰の顔かが分かり、格が伝わればよい絵に、個人の癖は要らない。

もっとも、これは残された作品から引き出した見方にすぎない。父子それぞれの仕事の全体像を、ここから断ずることはできない。

家業としての宮廷画家

父から子へ役目が渡ったことにも触れておきたい。これは才能の相続ではなく、職の相続である。

ジャン・クルーエはフランソワ1世に仕え、その死後、息子フランソワが同じ役目を引き継いだ。宮廷画家の職は、一族で継がれるものだった。

工房も、顧客も、素描の束も、そのまま受け継がれる。父の描いた顔の記録が、子の仕事の材料になる。

この仕組みは、絵の性格を決めてしまう。過去の顔の型があり、それを踏襲することが求められる。

王家の人々は、代替わりしても似た構図で描かれ続けた。国王とはこう描くもの、という約束が保たれる。

家業であることは、個人の作風が前に出にくいことでもある。誰が描いたかの記録が曖昧な作品が多いのも、そのためだろう。

実際、当サイトが扱う十六世紀フランスの肖像にも、「フランソワ・クルーエの工房」「クルーエに帰属」といった書かれ方をするものが少なくない。

作者名の階層については別のコラムで詳しく書いた。工房が主役の時代には、その階層はいっそう重い意味を持つ。

父子のあとに来たもの

十六世紀の終わりに向けて、フランス宮廷の肖像はさらに硬くなっていく。その先も少し見ておきたい。

フランソワ・クルーエが亡くなったのは1572年。同じ年、パリでは新旧両派の対立が大量の流血に至っている。

内乱の時代に入ると、宮廷の余裕は失われる。大画面の注文は減り、小型の肖像が数を占めるようになった。

そして様式としては、輪郭がいっそう硬く、装飾がいっそう緻密になる。顔は一種の記号に近づいていく。

十七世紀に入ると、今度はオランダやフランドルの写実が入ってくる。硬い顔の時代は、そこで一度終わる。

こうして並べると、クルーエ父子の位置がはっきりする。素描の観察が生きていた時代の、最後のあたりである。

父の《ビュデ》に見た「いま何かをしている感じ」は、その後しばらく宮廷肖像から姿を消す。復活するのは、注文主が王侯でなくなってからである。

誰が絵を注文するかが変われば、顔の描かれ方も変わる。様式の変化は、しばしば客層の変化として説明できる。

肖像は、どこに掛かっていたか

もうひとつ、当時の見え方に関わることを書いておきたい。これらの絵は、美術館の白い壁のためには作られていない。

十六世紀の城館には、肖像を並べた部屋があった。歴代の王、縁戚、同盟者。顔の列が、そのまま一族の系図として機能する。

来訪者はその列の前を歩き、誰と誰がつながっているかを目で読む。壁が政治の地図になっているわけである。

こういう場所では、一枚ごとの個性はむしろ邪魔になる。並べたときに調子がそろっていることのほうが重要になる。

寸法をそろえ、姿勢をそろえ、背景をそろえる。工房が同じ型で描き続けたのは、この用途のためでもあった。

いま美術館で一枚だけを見ていると、この事情は見えにくい。本来は列の中の一枚だったものを、抜き出して眺めていることになる。

当サイトで見る場合も同じである。画面には一枚ずつしか出てこない。もとの隣に何が掛かっていたのかは、想像するしかない。

素描はどこへ行ったか

父ジャンの本領だった肖像素描について、その後にも触れておきたい。

チョークで描かれたこれらの紙は、油彩より数が多く残っている。フランスの図書館や美術館に、まとまった形で伝わっている。

宮廷の人々の顔が、束になって保管されてきたわけである。誰の顔かを書き込んだ紙もあれば、名前が失われた紙もある。

面白いのは、同じ顔の素描が複数存在することだ。原図があり、そこから写された控えがある。

工房が複製を作り、注文に応じて配ったからである。素描そのものが商品として流通していた証拠でもある。

そのため、どれが父の手で、どれが工房の手か、いまも判断が分かれる。線の質という、きわめて微妙な差で判定するしかない。

油彩の帰属より、素描の帰属のほうが難しい。手が直接出る分だけ、複製も見分けにくいのである。

四百年経っても、まだ確定していない。作者の欄は、そういう未決の状態を抱えたまま公開されている。

顔を見る速度

肖像画は、見るのに時間がかかる絵である。

風景なら、全体を一目で受け取れる。だが顔は、目、鼻、口、輪郭と、部分をたどらないと像を結ばない。しかも見終わったあとに、なぜかもう一度目に戻ってしまう。

四百年以上前に描かれた誰かの顔を、しばらく黙って見る。それだけの時間が、日常の中には案外ない。

しかも肖像画は、見返してくることがない。こちらが一方的に見られる立場になることはなく、いつまでも観察していられる。人の顔に対しては、まずありえない条件である。

ビュデでもシャルル9世でもいい。こちらを見ていない顔を、しばらく黙って眺めてみる。

不思議なもので、この種の絵は一度目より二度目、二度目より三度目のほうがよく見える。顔を覚えてしまってからのほうが、細部に目が行くからだろう。

当サイトでは、いずれの作品も拡大して確かめることができる。展示室では近づけない距離まで寄って、皺の一本まで見てみてほしい。

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