作品を知る

ゴッホはなぜ、同じ部屋を三度描いたのか——シカゴの《寝室》を読む

繰り返しは、事故から始まった

きっかけは、本人の意欲ではなかった。事故である。

1888年の暮れ、ゴッホは体調を崩してアルルの病院に入る。その間にローヌ川が氾濫し、預けてあった絵が水を被った。一枚目の《寝室》も傷んだ。

翌1889年4月、彼はその絵を弟テオに送る。傷んだことを詫びる手紙が添えられていた。

テオは、裏打ちをして補強したうえで送り返すことを提案する。写しを作れるように、という意図があった。

そして1889年9月、サン=レミの療養院にいたゴッホが、送り返された一枚目を見ながら、同じ寸法でもう一枚を描く。

彼はこれを「répétition」と呼んでいる。繰り返し、という意味の言葉である。複製とも模写とも言っていない。

言葉の選び方に、態度が出ている。同じ曲をもう一度弾く、という感覚に近い。楽譜は同じでも、演奏は同じにはならない。

この語は、当時の画家にとって特殊な言葉ではなかった。注文に応じて自作をもう一枚描くことは、ふつうに行われていた。

売れた絵の控えを手元に置くため、あるいは別の顧客のために、同じ構図をもう一度描く。工房の仕事としては当たり前である。

ただしゴッホの場合、注文があったわけではない。売れていない絵を、自分の意思でもう一度描いている。

なぜか。ひとつには、一枚目を弟に預けたまま手元に置けなかったことがある。手放した絵を、手元に取り戻す方法が「描くこと」だった。

もうひとつは、この構図に対する彼自身の評価だろう。手紙のなかで彼は、この絵を自分の代表作のひとつとして扱っている。

繰り返しは、寝室だけではなかった

同じことを、彼は別の主題でもやっている。近所の郵便配達人の妻、オーギュスティーヌ・ルーランを描いた《ゆりかごを揺らす女》である。

同じ構図の油彩が、五点ある。そのうちの二点が、当サイトで公開されている。並べて見てほしい。

ゆりかごを揺らす女(ラ・ベルスーズ)
背景の花は大きく、緑の地は青みが強い。膝の上で組まれた手の指が、はっきりと数えられる。フィンセント・ファン・ゴッホ《ゆりかごを揺らす女(ラ・ベルスーズ)》シカゴ美術館蔵(CC0)
ゆりかごを揺らす女(ラ・ベルスーズ)
こちらは花が小さく、数が多い。地の緑は暗く沈み、人物の輪郭線が太い。顔つきも、わずかに険しい。フィンセント・ファン・ゴッホ《ゆりかごを揺らす女(ラ・ベルスーズ)》メトロポリタン美術館蔵(CC0)

寸法はほぼ同じ、姿勢も同じ、椅子の色も同じである。それでも二枚は明らかに別の絵になっている。

彼はこの主題に、はっきりした用途を考えていた。荒れた海に出る漁師が船室でこれを見たら、揺すられるような慰めを感じるのではないか。手紙にそう書いている。

飾り方の構想もあった。向日葵の絵二枚でこの絵を挟む、三枚一組の並べ方である。小さな下図まで描いて弟に送っている。

繰り返し描くことは、彼にとって「届く形にする」ことだったのだと思う。一枚では、一か所にしか置けない。

ここには、複製技術のない時代の切実さがある。同じ絵を複数の場所に届けたければ、手で描くしかない。

浮世絵なら版を彫れば済んだ話である。油彩の画家にとって、繰り返しとは技術的な不足を身体で埋める作業だった。

同じ発想は、家具を描いた二枚にも見える。ゴーギャンが去る直前、彼は二脚の椅子を別々の絵にしている。

自分の椅子には粗末な木の椅子とパイプを、ゴーギャンの椅子には肘掛けと蝋燭と本を置いた。人物を描かずに、二人の違いを椅子で語っている。

《寝室》に椅子が二脚あることを思い出したい。家具は、この時期の彼にとって人の代わりだった。

不在の人を、物で描く。この方法は繰り返しにも向いている。物は、記憶のなかで形を変えないからである。

影を消した部屋

なぜこの部屋の絵を、そこまでして残したかったのか。手がかりは、一枚目を描いた直後の手紙にある。

1888年10月16日、テオ宛。ゴッホはこの絵について、影と落ちる影は取り払った、日本の版画のように平坦な色で塗った、と書いている。

これは技法の説明であると同時に、目的の説明でもある。彼はこの絵で、休息そのものを表そうとしていた。

影を消せば、物は重さを失う。輪郭の中に平らな色が置かれ、画面から緊張が抜ける。そのために日本の版画のやり方を借りた。

もっとも、いまの私たちがこの絵を見て「休息」を感じるかというと、そうとも限らない。傾いた床も、きしむような遠近も、むしろ落ち着かない。

本人の意図と、絵の効果は一致していない。そのずれ自体が、この絵の面白いところだと思う。

日本という補助線

「日本の版画のように」という一行は、この時期の彼にとって単なる比喩ではなかった。

パリにいた1886年から88年にかけて、彼は弟とともに数百点の日本版画を集めている。広重の図柄を油彩で写した作品も残っている。

アルルへ移ったのも、その延長にある。強い光と鮮やかな色のある土地を、彼は手紙のなかで日本になぞらえていた。

実際の日本を知らないまま、版画から組み立てた「日本」である。しかしその想像上の基準が、彼の色を変えた。

手紙のなかで彼は、日本の画家たちの見方をうらやんでいる。単純で、迷いがなく、呼吸をするように描いている、と。

もちろんそれは、分業と修業で成り立つ現場の実態とは違う。彼が見ていたのは、版画という結果だけである。

だが誤解であっても、目標としては機能した。「あれくらい省略してよい」という許可を、彼は日本の版画から受け取っている。

La Mousmé
《ラ・ムスメ》。1888年。縞の上着と水玉の裾、淡い緑の背景。模様と模様が触れ合い、影はほとんど使われていない。フィンセント・ファン・ゴッホ《La Mousmé》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵(CC0)

「ムスメ」は日本の少女を指す言葉として、当時フランスで読まれていた小説から借りたものである。モデルはアルルの娘だが、題名だけが日本を向いている。

背景を平らな一色で塗り、衣服の模様を図として並べる。この作り方は、《寝室》の壁や床とまったく同じ考え方である。

浮世絵が西洋の画家に何を渡したのかについては、別のコラムで詳しく書いた。《寝室》の手紙の一行は、その受け渡しがもっとも短い言葉で残った例である。