浮世絵は、西洋の絵に何を渡したのか——《神奈川沖浪裏》からカサットの一枚まで
母と子、もう一枚
カサットは同じ主題を、油彩でも描いている。1893年の《子どもの入浴》である。

母親が子どもの足を洗面器に浸し、片手で膝を支えている。二人とも顔を伏せ、こちらを見ない。
視点の高さが、この絵をふつうの母子像から引き離している。真横から描けば聖母子の系譜に入るが、真上から描くとそうならない。
しかも画面は下端で切られ、水差しは右端で切られている。切ることと見下ろすことが、同時に使われている。
歌麿の《行水》と並べてみると、主題も動作もよく似ている。盥と洗面器、支える手、うつむいた顔。
もちろんカサットが《行水》そのものを見たかどうかは分からない。だが同種の母子図は、彼女が見たであろう版画のなかに数多くあった。
似ているのは図柄だけではない。日常の一場面を、大げさな物語にせずに描くという態度が共通している。
西洋絵画で「母と子」は、長く宗教画の型だった。そこから型を外す手がかりが、東の版画にあったことになる。
顔は、型で見せる
もうひとつ、渡ったものがある。顔の扱い方である。

写楽は1794年に突然現れ、一年に満たない期間に大量の役者絵を出して姿を消した絵師である。
その役者絵の顔は、写実でも理想化でもない。目と口の形を誇張し、役柄の性格を図として立てている。
西洋の肖像画は「その人」を描く。役者絵は「その人が演じている役」と「その人自身」を、同じ顔の中に重ねる。
この二重性は、のちにパリのポスターへ引き継がれたと考えたい。舞台の踊り子や歌手を、線と平らな色で一目の記号にする方法である。
顔を単純化すれば、遠くからでも誰か分かる。似せることを減らすほど、伝わる速度は上がる。
役者絵は、劇場の宣伝物でもあった。売るための印刷物という性格まで含めて、ポスターの先祖と呼びたくなる。
誰が作っていたのか
ここで、浮世絵の作られ方に触れておきたい。西洋の画家たちが取り違えた、いちばん大きな点だからである。
一枚の版画は、絵師ひとりの作品ではない。版元が企画し、絵師が下絵を描き、彫師が版木を彫り、摺師が刷る。
彫師は、絵師の描いた線を版木に移す。髪の生え際の細い線は、彫りの技量がそのまま出る場所である。
摺師は、色の重ね順と圧力を決める。先ほどの「ぼかし」も摺師の仕事で、同じ版から刷っても仕上がりが変わる。
さらに検閲の印がある。改印と呼ばれる小さな印が画面に入っていて、出版の許可を受けた時期を示す。
つまり浮世絵は、企画・分業・検閲・流通を備えた印刷産業の産物である。値段も、庶民が買える範囲だった。
ヨーロッパの画家たちは、それを個人の作家による表現として受け取った。北斎や広重を、自分たちと同じ「芸術家」として読んだのである。
誤解ではある。しかし、実りのある誤解だった。商品としての合理性から生まれた省略を、彼らは表現上の選択として引き受け直した。
同じ誤解は、値段の感覚にも及んでいる。当時の版画は、庶民が気軽に買える印刷物だったとされる。
消耗品だから、破れれば捨てられ、包み紙にもなった。それがパリで額装され、画家の壁に貼られたわけである。
ものの位置づけが移動している。日用品が、海を渡ったところで手本になった。
渡らなかったもの
渡ったものを数えたので、渡らなかったものも見ておきたい。ここに、影響という現象の輪郭が出る。
まず、線そのものの質である。浮世絵の輪郭線は、書の伝統につながる線であり、太さの変化に意味がある。
ヨーロッパの画家たちは輪郭線を採用したが、その内側にある筆勢の文化までは持っていかなかった。彼らの輪郭線は、色面を仕切る境界として働く。
次に、画面のなかの文字である。浮世絵には題箋があり、狂歌や役者の名が刷り込まれ、版元と検閲の印まで入る。
文字は絵の邪魔をしていない。むしろ画面を構成する図形のひとつとして置かれている。この共存は、ほとんど渡らなかった。
そして季節と引用である。桜、雨、雪、月。浮世絵の観客は、それらが指す和歌や物語の記憶を共有していた。
図柄の背後にある共有知識は、輸出されない。パリに着いた時点で、絵は主題を失い、形だけが残ったとも言える。
皮肉なことに、意味が抜け落ちたおかげで、形の面白さが際立ったのだとも考えられる。読めない文字は模様に見える。
外から来たものが役に立つとき、たいていこの種の目減りが起きている。理解ではなく誤読が仕事をすることがある。
渡ったのは「省略してよい」という許可
四つの論点を並べてみると、渡ったものの性格が見えてくる。それは主題でも様式でもなく、省略の許可だったのだと考えたい。
西洋の絵画は、数百年かけて手続きを積み上げてきた。遠近法があり、陰影があり、筆跡を溶かし込む仕上げがある。
浮世絵は、その手続きを踏まずに成立していた。しかも弱い絵にはならず、むしろ強い画面になっていた。
積み上げたものを捨ててよい。そう証明する実例が、外から大量に届いた。渡ったのは、そういう性質のものだったはずである。
しかも、届いたのが「安い印刷物」だったことに意味がある。傑作として恭しく展示されていたら、真似の対象にはなりにくい。
机に置ける紙だったからこそ、切り方や色の置き方を、道具として盗むことができた。
カサットの版画の余白には、鉛筆の書き込みが残っている。刷りは画家自身とルロワ氏による、部数は25——そう読める。
絵師は刷らない、というのが浮世絵の分業である。カサットは、刷りの現場に自分で入った。受け取った様式を、自分の制作の形に組み直したことになる。
ここに、影響というものの一番おもしろい形が出ている。真似ることではなく、原理を取り出して別の場所で組み直すこと。
同じ絵が三枚ある、ということ
最後に、版画そのものの性質にふれておきたい。
当サイトには《大はしあたけの夕立》が三点ある。いずれも1857年の、同じ版から生まれた図柄である。
寸法を並べると、37.5×24.4センチ、36.5×24.3センチ、34.0×24.1センチ。少しずつ違う。
紙の断ち方が違い、そのあと百六十年あまりの扱いも違ったのだろう。色の残り方も一枚ごとに異なる。
どれが本物か、という問いは、ここでは立てにくい。版画には「原本の一枚」が存在しないからである。
油彩なら、世界にひとつの絵がある。版画では、同じ版から生まれた複数が、それぞれ別の時間を過ごしている。
いま画面に表示されている画像も、そのうちの一枚を写したものにすぎない。誰かの手に渡り、断たれ、褪せた一枚が、たまたまそこに写っている。
冒頭の《神奈川沖浪裏》にも、そういう来歴がある。この一枚は、1929年にハヴマイヤー夫人の遺贈としてメトロポリタン美術館へ入った。
夫妻の収集を長く助言していたのは、カサットである。日本の版画に学んだ画家が、日本の版画を集める収集家を導き、その集積がいま公開画像として世界に配られている。
二十五センチの紙は、だからこそ海を越えられた。小さく、複数あり、運べたからこそ、パリやニューヨークの机の上に届いた。
この絵の小ささは、その意味では作品の一部である。そして複数あることも、褪せることも、同じように作品の一部なのだと思う。






