使い古したものを描く——ジョン・フレデリック・ピートー
擦り切れた本、剥げた扉、へこんだ薬缶。新しいものが一つも出てこない九点を見る。別人の署名が入った一枚をめぐる、帰属の問題にも触れる。古びは、質感であり時間である。傷んだものを選ぶのは、実際的な判断でもあった。

本が、積み上げられている
一枚の静物画から始めたい。

木の箱の中に、本が山と積まれている。
数えると、二十冊を超える。
背表紙は赤、青、茶、緑。
どれも角が擦り切れている。
表紙が反り、頁の縁が波打つ。
背の革が剥がれ、下地が覗くものもある。
箱の手前には、開いた本が伏せて置かれる。
その上に、小さな写真のような紙が載る。
箱の板には、文字の書かれた紙が貼られる。
紙の端がめくれ、破れている。
背景の壁は青灰色で、上のほうに紙片が散る。
新品が、一つもない
この絵の要点は、そこである。
新しいものが、一つも描かれていない。
本は読み古され、紙は破れ、木は傷んでいる。
静物画では、ふつう新鮮なものが描かれる。
熟れた果物、磨かれた器、生きた花。
ピートーは、その逆をいく。
使い古し、捨てられかけたものを並べる。
しかも、それを丁寧に描く。
古びた状態そのものが、主題になっている。
描いた人について
ジョン・フレデリック・ピートーは、一八五四年に生まれた。
一九〇七年に没している。
フィラデルフィアで美術学校に通い、静物画を描き始めた。
一八八〇年代の終わりに、ニュージャージーの海辺の町へ移る。
以後、そこで暮らしながら描き続けた。
生前の評価は高くなかった。
大きな展覧会に出す機会も少なかった。
作品は、地元で売るか、手元に残った。
その状況が、後年の混乱の原因になる。
静物画という分野
静物画は、長く低い地位に置かれてきた。
歴史画、肖像画、風景画、静物画。
この順で格が下がるという考え方が、欧州にはあった。
米国でも、その序列は受け継がれた。
だから、静物画家の評価は上がりにくい。
食卓の果物や、机の上の道具。
主題が日常的すぎる、と見なされた。
しかし十九世紀の後半、需要は確実にあった。
家庭や店に掛ける絵として、静物は好まれた。
格の低さと、売れ行きは別である。
同時代の、もう一人
ピートーを語るには、もう一人の名が要る。
ウィリアム・マイケル・ハーネットである。
同じころ、同じフィラデルフィアで静物画を描いていた。
こちらは、生前から評価が高かった。
二人は知り合いだったと伝えられる。
主題も似ている。
古い本、楽器、扉に掛けられた品々。
ただし、描き方は違う。
ハーネットの筆は硬く、輪郭が明瞭である。
ピートーの筆は柔らかく、輪郭がぼける。
扉に掛かるヴァイオリン
二枚目は、代表的な構図である。

緑色に塗られた木の扉が、画面いっぱいに描かれる。
板の継ぎ目が、縦に走る。
塗料は剥げ、下の木が見えている。
扉には、黄色い金具が二つ打たれている。
鍵穴もある。
中央に、破れた楽譜が留められている。
その上に、ヴァイオリンが掛かる。
弓が二本、斜めに渡される。
ヴァイオリンの表面は飴色で、光を鈍く返す。
扉には、小さな紙片も貼りついている。
扉という画面
なぜ、扉を描くのか。
理由の一つは、平面だからである。
扉の面は、画面と平行に置ける。
すると、掛かった物が実物大に見える。
見る人は、壁の前に立っているように感じる。
これが、だまし絵の基本の仕掛けである。
もう一つの理由は、物語である。
扉は、誰かが使ってきた場所である。
釘の跡、剥げた塗料、貼られた紙。
そこに、時間の層が残る。
だまし絵という伝統
だまし絵の静物には、長い伝統がある。
十七世紀の欧州でも、扉や棚を描いた作品が残る。
当サイトの
本物に見せる静物でも、その系譜を扱った。
十九世紀末の米国では、この型が流行した。
酒場や商店に掛けられ、客の目を引いた。
つまり、鑑賞の絵であると同時に、見世物でもあった。
近づいて、触って確かめたくなる。
そういう反応を引き出すために描かれている。
署名の問題
三枚目は、小さな板絵である。

白い台の上に、パンが二切れ置かれる。
奥に、花模様の入った白い茶碗が立つ。
台の右端には、小さなナイフの柄が見える。
背景は暗い赤茶で、右上に垂れる布のような影がある。
さて、この絵の右下に文字が書かれている。
読むと、別の画家の名に見える。
先に挙げた、もう一人の静物画家の名である。
しかし館は、この作品をピートーの作として登録している。
名前が書き換えられた絵
この食い違いには、背景がある。
二十世紀の半ば、ある研究者が指摘した事実がある。
ピートーの作品に、ハーネットの署名を書き加えて売る商いがあった、という指摘である。
評価の高い画家の名を付けたほうが、高く売れる。
そのため、無名だったピートーの作が、別人の名で流通した。
この指摘によって、多くの作品の帰属が見直された。
美術館の登録も、その研究の結果を反映している。
ただし、今回の一点がその例に当たるかどうか。
館の公開情報だけでは、確かめられない。
見えているのは、名と登録が一致しないという事実だけである。
二人の違いを、どこで見るか
ハーネットとピートーを見分ける手がかりを挙げておく。
まず、輪郭である。
ハーネットは、物の縁を細く硬い線で締める。
ピートーは、縁をぼかし、背景に溶かす。
次に、色である。
ハーネットは、茶と金の階調が細かい。
ピートーは、青や緑を平面的に置く。
そして、絵具の厚みである。
ピートーのほうが、盛り上がりが大きい。
この三点を見れば、多くの場合は区別がつく。
帰属という問題
署名は、作者を決める決め手にならない。
これは、美術史の基本である。
署名は書き足せる。
削れる。
写せる。
だから、様式と記録の両方で判断する。
筆の運び、色の作り方、支持体の種類。
来歴の書類、展覧会の記録、写真。
これらを積み上げて、ようやく帰属が定まる。
そして、定まっても覆ることがある。
魚と、鉄の道具
四枚目は、小さく、奇妙である。

白い布を敷いた台の上に、魚が一匹横たわる。
鱗は黄緑がかり、腹は白い。
口が開き、目が丸く残る。
その奥に、鉄でできた重い道具が置かれる。
取っ手のついた、平たい塊である。
背景は薄い黄土で、何も描かれない。
魚と鉄。
この組み合わせに、必然性は見えない。
題は朝食とあるが、料理の場面には見えない。
意味を、読み込みすぎない
こうした絵では、意味を探したくなる。
魚は生命、鉄は労働、といった読み方である。
しかし、慎重でありたい。
ピートーが手元にあるものを並べただけ、という可能性は高い。
画家の仕事場には、いろいろな物が転がっている。
その中から、形と色の合うものを選ぶ。
意味より、構図の必要が先に来る。
もちろん、意味がないとも言い切れない。
分からないものは、分からないままにしておく。
館の記録にも、解釈は書かれていない。
薬缶ひとつ
五枚目は、対象が一つだけである。

縦が12.7センチしかない。
葉書より小さい。
その中央に、銅の薬缶が一つ置かれる。
胴は丸く、注ぎ口が右へ伸びる。
蓋には黒いつまみがある。
胴の表面は、へこみと傷だらけである。
錆と煤で、色が斑になっている。
台は緑がかった板で、手前に細い木片が置かれる。
背景は灰色の壁である。
それだけである。
一つだけを描く
物を一つだけ描くのは、難しい。
構図の助けがないからである。
複数あれば、配置で画面を作れる。
一つなら、その物の形と質感だけで持たせるしかない。
この薬缶では、へこみが効いている。
丸い胴に、いくつも凹みがある。
その凹みが、光の当たり方を複雑にする。
平らな胴なら、光は一筋しか入らない。
凹んでいると、光が散る。
傷んでいることが、画面を豊かにしている。
傷んだものを選ぶ理由
ここに、この画家の選択がある。
新しい薬缶なら、光は素直に反射する。
描くのは簡単だが、面白くない。
古い薬缶は、光が乱れる。
描くのは難しいが、見どころが増える。
つまり、古いものを選ぶのは趣味ではない。
絵として成立させるための、実際的な判断である。
古びは、質感の情報量を増やす。
そう考えると、この画家の主題選びが理解しやすくなる。
青い封筒
六枚目は、本の上に物が載る。

九点の中で、最も小さい。
縦が10.8センチである。
厚い本が二冊、重ねて置かれる。
下の本は緑、上の本は青みがかる。
その上に、青い封筒が斜めに載る。
封筒の上には、黄土色の円筒形のものがある。
インク壺だろう。
そこから、白い羽根の筆が右へ突き出す。
赤い栞のようなものも見える。
背景は灰色である。
本という主題
九点のうち、三点に本が描かれる。
いずれも、厚い革装の本である。
新品の本は、一冊も出てこない。
角が潰れ、背が割れ、頁が波打っている。
本は、使われた時間が形に出る物である。
読まれた本ほど、傷む。
だから、静物画の主題として都合がよい。
しかも、直方体である。
積むと、面と稜線が生まれる。
構図の骨組みとして使いやすい。
意味と形の両面で、便利な主題である。
小さな板に、厚く塗る
この小品の絵具は、厚い。
本の背の部分に、絵具の盛り上がりが見える。
インク壺の胴にも、筆の跡が残る。
小さな画面では、細く薄く塗るのがふつうである。
ピートーは逆に、厚く置いている。
そのため、離れて見ると輪郭がぼける。
近づくと、絵具の塊が見える。
輪郭が明瞭な、もう一人の静物画家との違いは、ここに出る。
同じ主題を描いても、絵肌がまったく違う。
支持体の種類
九点の支持体を並べると、種類が多い。
画布が三点。
画用板が二点。
木の板が二点。
画家用の厚紙が一点。
画布から布へ移されたものが一点。
つまり、手近な材料を使っている。
大作は画布、小品は板や厚紙。
材料の選び方にも、この画家の仕事の仕方が出る。
高価な支持体を用意して描くのではない。
あるものに描く。
小品を、なぜ多く描いたか
九点のうち、五点は縦二十センチ未満である。
小品が多い。
理由はいくつか考えられる。
売りやすい大きさだったこと。
材料費が安いこと。
そして、注文でなく自発的に描いていたこと。
生前、大きな注文はほとんどなかったとされる。
売るあてのない絵を、手元の材料で描き続ける。
その状況が、小品の多さに表れている。
手元の物を、繰り返し描く
同じ物が、複数の作品に現れる。
薬缶、本、インク壺、封筒。
いずれも、仕事場にあったものだろう。
同じ物を、角度と組み合わせを変えて描く。
これは、静物画家によくある方法である。
対象を探す手間が省ける。
そして、同じ物を描くうちに、扱いが上達する。
九点を並べると、その繰り返しが見えてくる。
物の履歴と、画家の履歴が重なっている。
果物と、硝子の杯
七枚目は、色が明るい。

橙色の果実が二つ、台の上に置かれる。
その間に、皮をむいた実がある。
黄色い房が、崩れて広がる。
奥には、脚のついた硝子の杯が立つ。
杯の中には、琥珀色の液体がある。
液体の面に、光の線が横切る。
背景は暗い茶で、上へ行くほど濃い。
台の面は、水平の線で示される。
この一点だけが、古びていない。
硝子を描く
硝子の杯は、静物画の定番である。
理由は、難しいからである。
透明なものは、それ自体の色を持たない。
背後の色が透けて見える。
同時に、表面が光を反射する。
つまり、透過と反射を同時に描く必要がある。
ピートーは、これを少ない筆数で処理している。
脚の部分に、白い線を二本。
液面に、明るい帯を一本。
それだけで、硝子に見える。
競馬場の扉
八枚目は、九点で最も大きい。

縦が一メートル十センチある。
緑の扉が、画面いっぱいに描かれる。
金具は赤茶で、装飾的な形をしている。
上のほうに、蹄鉄が掛かる。
その下に、赤い帽子が吊るされる。
長い鞭が、斜めに立てかけられている。
中央には、競馬の告知の紙が貼られる。
大きな文字と、馬の絵が読み取れる。
その周りに、緑や赤の紙片が散る。
眼鏡のようなものも掛かっている。
文字を、絵の中に描く
貼り紙の文字に注目したい。
活字の形まで再現されている。
見出しは大きく、本文は小さい。
紙は破れ、角が欠けている。
文字が読めるように描くのは、手間がかかる。
しかし、効果は大きい。
見る人は、読もうとして絵に近づく。
近づけば、それが絵具であることに気づく。
だまし絵は、この往復で成立する。
信じさせ、そして気づかせる。
実物大という条件
大きな扉の絵には、条件がある。
描かれる物が、実物大でなければならない。
蹄鉄が小さすぎれば、嘘になる。
帽子が大きすぎても、同じである。
だから、画面の大きさが物の大きさを決める。
縦一メートル十センチという寸法は、そこから来ている。
扉の一部を、原寸で切り取る。
その結果、この大きさになった。
だまし絵は、寸法から逃げられない。
吊るされた品々
九枚目も、掛けられた物である。

灰色の壁に、三つの物が掛かる。
上には、模様の入った布の鞄。
その手前に、麦藁帽子。
帽子の下から、青緑の傘が垂れる。
傘の先が、下端近くまで届く。
上部には、緑色の棚板のようなものが見える。
そこから釘が出て、物を支えている。
壁には、影が斜めに落ちる。
影の輪郭は、やわらかい。
影の描き方
この絵で目を引くのは、影である。
物そのものより、影の面積が広い。
帽子の丸い影が、壁に大きく広がる。
傘の細い影が、その下へ伸びる。
影の色は、灰色に紫を混ぜたような調子である。
輪郭はぼやけ、境目が溶ける。
これは、光源が一つでないことを示す。
窓からの光と、室内の反射光。
その両方が当たっている。
影の柔らかさが、この画家の絵肌によく合っている。
支持体が移されている
この一点の技法欄には、注記がある。
画布から布へ移された、とある。
つまり、もとの支持体から絵具の層を剥がし、新しい布へ貼り直している。
こうした処置は、支持体が傷んだときに行われる。
厚紙が反ったり、割れたりした場合である。
移し替えは、大きな手術である。
絵具の層だけを残し、下を入れ替える。
失敗すれば、作品を失う。
それでも行うのは、そうしなければ保たないからである。
館の記録に技法として書かれるのは、その履歴を残すためである。
海辺の町の仕事場
ピートーが移り住んだのは、海に近い町だった。
そこに家を建て、仕事場を構えたと伝えられる。
避暑地であり、夏には人が集まる。
冬は静かになる。
そういう場所で、絵を描き続けた。
都会の画壇からは離れる。
批評にも展覧会にも縁が薄くなる。
一方で、注文の圧力からも自由になる。
売れ筋を追う必要がない。
九点に共通する、地味で頑固な主題選びは、その環境と無縁ではないだろう。
死後に、評価が変わる
ピートーの評価は、生前と死後で大きく違う。
生前は、地方の静物画家だった。
大きな展覧会にも、批評にも、ほとんど登場しない。
死後も、しばらくは忘れられていた。
事情が変わるのは、二十世紀の半ばである。
米国の静物画を調べた研究が、この画家を掘り起こした。
同時に、署名の書き換えの問題も明らかになった。
つまり、評価と帰属の見直しが、同時に進んだ。
いま美術館に並ぶ九点は、その作業の結果である。
静物画と写真の時代
ピートーが描いた時代は、写真が普及した時代でもある。
物をそのまま写す手段が、絵以外に生まれた。
だまし絵の静物は、その状況で人気を得た。
写真より本物らしく見せる。
そういう競争の側面があった。
一方で、写真では出せないものもある。
絵具の厚み、筆の跡、色の作為。
近づいて見たときに現れるのは、絵のほうである。
だまし絵は、遠くでは写真に似て、近くでは絵になる。
その二重性が、この分野の面白さでもある。
九点を、順に見る
最後に、見方を提案したい。
九点を、傷の多さで並べてみてほしい。
擦り切れた本、剥げた扉、へこんだ薬缶、破れた紙。
そして、傷のない果物と硝子の杯。
八点が古びていて、一点だけが新しい。
その一点が、かえって浮いて見える。
この画家は、古びたものを描く画家だった。
古びは、質感であり、時間であり、生活の跡である。
新品には、その情報がない。
九点を並べると、そのことがはっきりする。
物の履歴を描く。
それが、この画家の仕事だった。


