美術史・技法

カーテンを引きたくなる絵——ファン・デル・スペルトとハーネットのだまし絵

1658年のオランダで、画家は絵の上に青いカーテンを描いた。開けようとして気づく仕掛けである。だまし絵・ヴァニタス・豪華静物という三つの型を並べ、静物画が操作しているのは「見る速度」だという話をする。

花環とカーテンのあるだまし絵の静物
アドリアーン・ファン・デル・スペルト《花環とカーテンのあるだまし絵の静物》シカゴ美術館蔵

カーテンを、引きたくなる

一枚の絵を見ていただきたい。画面の左三分の二に花の束が掛かり、右側に青い絹のカーテンが下がっている。

花環とカーテンのあるだまし絵の静物
真鍮の棒に金具で吊られた青いカーテン。左には二十種ほどの花を編んだ環。1658年、板に油彩、46.5×63.9センチ。アドリアーン・ファン・デル・スペルト《花環とカーテンのあるだまし絵の静物》シカゴ美術館蔵

まず気づくのは、カーテンが半分だけ引かれていることである。左へ寄せられ、花の束を見せている。

そして、この布は本物らしく描かれている。絹の艶、折り目の稜線、金具の影。棒の金属らしい鈍い光まで置かれている。

つまりこの絵は、「絵に掛かったカーテンを開けたところ」を装っている。

奇妙なのは、カーテンごと絵に描かれていることだ。開けようとしても開かない。布は絵の一部である。

十七世紀のオランダでは、大切な絵に実際に布を掛けて保護する習慣があった。埃と光から守り、見せたいときだけ開ける。

その習慣を知っている人ほど、この画面に引っかかる。手を伸ばしかけて、気づく。そういう仕掛けである。

二千年前の勝負

この趣向には、はっきりした出典がある。古代ローマの博物誌に記された、二人の画家の逸話である。

ゼウクシスという画家が葡萄を描いたところ、鳥が飛んできて啄もうとした。彼は自分の腕に満足する。

対するパラシオスは、一枚の絵を持ってきた。ゼウクシスは「早くその布を取れ」と促す。

布は、描かれたものだった。ゼウクシスは負けを認める。自分は鳥をだましたが、彼は画家をだました、と。

この話は西洋美術のなかで繰り返し語られてきた。写実の腕を競う話であり、同時に「絵とは何か」を問う話でもある。

先ほどのカーテンは、その逸話の実演である。描き手はパラシオスの側に立って、見る者を試している。

見る者がだまされてはじめて成立する絵。ここには、作り手と見る側のあいだの一種の契約がある。

騙されることを承知で乗る、という遊びである。だから腹が立たない。

二人で描いた一枚

この作品には、もうひとつ変わったところがある。ひとりで描かれていない。

花の環を描いたのはアドリアーン・ファン・デル・スペルト。カーテンを描いたのはフランス・ファン・ミーリス。所蔵館の記録に、二人の名が並んでいる。

十七世紀オランダで、画家どうしの合作は多くない。市場の競争が激しく、それぞれが得意分野で商品を作っていたためだと説明されている。

にもかかわらず、この一枚では分業が起きている。花の専門家と、布の専門家。

理由は想像がつく。この絵の仕掛けは、カーテンが本物に見えるかどうかに全部かかっている。花がどれほど上手でも、布が嘘くさければ成立しない。

つまりこれは、企画としての合作である。効果を最大にするために、それぞれの得意を持ち寄っている。

花のほうにも見どころは多い。二十種ほどが編み込まれ、そのなかにチューリップがある。

十六世紀にペルシアから入ったこの花は、十七世紀オランダで異常な投機の対象になった。球根一つに家一軒の値がついた時期がある。

その熱狂が去ったあとに描かれた絵である。花は美しいが、値のついた美しさでもあった。

その花は、同じ季節に咲かない

花の環のほうにも、仕掛けが隠れている。並んでいる花を季節ごとに分けてみると、話が合わない。

チューリップは春、バラは初夏、朝顔は夏の終わり。同じ日に、同じ場所で摘める組み合わせではない。

十七世紀の花の絵は、たいていこうなっている。画家は季節ごとに個々の花を写生し、その素描を溜めておく。

注文が来たら、溜めた素描から花を選んで組み立てる。実際の花束を前に描いているわけではない。

だから花の絵は、写生であると同時に設計図でもある。目の前にない状態を、紙の上で作り上げている。

風景画が型で組み立てられていたことは別のコラムで書いた。静物も同じで、写実に見えるものほど構成されている。

そして、この作り物の花束にはもうひとつ役目がある。実物なら数日で萎れるものが、絵の中では萎れない。

美しさを止めておく装置。花の絵が長く求められてきた理由は、たぶんそこにある。

虫が、いる

もう一度、花の環を見てほしい。よく探すと、虫が描き込まれている。

葉の上には蝶が留まり、茎のあたりには小さな甲虫がいる。どれも実物大に近い大きさで、丁寧に描かれている。

虫は装飾ではない。花に虫が来るということは、この花が生きていて、やがて傷むということでもある。

蝶は蛹から出てくるので、しばしば復活や魂の象徴として使われた。逆に蠅や芋虫は、腐敗の合図になる。

つまり、止まった美しさの中に、時間の合図が置かれている。萎れない花束の中で、虫だけが時計の役をしている。

これは次の節で見るヴァニタスの構えと同じである。だまし絵の技巧と、時間についての警句は、しばしば同居する。