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ゴッホの代表作と特徴——短い筆触・補色・輪郭線はいつ現れたのか

ゴッホの代表作と特徴を、当サイトで公開中の六点でたどる。短く区切った筆触、補色の並置、濃い輪郭線。この三つが1885年の褐色の畑から1890年の麦畑までのどこで現れたのかを、館の記録と画面から順に確かめる。どの絵がどの館にあるかもあわせて記す。

寝室
フィンセント・ファン・ゴッホ《寝室》シカゴ美術館蔵

ゴッホの代表作と特徴を、当サイトで公開中の六点でたどる。フィンセント・ファン・ゴッホは1853年に生まれ、1890年に没した画家である。館の記録が残す制作年を並べると、画風が変わった時期がはっきり見える。

寝室
フィンセント・ファン・ゴッホ《寝室》1889年。館の記録では、カンヴァスに油彩。73.6×92.3センチ。番号は1926.417。シカゴ美術館蔵。フィンセント・ファン・ゴッホ《寝室》シカゴ美術館蔵

この記事では、まず画風の特徴を三つに絞る。次に、その三つがいつ現れたのかを年代順の六点で確かめる。最後に、どの絵がどの館にあるのかを記す。

ゴッホの画風の特徴は何か

三つある。短く区切った筆触、補色の並置、そして物を囲む濃い輪郭線である。この三つが重なると、画面から影が消え、絵具の厚みだけが残る。

どれか一つでも当てはまれば他の画家の絵にもあるが、三つが同時に出る絵は多くない。だから一点ずつ、この三つを探しながら見ていく。

筆触とは、絵具を置いた一刷毛の跡をいう。ゴッホはこれを混ぜず、消さず、向きをそろえて並べる。一点目の《寝室》では、床の板の目に沿って筆が走る。壁は縦、窓は緑の縦筆で、面ごとに筆の向きが変わる。

補色の並置とは、赤と緑、青と橙のように、互いを強め合う色を隣り合わせに置くことをいう。《寝室》の床は桃色の地に緑の筋を交える。影を暗く塗るかわりに、色の対比で面を立てている。

輪郭線も分かりやすい。《寝室》では寝台も椅子も卓も、濃い線でぐるりと囲まれる。奥行きは線の傾きだけで作られ、陰影には頼らない。この一点の読み方はファン・ゴッホ《アルルの寝室》の解説で詳しく扱った。

シカゴの館によれば、この構図には三つの版がある。最初の一枚は、アルルの「黄色い家」に移って一月後の1888年10月に描かれた。

シカゴの一点は、その約一年後の1889年9月に描いた二枚目である。同じころ、母と妹に贈るための小さな三枚目も描いている。

館は弟テオへの手紙も引く。壁は淡い紫、床はかすれた赤、椅子と寝台は黄、掛け布は血のような赤、窓は緑と、画家は色を一つずつ書き出していた。激しい筆に見えても、本人は落ち着いて休める絵と考えていたという。

ゴッホはどんな生涯を送ったか

画家として働いたのは、わずか十年ほどである。《ひまわり》を持つ新宿の美術館の年譜をもとにたどる。

1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。16歳で美術商グーピル商会のハーグ支店に勤め、ロンドンとパリの支店にも移ったが、1876年に解雇された。

教師や伝道の仕事を経て、ベルギーの炭鉱地帯ボリナージュで説教師を務めたのち、1880年、27歳で画家になると決めた。翌年からはハーグで、義理の従兄にあたる画家アントン・マウフェの教えを受けている。

1883年からは両親のいたヌエネンで農民を描き、1885年にアントウェルペンへ移った。1886年にはパリへ出て、モンマルトルの弟テオの部屋に同居した。

1888年2月に南フランスのアルルへ向かい、10月下旬からゴーギャンと共同生活を送った。2か月後の12月23日、口論の末に自ら左耳を切り、入院する。

1889年にはサン=レミの療養院へ移り、1890年5月にパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズへ移った。7月27日に胸を撃った姿で下宿へ戻り、29日に37歳で亡くなった。

ワシントンのナショナル・ギャラリーは、この十年ほどで油彩約900点、素描約1100点を残したと書く。パリでは画家コルモンのアトリエに3か月通った。

代表作はいつ、どう変わったか

三つの特徴は最初からあったわけではない。年代順に並べると、変わり目は1887年にある。

小屋の前で土を掘る農婦
フィンセント・ファン・ゴッホ《小屋の前で土を掘る農婦》1885年ごろ。館の記録では、カンヴァスに油彩。31.3×42センチ。番号は1968.92。シカゴ美術館蔵。フィンセント・ファン・ゴッホ《小屋の前で土を掘る農婦》シカゴ美術館蔵

館の記録はこの一点を1885年ごろ、オランダの作とする。藁葺きの屋根が二つ重なり、手前の褐色の土に、腰をかがめて鍬を入れる女がいる。色は褐色と灰色に限られ、補色も輪郭線も見えない。

シカゴの館によれば、ゴッホは1883年の終わりにヌエネンの両親の家へ戻り、絵だけに打ち込んだ。村を歩いて農家の連作を描き、弟には、荒れ地の小屋とそこに住む人という人の巣に心を引かれると書き送っている。

館は、女と小屋と土地が同じ土の色と筆の向きで描かれ、女がこの土地に属していることを強めていると読む。

ただし筆は、すでに屋根の傾きに沿って長く引かれている。形に沿って筆を走らせる癖だけは、この時期からある。

1885年と1887年の間に、使う色の数そのものが増える。褐色と灰色だけの画面から、朱・橙・水色までが一度に入る画面へ変わる。何がきっかけだったかは、ここで引いた館の記録には書かれていない。確かなのは、二年のうちに起きたということである。

その二年の間に、ゴッホはオランダを離れてパリへ移った。1886年から1888年まで、画商の弟テオと暮らしている。

シカゴの館は、パリの町の活気と印象派との出会いが画家を動かしたとみる。新宿の美術館の解説も、パリ時代の作に印象派と新印象派の影響を認めている。

二年での変化は、このパリ滞在と重なる。

自画像
フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》1887年。館の記録では、画家用の板に油彩、のちに桟を組んだ板へ貼る。41×32.5センチ。番号は1954.326。シカゴ美術館蔵。フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》シカゴ美術館蔵

二年後の自画像である。シカゴの館によれば、パリにいた二年のあいだに、ゴッホは少なくとも24点の自画像を描いた。この一点はその早い例で、カンヴァスではなく画家用の板に描かれている。シカゴの館では、ウィンターボサム・コレクション35点の一つに数えられる。

館は、密に打った点のような筆を、スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》の点描への応答と読む。スーラには科学にもとづく冷静な方法だったものが、ゴッホの手では強い感情の言葉になったという。点描の読み方はスーラ《グランド・ジャット島の日曜日の午後》の解説で扱った。顔は桃・黄・緑・青の短い線を並べて起伏を作る。背景は緑と青の地に、朱・橙・水色の短い点が密に散る。

点は頭のまわりを取り巻くように置かれ、下地はどこにも残らない。館は、その中で深い緑の目と視線の強さが際立つと書く。館が引く手紙で、画家は大聖堂より人の目を描くほうがいいと弟に書いている。短い筆触と補色は、この一点で出そろっている。もう一枚、パレットを持つ1889年の自画像はファン・ゴッホ《自画像》の解説で扱った。

ラ・ムスメ
フィンセント・ファン・ゴッホ《ラ・ムスメ》1888年。館の記録では、カンヴァスに油彩。73.3×60.3センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。フィンセント・ファン・ゴッホ《ラ・ムスメ》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

翌年の《ラ・ムスメ》は、アルルで描かれ、三つの特徴がそろった姿を見せる。椅子にかけた娘の上着は赤と青の縞、膝の布は青地に橙の水玉である。背景は淡い緑一色で塗られる。手には夾竹桃の小枝を持つ。

ワシントンの館によれば、題はロティの小説『お菊さん』に出てくる日本の娘の呼び名から取った。1888年7月29日、ゴッホはテオに、ムスメが何か知りたければロティを読めばよい、まる一週間かけて一人描いたと書いている。

モデルはプロヴァンスの少女である。日本への関心を、南フランスの娘の肖像に重ねたことになる。館は、丁寧に肉づけした顔と、補色の大胆な線の模様に、若いモデルへの画家の共感が表れていると読む。

画家はこの絵を含む肖像の習作について、絵の中で魂の底から心を動かされ、何より無限を感じさせるただ一つのものだと書いた。館は、手の夾竹桃の意味ははっきりしないとしたうえで、生と再生の循環への画家の思いと結びつく可能性に触れる。

赤と緑、青と橙。二組の補色が、そのまま服と背景に割り当てられている。椅子の肘掛けと腕は黒い線で囲まれ、顔以外に濃い影はほとんど置かれない。

縞も水玉も平らな模様である。それを人の体に沿って曲げることで、服の厚みだけが出る。奥行きを影ではなく模様の歪みで作る、という点では《寝室》と同じやり方になっている。

糸杉
フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》1889年。館の記録では、カンヴァスに油彩。93.4×74センチ。番号は49.30。メトロポリタン美術館蔵。フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》メトロポリタン美術館蔵

《糸杉》では、筆触そのものが形になる。木は画面の高さいっぱいに立ち、緑の筆が渦を巻きながら上へ伸びる。空は白と水色の渦で埋まり、右上に細い月が出る。

背後の山並みは青い横筆、手前の草は黄の短筆で、筆の向きが物の種類を分けている。

メトロポリタン美術館によれば、描いたのは1889年6月の終わりで、サン=レミの療養院に入って間もないころである。画家は糸杉を、線と釣り合いがエジプトのオベリスクのように美しいと書いた。

日に照らされた風景の中の暗い一点で、正確に描くのがいちばん難しいとも書いている。同じく縦長で間近から描いたもう一点は、オランダのクレラー=ミュラー美術館にある。この一点は1890年のアンデパンダン展に出品された。

ここでは輪郭線が線ではなく、濃い緑の筆の束に置き換わっている。木の縁を一本の線で囲むかわりに、短い筆を並べて縁を作る。渦を巻く空の読み方はファン・ゴッホ《糸杉》の解説で詳しく扱った。

オーヴェールの緑の麦畑
フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェールの緑の麦畑》1890年。館の記録では、カンヴァスに油彩。72.4×91.4センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェールの緑の麦畑》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

最後の年の一点である。地平線を上三分の一に置き、下は一面の麦畑にする。麦は青緑・黄緑・白緑の短く鋭い筆で、手前へ来るほど太く長くなる。

空には青灰の筆が輪を描いて重なる。絵具は盛り上がり、筆の溝がそのまま残る。1885年の褐色の畑と並べると、五年で何が変わったかが一目で分かる。

ワシントンの館は、農夫も荷車も家も無く、草と道と空だけの「純粋な」風景である点をこの絵の特異さとする。画面の三分の二を緑と青の畑が占め、黄色い花が点々と散る。右手前には白っぽい道が通る。風に揺れる草の筆が波打ちながら重なり、織物のような一つの面になる。

北フランスに戻ったことを、画家は心が静まる帰郷のように書いた。南の熱い色は、緑と青の涼しい色に置き換わったと館は説明する。

館の来歴の記録では、この絵はまず弟テオの手元にあり、テオの没後はその妻ヨハンナが持った。1906年にベルリンのクルト・ヘルマンが買い、1955年にアメリカの収集家ポール・メロンの手に渡った。

《ラ・ムスメ》も、1909年にヨハンナが手放した一点である。ゴッホの絵の多くは、こうして弟の家族の手から各地へ散っていった。

《ひまわり》や《星月夜》は見られるか

当サイトの在庫には無い。扱えるのは、所蔵館がCC0として公開した画像だけだからである。《ひまわり》《星月夜》《夜のカフェテラス》は、いずれもその条件に当てはまらない。

それぞれの実物はどこにあるか

《星月夜》は1889年の作で、ニューヨーク近代美術館にある。南フランスのサン=レミの療養院にいたころの作で、当サイトの《糸杉》と同じ年、同じ土地で描かれている。

《夜のカフェテラス》は1888年、アルルでの作である。オランダのオッテルローにあるクレラー=ミュラー美術館が持つ。

花瓶の《ひまわり》は、1888年から翌年にかけて七点描かれた。ロンドンのナショナル・ギャラリーによれば、四点が1888年8月、三点の繰り返しが1889年1月の作である。同館は自館の一点を1924年に購入した。

アルルの「黄色い家」を、ゴーギャンを迎える前に飾るための絵だった。ゴーギャンは1888年10月23日に着き、ロンドンの一点とミュンヘンの一点が客間に掛けられた。

美術館にあるのは五点で、ロンドン、アムステルダム、ミュンヘン、フィラデルフィア、東京に分かれる。

東京の一点は、新宿の美術館にある。同館は、ロンドンの一点をもとに、ゴーギャンと暮らしていた1888年11月下旬から12月上旬ごろに描かれたとみている。ロンドンの館の年代の分け方とは、少しずれがある。

七点のうち一点は個人の所蔵で、もう一点は第二次世界大戦中に失われた。

同じ題でも描かれた時期と場所が違うので、どの一点かは館名で確かめるとよい。

そのかわり、四つの館がCC0で出した32点を当サイトで公開している。シカゴ美術館、メトロポリタン美術館、ナショナル・ギャラリー(ワシントン)、クリーヴランド美術館である。油彩のほか、素描と版画も含まれる。

有名な一点が無いかわりに、同じ年の絵が何点も並ぶ。代表作だけを見るより、画風の変わり方は追いやすい。

初めて見るなら、1885年の農婦の絵と1887年の自画像を続けて開くとよい。色の数と筆の長さが二年で入れ替わるのが分かる。そのあと《ラ・ムスメ》で補色の組み合わせを、《糸杉》で筆の向きを確かめると、三つの特徴が一通りつかめる。

ゴッホの絵はどこで見られるか

この記事で挙げた六点の所蔵館は三つに分かれる。シカゴ美術館が《寝室》《小屋の前で土を掘る農婦》《自画像》の三点。メトロポリタン美術館が《糸杉》の一点。残る《ラ・ムスメ》と《オーヴェールの緑の麦畑》が、ナショナル・ギャラリー(ワシントン)にある。

展示の有無と場所は館の都合で変わる。来館の前には、各館の公開情報で確かめてほしい。

当サイトの作家ページからは、公開中の32点を制作年の近い順にたどれる。画像はいずれも館がCC0として公開したもので、拡大して筆の跡まで見ることができる。

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