ファン・ゴッホ《自画像》の解説——パレットを持つ1枚はどこにあるのか
ファン・ゴッホ《自画像》の解説。館の記録では1889年の油彩・カンヴァスで、ワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵する。パレットと筆を持つこの1枚を、1887年のパリの自画像、1885年の裏面の自画像と並べ、CC0の画像で読む。

ファン・ゴッホの《自画像》はどこで見られるか
フィンセント・ファン・ゴッホの《自画像》は、ワシントンのナショナル・ギャラリーにある。
館の記録では、油彩・カンヴァス。制作は1889年とされる。
縦58センチ、横45センチに足りない小さな絵である。人ひとりの顔と肩だけで画面が埋まる。

ただし、ゴッホの自画像は1点ではない。年によって顔も筆づかいも変わるので、どの1枚を指すかで話が変わる。
当サイトはこのほかに、1887年の自画像と、裏面に自画像を持つ1885年のカンヴァスを公開している。
前者はシカゴ美術館、後者はメトロポリタン美術館の所蔵である。以下ではこの3点を並べて見る。
この《自画像》には何が描かれているか
画面の左下の隅に、パレットと筆の束が入っている。
パレットの上には絵具が点々と置かれる。黄、青、緑、桃色、白が、混ぜられないまま並ぶ。
絵具の粒はごく小さいが、この絵でいちばん彩度の高い部分である。
筆は画面の左端から斜めに突き出る。柄は黄土色で、1本ずつ間を空けて並ぶ。
つまりこれは、仕事の最中の姿として自分を描いた絵だと読める。
服装も部屋も描かれない肖像なら、職業は画面に出ない。道具を入れた時点で、この絵は何者かを名乗っている。
上半身は青い上着で覆われる。襟の内側から白い布が出て、首元で結ばれている。
顔はこちらへ正対しない。体ごとわずかに右へ振られ、視線だけが正面へ戻ってくる。
髪と顎鬚は赤みの強い橙である。背景の青と補色の関係になり、頭の輪郭が強く立つ。
その背景は青一色ではない。短い筆の跡が並び、場所によって向きが変わっている。
頭の周りでは筆が頭に沿って回り、画面の端では上下にまっすぐ走る。
下塗りの赤茶が筆の隙間から覗く箇所もある。青は塗り潰された面ではなく、編まれた面である。
パリで描いた自画像と何が違うのか

1887年の自画像は、シカゴ美術館にある。前の1点より2年早く、パリで描かれた。
こちらの背景は、短い点と線の集まりでできている。橙、青、緑が隣り合い、混ざらないまま置かれる。
館の解説では、この打ち方はスーラの点描への応答だとされる。
そのスーラの絵については別の記事で扱っている。
1889年の絵と比べると、違いは点と流れの差にある。
点は面を細かく震わせるだけだが、長い筆の流れは面に向きを与える。
2年のあいだに、震えが向きへ変わったと言える。
顔の作りも違う。1887年の顔は青と緑の影が広く、目のまわりが沈む。
1889年の顔は黄緑の明るい面が多く、影は輪郭の際に細く残るだけである。
画面の大きさも違う。1887年は縦41センチ、横32.5センチで、こちらのほうが小さい。
支持体も違う。館の記録では、1887年のほうはカンヴァスではなく厚紙に描かれている。
館の記録では、その厚紙はのちに木の板へ貼り付けられている。紙のままでは反るためだと考えられる。
同じ画家の自画像でも、2年の差と、描かれた地の差で、画面の見え方はここまで変わる。
「ゴッホの自画像」と一語で呼ぶとき、実際には年の違う別々の絵を指している。
いちばん古い自画像はどこにあるか

当サイトで最も古いのは、1885年のこのカンヴァスである。
ただし、表に描かれているのは自画像ではない。じゃがいもの皮をむく女である。
館の記録では、麦藁帽子をかぶった自画像は裏の面にある。表からは見えない。
表の色は褐色と黒に寄り、明るい色がほとんど無い。頭巾と手と小刀だけが白く抜ける。
背後の椅子は、輪郭がかろうじて闇から浮かぶ程度にしか描かれない。
この暗さは、ゴッホがオランダにいた時期の絵に共通する。
同じ1枚のカンヴァスの表と裏で、暗い時期と、そこから出たあとの顔とが重なっていることになる。
カンヴァスが手に入りにくいとき、描き終えた面の裏を使うことがある。両面の絵は、その事情の跡でもあると考えられる。
なぜ自画像がこれほど多いのか
シカゴ美術館の解説では、パリにいた2年のあいだだけで、少なくとも24点の自画像が描かれたとされる。
理由をひとつに決めることはできない。ただし、絵そのものに手がかりはある。
人を描くにはモデルがいる。自分を描くなら、鏡があれば足りる。
そして描き手は、相手に断りを入れずに何度でも描き直せる。
パレットを持つ姿を選んでいることも、職業の姿としての自画像であることを示している。

同じ1889年の《糸杉》では、空も雲も木も、同じ向きの渦で埋め尽くされている。
自画像の背景に並ぶ筆の列は、この渦と同じ手つきから出ている。
顔の周りだけの特別な仕掛けではない、ということである。
風景でも人物でも、面を筆の向きで作る。その方法を試す相手として、自分の顔は都合がよかったと考えられる。
《糸杉》では、手前の草の黄と木の深い緑がじかに隣り合う。混ぜずに並べて強さを作る点は、自画像のパレットと同じである。
自画像は、風景の仕事から切り離された別の作業ではない。同じ年の、同じ手の仕事である。
自画像を何枚も残したことは、顔に執着した結果というより、描き方を確かめ続けた跡として見ることもできる。
《糸杉》の渦をもっと近くで見る話は、糸杉の記事にある。


