クロード・ロラン《ラ・クレシェンツァの眺め》——理想を描いた画家が一度だけ選んだ現実
縦38.7センチの画面に、事件が何も起きていない。神話画家クロード・ロランが一度だけ実在の館を主題にした一枚を、当時の絵画の序列、彼自身が作った定型、戸外の素描、そして『真実の書』という帳面から読み解く。

何も起きていない絵
縦38.7センチ、横58.1センチ。ノートを二冊ほど並べた大きさである。美術館の広い展示室では、うっかり通り過ぎてしまいかねない小さな画面だ。
描かれているのは、暗く沈んだ手前の斜面と、画面を横切るように立つ細い木立。その向こうに、小さな館が見える。右手にはなだらかな丘が続き、画面の上半分は淡い空が占めている。
日は傾きかけているらしく、木立の梢と館の壁面だけが薄く明るい。
そして、それだけである。神話の神も、聖書の登場人物も、英雄も殉教者もいない。船も港も、廃墟となった列柱もない。事件と呼べるものが、どこにも起きていない。
描いたのはクロード・ロラン。ロレーヌ地方に生まれ、若くしてローマに渡り、壮麗な理想風景を次々に生み出した17世紀の画家である。
その画家の作品として、この静けさは相当に奇妙なことだった。
この時代、風景はたいてい何かの舞台だった。誰かが何かをするための場所であって、それ自体が見るべきものとは考えられていなかった。
奇妙さの正体を知るには、当時の絵画がどんな価値観の中に置かれていたかを、少しだけ確認しておく必要がある。

風景画が「格下」だった時代
いまの私たちは、風景画を絵画の一分野として当たり前に受け取っている。だが17世紀のヨーロッパでは、絵は何を描くかによって格付けされていた。
最上位は歴史画である。神話や聖書、古代史の一場面を描き、人間の徳や運命を語るもの。文献を読み解く教養と、見えないものを構想する力が要る。だからもっとも高級な仕事とされた。
風景は、その下に置かれた。目の前にあるものを写すだけの、手は要るが頭は要らない仕事——という見方である。肖像画や静物画も同じように低く見られていた。
この序列が文章としてはっきり定式化されるのは1667年、パリの王立絵画彫刻アカデミーの書記フェリビアンによってである。歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画。上から順に、そう並べられた。
定式化は後年のことだが、考え方そのものは以前から画家たちに共有されていた。だから風景画家は、画面のどこかに神話や聖書の人物を配した。物語の格を借りて、自分の絵を歴史画の側へ引き寄せるのである。
ロランも、大作ではこの作法をしばしば用いた。ほぼ同じ頃に描かれた《船隊に火を放つトロイアの女たち》を見ると、それがよく分かる。

ウェルギリウスの叙事詩から取られた場面だ。長い航海に疲れ果てた女たちが、これ以上の航海を拒んで船団に火を放つ。画面は明らかに、この物語を語るために組み立てられている。
では《ラ・クレシェンツァの眺め》は、なぜその作法を外したのだろうか。
定型が外されている
外れているのは物語だけではない。構図の作り方そのものが違う。比べてみると分かりやすい。同じくローマ近郊のカンパーニャを描いた《牧歌的風景:ローマのカンパーニャ》である。

こちらの画面には、はっきりした型がある。左右の端に暗い樹を立て、額縁のように視界を挟む。その内側に明るい水面を開き、小舟を浮かべ、遠い山並みへと視線を送る。手前には牛と山羊、そして腰を下ろした牧人がひとり。
左右を暗く締めて中央を明るく抜くこの構成は、当時の理想風景画で繰り返し使われた定型である。舞台の袖が客席の視界を左右から挟むのと同じ働きをするので、フランス語で袖を指す語がそのまま呼び名になった。
型があるということは、目の前の自然をそのまま写しているわけではない、ということでもある。風景画は組み立てるものだった。
その目で《ラ・クレシェンツァの眺め》に戻ると、枠がないことに気づく。木立は左右対称に立っておらず、画面を横切る一列の衝立のように並んでいる。視界を挟む額縁として働いていない。
幹は細く、不揃いな間隔で立っている。額縁というより、粗い柵に近い。私たちは枠の内側を覗くのではなく、木の間から向こうを透かして見ることになる。
水面もなければ小舟もない。腰を下ろした牧人もいない。視線を奥へ導くための小道具が、ほとんど置かれていないのである。
奥行きを作っているのは、もっぱら明るさの差だけだ。暗い手前、薄明るい中景、さらに淡い遠景。輪郭線ではなく、明度の階調が距離を語っている。
もうひとつ目を引くのが、空の広さである。画面のおよそ上半分が空に充てられている。地上の出来事を語る絵であれば、これほどの面積を何もない空に譲ることはない。
定型を使わないというのは、この時代の風景画家にとって、決して小さな選択ではなかった。型を外せば、絵は寄る辺を失う。それでもここでは、外したほうが描きたいものに近づいたのだろう。
その型は、彼自身が作った
念のため書いておくと、この定型はロランが嫌々従っていた他人の様式ではない。むしろ彼が完成させ、広めた型である。
とくに港の風景は、彼の発明といってよい。左右に建物と船を配し、画面の中央、水平線のすぐ上に太陽を置く。

太陽を画面の正面に置いて逆光で描く。当たり前のようだが、これは大胆な操作だった。
逆光にすると、手前の物はすべて影になる。人物の顔は見えず、船体は黒い塊になる。物語を語るには、これほど不利な条件はない。
そのかわり、空気そのものが見える。光が水面で散り、遠くの建物が霞み、雲の縁が燃える。彼が描きたかったのは、たぶんそちらである。
念のためにいえば、いま見ている一枚はロラン本人の作ではない。所蔵館は「クロード・ロランの追随者」と記録している。
つまり、型が型として広まったことの証拠である。誰かが真似できる形になったからこそ、彼の絵は様式になった。
主題のはずの館が、小さい
もうひとつ、この絵には奇妙なところがある。題名が館の名を掲げているのに、画面の館が小さいのだ。
ラ・クレシェンツァは実在する。ローマ北方の田園に建つ、クレシェンツィ家の館である。中世の要塞を住まいに改めたもので、いまも同じ場所に残っている。
この一帯はカンパーニャと呼ばれる。ローマを取り巻く広い平野で、古代の水道橋の残骸や、要塞めいた農場が点々と散らばっていた。
要塞を住まいに改めた、という来歴も、この土地柄をよく表している。ローマ近郊とはいえ城壁の外は治安がよいとは限らず、地方の館は身を守れる造りである必要があった。館の四角い塔は、その名残である。
ロランが油彩で実在の建物をそのまま主題にした作例は、これひとつとされる。他の絵に出てくる塔も神殿も港も、古代風に理想化された想像の産物だった。彼にとって建築とは、本来つくるものだったのである。
その貴重な一例であるにもかかわらず、館は記念碑として扱われていない。位置は中景、中央よりやや右。しかも木立の隙間から半ば覗くだけである。
画面の量として支配的なのは、むしろ手前の木立と、暗く沈んだ斜面のほうだ。牛が数頭いるが、目を凝らさなければ気づかない。館に日が当たっていなければ、そこに建物があることさえ見落としかねない。
つまりこの絵は「これがラ・クレシェンツァです」という提示ではない。館そのものより、館がそこに建っている午後の空気のほうが、描かれる対象になっている。
建物を描いた絵なのに、建物が主役ではない。この転倒が、この一枚をただの記録から遠ざけている。
カンパーニャを歩く
では、彼はどうやってこの土地を知ったのか。答えははっきりしている。歩いたのである。
同時代の証言によれば、ロランは夜明けと日没にローマ郊外へ出かけ、空の色が変わっていく様子を繰り返し観察したという。
戸外での油彩制作が一般化するのは十九世紀のことで、彼が野外で描いたのは主に素描だった。紙とインク、そして筆で溶いた淡彩である。

この一枚を見ると、彼が現場で何を採取していたのかがよく分かる。輪郭ではない。明るさの層である。
手前の丘は濃く、中景の木立はやや薄く、湖と遠山はほとんど紙の色に近い。三段か四段の調子だけで、何十キロ先までの距離が出ている。
同じ方法が、そのまま《ラ・クレシェンツァの眺め》の油彩に移されている。暗い手前、薄明るい中景、淡い遠景。素描で身につけた段取りを、絵具でやり直しているわけである。
右端に描かれた人物は、写生の現場にいた誰か——おそらくは画家自身か、同行者だろう。景色を見るためにわざわざそこへ登った人がいる、という記録にもなっている。
ローマで何をしていた人か
ここで画家の来歴を短く挟んでおきたい。名前の由来からして、少し変わっている。
本名はクロード・ジュレ。1600年ごろ、フランス東部のロレーヌ地方シャマーニュに生まれた。ロランという通称は、この出身地から来ている。
十代でイタリアへ渡り、ローマで働きはじめる。初期には風景画家アゴスティーノ・タッシの工房で下働きをしたと伝えられる。
正規の美術教育を受けたエリートではない。文字の読み書きにも苦労したという話が残っているほどである。
それでも1630年代には、教皇や枢機卿から注文を受ける画家になっていた。理想風景という商品が、ローマの上層で強く求められていたということでもある。
注文主の顔ぶれを見ると、彼の仕事の性格が分かる。大きな物語画は屋敷の壁を飾るためのものであり、格式が要る。
一方で、小さな風景画は個人の部屋のためのものである。《ラ・クレシェンツァの眺め》のような一枚が、どちらの需要に応えていたのかは、考えてみる価値がある。
1648年から50年という時期
制作は1648年から50年にかけてとされる。ロランの円熟期にあたり、同じ頃に彼は大画面の物語画や港湾図を次々に手がけていた。先ほどの《トロイアの女たち》も、ほぼ同時期の仕事である。
この小さな画面には、ローマ郊外の丘で描いた写生素描に通じる直接さがある、と指摘されている。実際、筆の運びに整えすぎたところが少ない。木立の葉むらなどは、形を追うというより勢いで置かれている。
とすれば、大作の合間に描かれた私的な仕事だった——と考えたくなる。ただし、これは推測の域を出ない。
『真実の書』という帳面
ロランには、自作の構図を一点ずつ帳面に写し取る習慣があった。『真実の書』と呼ばれるその記録は1635年ごろに始まり、亡くなる1682年まで続けられている。
理由は、贋作を防ぐためだったと彼自身が語ったと伝えられる。人気のある画家の宿命として、彼の様式をまねた絵が早い時期から出回っていた。
先ほど見た《港》の追随者作品を思い出したい。あれは悪意のある贋作ではないが、型が広まればそういう絵は必ず増える。
帳面には注文主の名が書き込まれることも多く、本作の構図も残されている。だとすれば、これは私的な習作ではなく、誰かに頼まれた仕事だった可能性もある。
どちらであったかは決めがたい。確かなのは、動機が何であれ、結果として画面に何が残ったかである。
なおこの『真実の書』は、18世紀の後半にイギリスで版画集として複製され、広く出回った。ロランの構図がイギリスの風景画家たちに深く入り込んでいく道筋のひとつが、ここにある。
自分の作品を守るために作った記録が、結果として自分の様式を配る道具になった。皮肉だが、悪い皮肉ではない。
物語は、どこに置かれたか
ロランが物語を捨てた画家だと言いたいわけではない。むしろ彼は、物語の置き方を発明した画家である。

三人の女神と羊飼いパリス。西洋絵画で繰り返し描かれてきた主題である。ふつうなら人物が画面の中心を占め、身体の美しさを競わせる。
ここでは違う。人物は小さく、左下に寄せられ、岩と滝と樹の量塊に囲まれている。画面の大半は、渓谷と遠い山並みと空である。
主題を消してはいない。しかし、主題を「小さな出来事」として自然の中に置いている。
この配置は、当時の格付けをうまくかわす方法でもあった。神話を描いている以上、この絵は歴史画である。だが実際に見えているのは風景である。
看板は歴史画、中身は風景画。ロランの多くの作品はこの二枚看板で成り立っていた。
そう考えると、《ラ・クレシェンツァの眺め》の異様さがはっきりする。あの絵は、看板を外してしまっているのである。
光は、どう塗られているか
技法の側からも見ておきたい。ロランの光は、絵具を厚く盛って作られたものではない。

明るい部分は、薄い絵具の層を重ねて作られている。白を厚く置いて光らせるやり方とは逆で、下の層を透かせて明るさを出す。
そのため画面は、光っているというより、内側から薄く発光しているように見える。空気の絵に向いた作り方である。
問題は、この方法が時間に弱いことだ。薄い層は、上に塗られたニスが黄色く変わると、その影響を強く受ける。
十七世紀の絵の多くは、いま茶色がかって見える。制作時の色そのものではない、と考えたほうがよい。
ゴッホの《寝室》の壁が青くなった話を別のコラムで書いた。方向は逆だが、起きていることは似ている。
私たちが名画と呼んでいるものは、たいてい「時間を通過したあとの状態」である。そのことを頭の隅に置いて見るだけで、絵との距離は少し変わる。
その田園は、どんな土地だったか
描かれている場所についても、少し補っておきたい。牧歌的に見えるこの一帯は、実際にはそう穏やかな土地ではなかった。
古代には人口を抱えていたローマ周辺の平野は、中世以降、農地としては衰えていた。低地には水がたまり、夏には熱病が流行る。
住む人は少なく、広い土地が放牧に使われていた。羊の群れと、季節ごとに移動する牧人。それがカンパーニャの実情だったとされる。
画面に牛が数頭いるのは、風情のためだけではない。そういう使われ方をしている土地だった、ということでもある。
館が要塞の造りを残しているのも、同じ事情に属する。城壁の外は、安全が保証された場所ではなかった。
つまりこの「何も起きていない絵」の下には、荒れた土地と、そこで暮らす人々の条件が横たわっている。
もちろん、画家がそれを告発しようとしたわけではない。彼が見ていたのは、あくまで光のほうだろう。
ただ、理想化されていない場所を選んだこと自体に、意味を読みたくなる。神話の舞台ではなく、羊の通る丘である。
当時の人は、これをどう見たか
いまの私たちはこの絵を「先駆的」と読みたくなる。だが同時代の目には、どう映っていたのだろうか。
正直なところ、よく分からない。この作品について同時代の評価を伝える記録は、ほとんど残っていない。
分かるのは、こうした小さな風景画が実際に売れていたという事実である。ローマには外国人の顧客も多く、土産としての需要もあった。
とはいえ、注文の主流は物語のある大画面だった。値段も、格も、そちらが上である。
小品は工房の副産物のように扱われたかもしれない。あるいは、親しい相手への贈り物だったかもしれない。
想像を重ねても仕方がないので、ここで止めておきたい。確かなのは、この絵が残ったということだけである。
そして残ったからこそ、四百年後の私たちが「あの画家にこんな一枚がある」と驚くことができる。
評価は後から変わる。同時代に注目されなかったことは、その作品の価値と直接には関係しない。
「描くに値するもの」が更新された
物語がなくても絵は成立する。ロラン自身、名もない牧人だけを置いた「牧歌的風景」を数多く描いており、そこまでは当時も認められた領域だった。
だがこの一枚は、さらに先まで行っている。人影はほとんど消え、場所は理想化されず、光と空気だけが残る。逃げ道を全部ふさいだ絵、と言ってもいい。
もちろん、当時の画壇がそう受け取ったわけではない。序列が文章として固まるのはむしろこの後で、風景画の地位が実際に動くにはさらに百年以上かかる。この絵が時代を変えたと言うつもりはない。
そもそも物語のない絵は、当時は売りにくかったはずである。買い手は画面の中に読むべきものを求めた。何を描いたのかと問われて「午後の光です」と答えるのは、通りのいい説明ではない。
それでも、19世紀の画家たちは最終的にそこへ行き着いた。戸外の光、名もない場所、物語を持たない画面。この小さな一枚は、その道筋のずいぶん手前に置かれた前例として読むことができる。
そう考えると、この絵の静けさは物足りなさではなくなる。何も起きていないこと自体が主題なのだと分かるからだ。夕方の光が木立を通り抜けていく。その一事のために、画面は用意されている。
ちなみにイギリスの画家ターナーは、生涯にわたってロランに執着し続けた。自作をロランの絵の隣に掛けよ、と遺言したほどである。その執着については別のコラムで書いた。
机の上の58センチ
最後に、もう一度寸法の話に戻りたい。横58センチという大きさは、壁の高い位置に掛けて見上げる絵のものではない。
腕を伸ばせば端に届く。近づいて覗き込み、木立の向こうに館を探す——そういう距離で見るために作られた画面である。何も起きていない絵は、そもそも遠くから眺めて楽しむようにはできていない。
この手の絵は、最初の一度ではあまり効かない。何も起きていないのだから、当然といえば当然である。
効いてくるのは、見慣れてからだ。何度目かに、木立の向こうに館があり、そこに夕方の光が差していることへ、あらためて目が行く。
いま私たちは、この絵を画面の上で見ている。実物より小さく、しかし好きなだけ拡大できる、奇妙な条件である。
拡大すると、木立の葉が短い筆の跡の集まりであることが分かる。館の壁の明るさが、絵具を薄く置いただけであることも見えてくる。
近づいて見る絵を、限界まで近づいて見られる。四百年前の画家が想定しなかった見方だが、この絵にはよく合っていると思う。
急いで見終える絵ではない。夕方の数分を写した画面には、それに見合う時間をかけたい。




