《ラ・クレシェンツァの眺め》——理想を描き続けた画家が、一度だけ現実を選んだ
主題のはずの館が、小さい
もうひとつ、この絵には奇妙なところがある。題名が館の名を掲げているのに、画面の館が小さいのだ。
ラ・クレシェンツァは実在する。ローマ北方の田園に建つ、クレシェンツィ家の館である。中世の要塞を住まいに改めたもので、いまも同じ場所に残っている。
この一帯はカンパーニャと呼ばれる。ローマを取り巻く広い平野で、古代の水道橋の残骸や、要塞めいた農場が点々と散らばっていた。
要塞を住まいに改めた、という来歴も、この土地柄をよく表している。ローマ近郊とはいえ城壁の外は治安がよいとは限らず、地方の館は身を守れる造りである必要があった。館の四角い塔は、その名残である。
ロランが油彩で実在の建物をそのまま主題にした作例は、これひとつとされる。他の絵に出てくる塔も神殿も港も、古代風に理想化された想像の産物だった。彼にとって建築とは、本来つくるものだったのである。
その貴重な一例であるにもかかわらず、館は記念碑として扱われていない。位置は中景、中央よりやや右。しかも木立の隙間から半ば覗くだけである。
画面の量として支配的なのは、むしろ手前の木立と、暗く沈んだ斜面のほうだ。牛が数頭いるが、目を凝らさなければ気づかない。館に日が当たっていなければ、そこに建物があることさえ見落としかねない。
つまりこの絵は「これがラ・クレシェンツァです」という提示ではない。館そのものより、館がそこに建っている午後の空気のほうが、描かれる対象になっている。
建物を描いた絵なのに、建物が主役ではない。この転倒が、この一枚をただの記録から遠ざけている。
カンパーニャを歩く
では、彼はどうやってこの土地を知ったのか。答えははっきりしている。歩いたのである。
同時代の証言によれば、ロランは夜明けと日没にローマ郊外へ出かけ、空の色が変わっていく様子を繰り返し観察したという。
戸外での油彩制作が一般化するのは十九世紀のことで、彼が野外で描いたのは主に素描だった。紙とインク、そして筆で溶いた淡彩である。

この一枚を見ると、彼が現場で何を採取していたのかがよく分かる。輪郭ではない。明るさの層である。
手前の丘は濃く、中景の木立はやや薄く、湖と遠山はほとんど紙の色に近い。三段か四段の調子だけで、何十キロ先までの距離が出ている。
同じ方法が、そのまま《ラ・クレシェンツァの眺め》の油彩に移されている。暗い手前、薄明るい中景、淡い遠景。素描で身につけた段取りを、絵具でやり直しているわけである。
右端に描かれた人物は、写生の現場にいた誰か——おそらくは画家自身か、同行者だろう。景色を見るためにわざわざそこへ登った人がいる、という記録にもなっている。
ローマで何をしていた人か
ここで画家の来歴を短く挟んでおきたい。名前の由来からして、少し変わっている。
本名はクロード・ジュレ。1600年ごろ、フランス東部のロレーヌ地方シャマーニュに生まれた。ロランという通称は、この出身地から来ている。
十代でイタリアへ渡り、ローマで働きはじめる。初期には風景画家アゴスティーノ・タッシの工房で下働きをしたと伝えられる。
正規の美術教育を受けたエリートではない。文字の読み書きにも苦労したという話が残っているほどである。
それでも1630年代には、教皇や枢機卿から注文を受ける画家になっていた。理想風景という商品が、ローマの上層で強く求められていたということでもある。
注文主の顔ぶれを見ると、彼の仕事の性格が分かる。大きな物語画は屋敷の壁を飾るためのものであり、格式が要る。
一方で、小さな風景画は個人の部屋のためのものである。《ラ・クレシェンツァの眺め》のような一枚が、どちらの需要に応えていたのかは、考えてみる価値がある。
1648年から50年という時期
制作は1648年から50年にかけてとされる。ロランの円熟期にあたり、同じ頃に彼は大画面の物語画や港湾図を次々に手がけていた。先ほどの《トロイアの女たち》も、ほぼ同時期の仕事である。
この小さな画面には、ローマ郊外の丘で描いた写生素描に通じる直接さがある、と指摘されている。実際、筆の運びに整えすぎたところが少ない。木立の葉むらなどは、形を追うというより勢いで置かれている。
とすれば、大作の合間に描かれた私的な仕事だった——と考えたくなる。ただし、これは推測の域を出ない。
『真実の書』という帳面
ロランには、自作の構図を一点ずつ帳面に写し取る習慣があった。『真実の書』と呼ばれるその記録は1635年ごろに始まり、亡くなる1682年まで続けられている。
理由は、贋作を防ぐためだったと彼自身が語ったと伝えられる。人気のある画家の宿命として、彼の様式をまねた絵が早い時期から出回っていた。
先ほど見た《港》の追随者作品を思い出したい。あれは悪意のある贋作ではないが、型が広まればそういう絵は必ず増える。
帳面には注文主の名が書き込まれることも多く、本作の構図も残されている。だとすれば、これは私的な習作ではなく、誰かに頼まれた仕事だった可能性もある。
どちらであったかは決めがたい。確かなのは、動機が何であれ、結果として画面に何が残ったかである。
なおこの『真実の書』は、18世紀の後半にイギリスで版画集として複製され、広く出回った。ロランの構図がイギリスの風景画家たちに深く入り込んでいく道筋のひとつが、ここにある。
自分の作品を守るために作った記録が、結果として自分の様式を配る道具になった。皮肉だが、悪い皮肉ではない。