ロダン《考える人》の解説——何を考えているのか、どこで見られるのか
ロダン《考える人》は何を考え、どこで見られるのか。クリーヴランド美術館にある大小二点の寸法を比べ、《地獄の門》の一部として構想された経緯を館の記録から読む。記録が書いていないことと、画像から言えることを分けて確かめる。

《考える人》はどこで見られるか
ロダン《考える人》のうち、当サイトが画像を公開しているのはクリーヴランド美術館の二点である。
一点は高さ70.8センチ、もう一点は高さ182.9センチある。館の記録では、ロダンはまずこの原寸で作り、のちに記念碑的な大きさの版を作った。
高さの比は二倍半ほどになる。奥行きも、59.7センチと142.2センチで倍以上の開きがある。
同じ姿の像をあちこちで見かけるのは、ブロンズが鋳造だからである。原型が残っていれば、同じ像を何度でも起こせる。
パリのロダン美術館の解説では、像は1880年に高さ約70センチで構想され、1904年に拡大された。同館の庭にある大像は、1904年にリュディエの鋳造所で鋳られたものである。パリ市に贈られて1906年にパンテオンの前に据えられ、1922年に美術館へ移された。同館の記録では高さ189センチある。
ロダン美術館の解説は、もう一体の大像にも触れている。パリ郊外ムードンのロダンの家の庭で、ロダンと妻の墓の上に置かれた像である。
日本で見るなら、東京・上野の国立西洋美術館である。前庭の屋外に《考える人》と《地獄の門》が置かれている。どちらも、実業家の松方幸次郎が集めた作品である。
館の作品記録では、前庭の《考える人》は拡大作で、高さ186センチある。原型は1881年から1882年、拡大は1902年から1903年、鋳造は1926年と記録されている。松方は1919年ごろ、ロダン美術館からこの像を買い入れた。
同じ館には、高さ71.5センチの小さい《考える人》もある。こちらも同じころに松方が買ったもので、二つの大きさを一つの館で見比べられる。
松方の作品は第二次大戦後にフランス政府の管理下に置かれた。1959年1月に日本政府へ移され、同年4月に国立西洋美術館に入っている。
《地獄の門》のほうは、松方が1920年ごろにロダン美術館から買い入れた。館の記録では、鋳造は1930年から1933年、寸法は高さ540センチである。
ただし、展覧会への貸し出しで館を離れる時期もある。見に行く前に、館の案内を確かめたい。
ロダンの生没年は、当サイトの作家記録では1840年から1917年である。
クリーヴランド美術館の収蔵番号は西暦で始まる形をとる。大きいほうは1917、小さいほうは1979から始まる。館に入った年が六十年以上離れていることが読み取れる。

小さいほうの像を見る。裸の男が、岩のような台に坐る。
右の肘を左の膝へ載せ、曲げた右手の甲に顎を預ける。指は軽く曲がり、口もとへ寄る。
背は大きく丸まり、首は前へ落ちる。目は伏せられ、視線は下へ向かう。
左の前腕は左の腿に載り、手は膝の先へ力なく垂れる。足の指は曲がり、台の縁をつかむ。
肩と背の筋は隆起し、腰から腿へ太い面が続く。表面は磨かれ、緑と黒の斑が残る。
館の記録では、この像はアレクサンドル・ローゼンバーグから1979年に寄贈された。
何を考えているのか
館の記録では、この像ははじめ《地獄の門》の一部として作られた。
《地獄の門》は、パリに計画された装飾美術の館のための彫刻の扉である。記録では、この像は扉のすぐ上の浮彫に組み込まれる予定だった。
そして当初は、イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリを一般化した姿として構想された。ダンテは『神曲』を書いた詩人で、1265年に生まれ1321年に没している。
ロダン美術館の解説によれば、像ははじめ《詩人》と題されていた。門の上で身を乗り出し、地獄の環を見下ろしながら、自分の作品を思う姿である。
同じ解説は、この像を二つの面から説明する。苦しむ体をもち、ほとんど罪人の魂に近い存在であること。そして、詩によって苦しみを越えようとする、自由に考える人であることである。
門の上に残したまま、像は1888年に単独で展示された。こうして独立した作品になった、と同館は書いている。名が《詩人》から《考える人》になったことで、ダンテという特定の人物から離れて見られるようになった。
小さいほうの像の記録は、もう一歩進んで書いている。像は門の上部の中央に坐り、下でもだえる亡者たちを見ながら人の運命を思っている、という説明である。
衣を取り去られた体のうねる筋肉が、内側の生命力を伝え、頭の働きや創作の努力を表す、とも書かれている。前へ傾いて今にも跳び出しそうでありながら、深い思考の静止に捉えられている、とも記録は言う。
ここまでが館の見解である。記録が答えているのは「誰を思わせる姿か」「どこに置かれる予定だったか」までである。何を考えているかの中身は、どこにも書かれていない。
当サイトとしては、像の形だけから考えの中身を言い当てることはできないと見る。言えるのは、この人物が下方を見ている、ということである。
もとの構想が門の上の一体だったのなら、下を見るのは自然である。見下ろす先に何があるかは、門の側に描かれていたことになる。
像だけを切り離して台に載せたとき、その視線の先は空になる。見る人がそこに何を置くかは、像の外の話である。
ポーズには手本があったのか
ロダン美術館の解説は、手本を二つ挙げている。一つはカルポーの《ウゴリーノ》で、1861年の作である。もう一つはミケランジェロが刻んだ、坐ったロレンツォ・デ・メディチの像である。
カルポーの《ウゴリーノ》は、ニューヨークのメトロポリタン美術館に大理石の一体がある。同館の記録では1865年から1867年の作で、高さは197.5センチある。坐った父親が子らに囲まれ、両手を口もとへ当てる群像である。坐って前へかがみ、手を顔へ運ぶところは《考える人》と通じる、と当サイトは見る。
ロダン美術館は、ポーズがこの二作に多くを負っていると書くにとどめる。どの部分を借りたかまでは書いていないので、当サイトもそこから先は言わない。
大きいほうの像は、いまどんな状態か

大きいほうの像の画像は、小さいほうとかなり違って見える。
上半身の姿勢は同じである。しかし膝から下と、腰を受ける台座が大きく失われている。
金属は裂けて外へめくれ、板状の断片が足もとに散る。すねは途中で途切れ、足先の形はほとんど残っていない。
裂け口では金属の板の厚みがそのまま見える。中が空であること、つまり中空に鋳られたことが分かる。
原因は爆発である。館の保存担当者が1998年に学術誌へ書いた報告がくわしい。1970年3月24日の未明、像の脚のあいだにダイナマイトが仕掛けられた。
報告によれば、台座と脚の下のほうが吹き飛び、残った像は台から落ちてうつぶせに倒れた。飛んだ破片は館の建物まで届き、青銅の扉をへこませた。警察は過激派の一団の仕業と見たが、事件は公式には解決していない。
館は三つの道を検討した。別の像から型を取って新しく鋳直すこと。新しく鋳た像を切って壊れた部分に継ぐこと。そして、壊れたまま据え直すことである。
選ばれたのは三つめだった。鋳直した像は、ロダン本人が監督した鋳造ではなく複製になる。爆発で金属が膨らみ歪んだため、継ぎ足しも難しかった。当時の館長は、像を歴史の記録として今の姿のまま保つ、と書簡に記している。
この大像は、館が開いた翌年の1917年に収められた。はじめは館内の円形の広間に置かれたが、数か月で南の入口の前へ移された。パンテオンの前に立つパリの像に近い置き方である。
移したときの館長は、ロダンの弟子で友人だった女性に意見を求めた。返事は、像は門の頂に載るはずだったのだから、とにかく高く、強い光の中に置くべきだ、というものだった。下から見上げることを前提にした像だ、という見方である。
館の記録では、像は1916年にロダン本人から買い入れられ、ラルフ・キングが館に寄贈した。ロダンの生前に鋳られた大きい版は十点に満たず、その一つにあたる。
彫刻では、形が作られた年と、金属に起こされた年が分かれることがある。館の記録の1880年から1881年は形の年である。拡大が1900年代の初めである以上、この大きさの像が鋳られたのはそれより後になる。
《考える人》はなぜ何体もあるのか
ブロンズは型から鋳る。ロダンは生前、同じ像を大きさを変えて何度も鋳させた。だから世界の各地に「本物の《考える人》」がある。
ロダン美術館の解説も、多くの鋳造品が世界にあると書いている。大像だけでも、パリ、ムードン、クリーヴランド、上野にあることはこの記事で見てきた。
ロダンは1916年、三度に分けて全作品を著作の権利とともにフランス国家へ贈った。同年12月の法律でこれが受け入れられ、ロダン美術館がその権利を受け継いでいる。
だから死後の鋳造でも、ロダン美術館が認めたものはロダンの作品として扱われる。上野の大像は1926年の鋳造で、ロダンの没後九年にあたる。
ロダン美術館の説明では、フランスの法令で、番号付き十二点までの鋳造が原作として扱われる。同館は鋳造を十二点に限り、そこに既存の鋳造も含めている。
一方で、同館は無許可のブロンズ複製が出回っていることにも注意を促している。同館が売る複製は樹脂製で、目に見える形で「複製」と刻むことになっている。
ではクリーヴランドの大像の価値はどこにあるのか。保存担当者の報告は、ロダン本人の監督のもとで鋳られ、色づけされた数少ない一体だと書く。爆発の後に鋳直さなかった理由も、そこにあった。
《考える人》の前後に作られたもの

《青銅時代》は《考える人》より前の作である。館の記録では、ロダンの等身大の像で現存する最も早いものである。
裸の男が立ち、右腕を頭の上へ折り曲げて手を頭頂に置く。左手は握って顔の高さに上げる。
肌は滑らかに磨かれ、胸と腹の起伏が光の帯になる。顔はわずかに上を向き、目は閉じているように見える。
記録によれば、像ははじめ片手に槍を持っていた。ロダンは槍を取り去り、物語の手がかりを消して裸体そのものの力に絞った。
あまりに生々しいため、同時代の人々はロダンが生きた人から型を取ったと疑った。記録はこれを誤った非難だとしている。モデルはオーギュスト・ネイというベルギーの兵士だった。
この一体は、館の理事ラルフ・キングが1916年にロダンへ注文した鋳造である。ロダンが自ら鋳造を監督し、「つぶした葡萄」と呼んだ赤みの深い色に仕上げた。

《アダム》は、《考える人》とほぼ同じころに、同じ門のために作られた像である。館の解説では、門の両脇に《イヴ》と対で立てる予定だった。頭は胸につくほど垂れ、右腕は胸を横切り、左腕は下を指す。
館の解説は、この姿勢がミケランジェロの描いたアダムに学んだものだとする。システィーナ礼拝堂の天井画で、神から命を受け取る横たわった姿である。ロダンはその姿を立たせ、命を受ける手の動きを右腕に移した。
左腕の強いねじれは、ミケランジェロの彫刻《ピエタ》の死せるキリストから来ている、とも解説は書く。原型は1881年、鋳造は1924年ごろで、形の年と鋳た年が四十年以上離れている。

《ジャン・デール》は、縮小して鋳られた一点である。
館の記録では、1884年にロダンは公共の記念像の注文を受けた。カレーの町は英国の軍に十一か月包囲されていた。町を解く代わりに、進んで捕虜になると申し出た六人の市民を記念する像である。
記録では、ロダンは六人を理想化された英雄ではなく、死と向き合う普通の人として表した。
像は足もとまで届く厚い衣をまとう。両手は腹の前に下ろし、大きな鍵のようなものを握る。
頬はこけ、口は閉じ、目は正面を見据える。衣の襞は縦に重く垂れ、体の形をほとんど隠す。
記録は、この像が独立した彫刻として好まれ、ロダンが様々な大きさで何度も作った、とも書いている。《考える人》が二つの大きさで残っているのも、同じ作り方の結果である。
ロダンは同じ時代の画家とも並べて見られてきた。1889年にはパリのジョルジュ・プティ画廊で、モネと二人の展覧会を開いている。ロダン美術館によれば、二人は1882年の開廊以来、この画廊のグループ展にたびたび出品していた。モネの仕事はクロード・モネの代表作と特徴でたどった。
ロダンのほかの作品はオーギュスト・ロダンの作家ページから見られる。《地獄の門》そのものは当サイトの在庫にないため、図版には使っていない。
門の注文は1880年、フランス政府から出た。ところが、置かれるはずの装飾美術の館は建たなかった。
ロダン美術館の解説では、ロダンは門のために二百を超える人物や群像を作った。1889年の万国博覧会に出すことを望んだが、1890年ごろに手を止めている。
1900年の個展では、目立つ人物を外した不完全な状態で門を見せた。1917年に同館の初代館長の説得で組み直しが始まったが、ロダンは完成を見ずに没した。
門のために作られた人物の多くは、《考える人》と同じく、門から離れて単独の像としても作られた。


