クロード・モネの代表作と特徴——なぜ同じ景色を何枚も描いたのか
クロード・モネの代表作と特徴を、当サイトで画像を扱える作品だけで解説します。積みわら25点の連作、ロンドンの橋と国会議事堂、ひなげしの野、初期の人物画を館の記録とともに読み、同じ景色を何枚も描いた理由を確かめます。

クロード・モネの代表作と特徴は、「同じものを何枚も描いた」という一点から見ると分かりやすい。積みわら、ロンドンの橋、睡蓮。どれも一枚で終わらず、連作になっている。ここでは当サイトで画像を扱える作品だけを並べ、館の記録とともに読む。

クロード・モネの代表作
当サイトで画像を扱える範囲では、次の作品が代表作にあたる。1890年代の連作からは《積みわら、日の終わり、秋》と《ひなげしの野(ジヴェルニー)》。ロンドンで描いた連作からは《ウォータールー橋、陽射しの効果》と《ロンドン国会議事堂》。晩年の庭からは《睡蓮の池》である。
初期の人物画としては、《赤いスカーフ》がある。いっぽうで、印象派という名の由来になった《印象・日の出》は、当サイトの在庫にない。所蔵館が画像を公開していないため、図版としては扱えない。
《印象・日の出》は1872年の作で、パリのマルモッタン・モネ美術館が所蔵する。描かれているのは、画家が少年期を過ごしたル・アーヴルの港である。同館の解説では、1872年11月ごろに港の前のホテルに泊まったことが、この絵の題材になった。
1874年、写真家ナダールの元アトリエで開かれた展覧会に出品された。のちに第一回印象派展と呼ばれるものである。批評家ルイ・ルロワは、風刺新聞の4月25日の記事でこの絵を揶揄し、記事の題で出品者を「印象派」と呼んだ。からかいの言葉だったが、仲間の画家たちはこれを引き受けて名乗るようになる。画家はのちに、目録の題を求められて「印象」と付けたと語っている。ル・アーヴルの眺めとしては通らない絵だったから、というのがその理由である。この絵は1940年の寄贈で同館に入った。名前の経緯と運動の全体は印象派とは何かにまとめた。
画家の生没年は1840年から1926年。シカゴ美術館の画家紹介によれば、若いころはフォンテーヌブローの森やパリの大通りを描いた。セーヌ沿いの村、海辺の町、花の咲く野も主題になった。
のちにパリの北西のジヴェルニーに家を買い、そこで積みわらと睡蓮を描くことになる。庭には水の庭をつくり、日本風の橋を架けた小さな池を手入れした。
代表作を年代順に並べると、人物と街の画家から、一つの場所に立ち続ける画家へ移っていく道筋が見える。

クリーヴランド美術館の記録では、描かれているのは最初の妻カミーユである。雪の日に、アルジャントゥイユの家のガラス戸の外を通りかかった場面とある。顔は細かく仕上げず、絵具をわずかに置くだけで作られている。雪と木も、白と緑の広い筆で割られている。
館の記録では、年代は1868年から1873年ごろと幅を持たせてある。画家はこの絵を特に大切にし、生涯手元に置いた。死後は息子ミシェルが受け継いでいる。
画像を見ると、画家は人物を外から描いていない。暗い室内からガラス戸越しに見ている。左右に白いカーテンが垂れ、戸の枠と壁の灰色が画面の大半を占める。
その中で、強い色は女性の頭を包む赤い布だけである。館の記録も、この赤が見る者の目を戸の向こうへ引き、こちらへ向けた一瞬の視線をとらえると書く。
なぜ同じ景色を何枚も描いたのか
館の記録によれば、積みわらの連作は1890年から1891年にかけて制作され、点数は25点にのぼる。わらの山は画家のジヴェルニーの農家のすぐ外にあり、高さは約4.5メートルから6メートルあった。
描き方も記録されている。畑では複数のイーゼルを同時に立てて描き、アトリエで画面の調和を整えた。つまり一枚を仕上げてから次に移るのではなく、何枚も並行して進めている。
そして1891年5月、画家はパリの画廊の小さな一室に、この連作のうち15点を隣り合わせに掛けた。館の記録では、この展示は批評でも商売でも例のない成功をおさめ、画家の経歴の転機になった。同じものを何枚も描く理由は、ここにある。一枚では見せられない光の違いが、並べると見えるからだ。
この成功のあと、連作の規模は大きくなる。1892年と翌年、画家は二月から四月にかけてルーアンに滞在した。大聖堂の正面を、広場の向かいに借りた部屋や店の二階から、時刻を変えて描き続けた。現地では仕上げず、ジヴェルニーに持ち帰って手を入れている。そのため多くの画面には1894年の年記がある。1895年五月、パリの画廊でこのうち20点が並べられた。積みわらでつかんだ見せ方を、石の建物で確かめた仕事といえる。大聖堂の正面を描いた画面は、1890年代に全部で28点にのぼる。

積みわらの二点はどこが違うのか
上の二点は同じ連作で、大きさもほぼ同じである。違いは、わらの山が画面のどこに収まっているかに出る。
館の記録はこう整理している。秋の図では、円錐形の頂が地平線を越えて空へ突き出す。冬の図では、山は丘と畑の帯に包まれ、冬を越すために寝かされたように見える。《積みわら、日の終わり、秋》の頂は、たしかに空の側へ入っている。
画像でも違いは見える。秋の図には大小二つの山が並び、低い日に照らされて赤みを帯びる。空は地平線の近くで桃色と黄色に染まっている。
冬の図は山が一つだけで、手前の畑は雪に覆われる。頂は奥の青い丘より下にとどまり、空に届かない。どちらも左下に署名と「91」の年が入っている。
いっぽうで、二点の色の差はそのまま気象の記録として読めるものではない。画面の色は絵具と筆の選択でも決まる。確かめられるのは、同じ山を同じ大きさの画面で何度も試した跡である。
館の記録では、積みわらは画家にとって食べものと命をつなぐものの象徴でもあった。同館の画家紹介は、人の手で積まれながら自然が形づくるもの、とも言い添えている。そのあとも連作は続き、ポプラ、ルーアン大聖堂の正面、そして自分の庭へと主題が移っていく。シカゴ美術館は、この積みわらの連作を世界でいちばん多く持つ館である、と記録は書いている。
ロンドンの連作では何を描き分けたのか

館の記録によれば、ロンドンでの連作は時間で分けて描かれた。画家は毎朝早く起きてウォータールー橋を描き、昼と午後はチャリング・クロス橋に移った。どちらもサヴォイ・ホテルの5階の窓から見ている。
館の記録では、同館のウォータールー橋の二点には1900年と1903年の年記がある。ただし二点とも1900年に描き始め、仕上がったと思えた時に年を入れたとみられる。画家はロンドンの絵をすべてジヴェルニーのアトリエで仕上げた。連作として揃うまで、一点も画商に渡さなかったという。
館の記録は、画家自身の言葉も引いている。霧がなければロンドンは美しい街ではない、霧がこの街に壮大な広がりを与えている、という趣旨である。画面でも、橋と対岸の建物は輪郭を失い、水と空の色に溶けている。
画像では、橋のアーチが左右いっぱいに横たわる。橋の上には黄色や橙の小さな点が並び、奥には煙突らしい縦の影がかすむ。水も空も同じ薄紫で塗られ、右下に署名と「1903」の年が入る。

国会議事堂は、聖トマス病院のテラスから午後遅くと日没時に描かれた。館の記録では、この視点はターナーが議事堂の火災を描いたときの位置に近い。火災の記事はターナー《国会議事堂の火災》の解説で扱っている。同じ建物を、燃える夜と霧の夕方という別の条件で見た二枚になる。
画像では、議事堂の塔は青緑の影になり、輪郭が霧に溶けている。右手の塔の間から夕日がのぞき、川面には小さな舟の赤い帆が浮かぶ。
ただし館の記録は、夕暮れと霧の詩情については、より新しいテムズの画家に学んだと書く。ロンドンで活動したアメリカ人の画家、ホイッスラーである。
なぜシカゴ美術館に積みわらが多いのか
答えは、描かれてすぐにシカゴの収集家が買ったからである。館の来歴の記録をたどると、売り手はほとんどがパリの画商デュラン=リュエルだった。
《積みわら、日の終わり、秋》は、1891年7月に画家から画商へ渡った。同じ日に、シカゴの実業家ポッター・パーマーへ売られている。5月のパリの展示から、わずか二か月後のことである。記録では、この売買はデュラン=リュエルのニューヨーク店を通している。その後モントリオールの収集家などを経て、1892年11月に再びパーマーが買った。
もう一点の《積みわら》は、1892年までにパーマーの妻バーサの所蔵になったと記録される。パーマー家が長く持ち、1983年に館が買い入れた。
《ひなげしの野(ジヴェルニー)》も、1893年までにパーマーが持っていた。のちにシカゴのキンボール家に移り、1922年に館へ遺贈された。
ロンドンの二点は、シカゴの実業家マーティン・ライアソンが1914年と1916年に画商から買った。1933年、彼の遺贈で館に入っている。
つまりこの館の連作は、画家が生きていた時代にシカゴの家々が集め、それが遺贈で一か所にまとまったものである。
モネの特徴はどこに出るか

館の記録では、ひなげしの野は1890年7月に始まり、ほぼ同じ大きさの4点が描かれた。画家はこれを連作とは考えていなかったが、何枚も同時に進める関心はここにも出ている、と記録は述べる。
筆の置き方も比べられる。記録は、初期の自由な筆で描かれた風景より、この画面のほうが筆触が均質で、織物のような肌合いになっていると指摘する。《赤いスカーフ》の広い筆と並べると、その違いは画面で確かめられる。
画像では、畑の赤と緑は細かな点のような筆で一面に散らされる。地平線から高いポプラが一本、空へまっすぐ伸びている。
つまりモネの特徴は、主題の珍しさではない。同じ場所に何度も立ち、光と天気の違いだけを画面の差として残すことにある。
シカゴ美術館の画家紹介も、同じ点を挙げる。連作は構図こそ単純だが、画家は時刻ごとに色と筆の運びを変えたという。画家自身の言葉として「一瞬の、自然の一つの相が、すべてを含んでいる」が引かれている。
同じ紹介によれば、画家は戸外で描き始め、のちにアトリエで手を入れ、時に仕上げた。家族や友人をモデルにし、仲間の画家と並んで描き、並んで展示することも多かった。晩年の睡蓮についてはモネ《睡蓮》の解説で詳しく扱っている。ほかの作品はクロード・モネの作品一覧から見られる。
晩年の睡蓮は何が違うのか

館の記録では、第一次大戦のさなか、画家は病と二度目の妻の死による数年の停滞から抜け出した。大きなアトリエを建てて庭を手入れし、のちに国へ贈る睡蓮の大画面に取りかかる。
《睡蓮の池》は、それと並行して描かれた、より小さな19点の一つである。小さいといっても、横は2メートルを超える。制作の年は1917年から1919年で、オランジュリーに並ぶ大画面に取り組んでいた時期と重なる。画面の上の方には、水に映る岸の木々の影が暗い緑となって広がる。
画面には岸も空もない。水面と、浮かぶ葉と花と、水に映る影だけが画面を埋める。積みわらの頃のように、地平線で画面を区切ることをやめている。
館の記録は、画家が庭で描き始め、アトリエで手を入れたことを示す写真があると書く。そして、この時期には見たものと記憶したものの区別はつかない、と結んでいる。
モネの代表作はどこで見られるか
まとめて見るならパリである。マルモッタン・モネ美術館に《印象・日の出》があり、オルセー美術館には大聖堂の連作の一部がある。オランジュリー美術館には、楕円形の二つの展示室に睡蓮の大画面が八つの構成で並び、部屋をぐるりと囲む。館の説明では、画家が第一次大戦の休戦の翌日、1918年11月12日に国へ贈ると申し出たものである。画家は二つの楕円の部屋の設計にも自ら関わった。画面の高さは約2メートル、すべてをつなぐと長さは約91メートルになる。展示は画家の構想に沿い、1927年に公開された。画家が1926年に没した数か月後のことだった。
日本では、上野の国立西洋美術館が1916年の《睡蓮》を持つ。実業家の松方幸次郎が集めた作品群に含まれていたものである。同館にはもう一点、画面の上半分ほどが失われた《睡蓮、柳の反映》もある。長く所在が分からず、2016年にパリで見つかり、のちに松方家から同館へ寄贈された。シカゴ美術館の積みわらと合わせて、連作が世界に散っていることが分かる。








