ヤン・ファン・エイク《受胎告知》の解説——どこで見られ、文字はなぜ逆さなのか
ヤン・ファン・エイク《受胎告知》の解説。館の記録では1434年から1436年ごろの作で、ナショナル・ギャラリー(ワシントン)が所蔵する。天使とマリア、百合と鳩、そして上下逆さに置かれた文字を、CC0の画像で順に読む。

《受胎告知》はどこで見られるか
ヤン・ファン・エイクの《受胎告知》は、アメリカの首都ワシントンのナショナル・ギャラリーにある。
館の記録では、制作は1434年から1436年ごろ。板から移されたカンヴァスに油彩である。同館はこの絵の画像をCC0として公開しており、当サイトが掲げているのもその画像である。
ヤン・ファン・エイクの生没年は、当サイトの記録では1390年から1441年。同館の目録も、生年を1390年ごろとする。
目録によれば、1421年にハーグでホラント伯に仕えたのが最初の記録である。1425年からはブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷画家となった。1430年以後はブルッヘに住んだとみられ、1441年6月末に没した。

画面は縦に細長い。館の記録では、描画面は縦90.2センチ、横34.1センチである。縦と横の比は、およそ2.6対1になる。
記録には、板を移した布の寸法も別に載る。縦92.7センチ、横36.7センチで、描かれた面より一回り大きい。
当サイトで画像を扱えるファン・エイクの名の作品は、この一枚を含めて3点である。ほかの2点はメトロポリタン美術館にある。
ただしそのうち《壁龕の聖母子》は、館の記録では「ファン・エイクの工房」の作で、1440年から1450年ごろとされる。本人の作とされるのは《受胎告知》と、後で見る《磔刑と最後の審判》の2点である。
よく知られた大作は、当サイトでは画像を扱えない。ヘントの聖バーフ大聖堂の祭壇画は、枠の銘から1432年の完成と分かる。《アルノルフィーニ夫妻の肖像》は1434年の作で、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある。
ワシントンの《受胎告知》は、ちょうどこの二つと同じころの一枚になる。
実物は高さ1メートルに満たない。床の銘や窓の中の人物は、目の前に立っても読み取りにくいほど小さい。この記事で見ていく細部は、館が公開している大きな画像を拡大すると一つずつ確かめられる。
何が描かれているのか
左に天使ガブリエル、右にマリア、その間に光の線と白い鳩である。場所は家の中ではなく、教会堂の中に設定されている。
同館の目録は、受胎告知を教会堂の中に置いた板絵としては、ファン・エイクが最初だった可能性が高いと書く。写本の挿絵には、それ以前の例がある。
目録が最も近い先例に挙げるのは、ブシコー派の画家による時祷書の受胎告知で、1405年から1408年ごろの作である。パリのジャックマール=アンドレ美術館にある。
この挿絵も教会堂の中の場面で、マリアは同じように両手を広げる。左上には、球を持つ髭の父なる神がいる。
天使は赤と金の錦の上に、儀式用の豪華な外套をまとう。頭には宝石の冠を載せ、片手を上へ向けて挨拶の言葉を述べている。
もう一方の手には、長い笏を持つ。画像を拡大すると、灰色に光る細い軸に金の輪がはめられ、先端に金の飾りと青い石が付いているのが分かる。
この笏に百合は付いていない。百合は別に、画面の右下に立っている。
翼は青から緑、黄、赤へと色を移し、丸い斑が並ぶ。
マリアは白い毛皮で縁取った青い衣をまとい、赤い帯を締める。両手を胸の高さまで上げ、首を少し傾けている。
目録は、マリアがひざまずいているのか、かがんでいるのか、立っているのかははっきりしないと書く。衣が床に広がり、脚の位置が見えないためである。
両手を開いて上げる身ぶりは、司祭がミサの中で手を広げる所作に重ねる説がある。目録はこれを研究者の説として紹介している。
もう一つ、二人は建物に比べて大きすぎる。目録は、マリアを教会そのものと重ねる考えとの関係を挙げる。ベルリンにある同じ画家の《教会の聖母》にも、同じ考えが見られるという。
その前の机には、開いた書物が置かれる。手前には赤い座布団と木の踏み台がある。
右下の百合は、目録では花瓶に挿された白百合で、マリアの清らかさの印である。花は七つが開き、二つが閉じている。花瓶そのものは、座布団と衣の陰でほとんど見えない。
左上の高い窓からは、金色の光の線が七本差し込む。目録によれば、聖霊の鳩はそのうち最も長い一本に沿って降りてくる。七本は、聖霊の七つの賜物を指すと読まれている。
この光とは別に、場面は右下からの自然な光にも照らされている。目録は、左上から入る神の光と、この自然の光を対比させて読んでいる。
柱も梁も、天井の板の木目まで描き分けられている。手前の百合の葉から奥の窓の格子まで、筆は同じ細かさで動いている。
文字はなぜ逆さに置かれているのか
画面の中ほどには、二人の言葉にあたる文字が二組並んでいる。
天使の側の文字は、こちらから読める向きに置かれる。ラテン語で「めでたし、恵みに満ちた方」にあたる挨拶である。
マリアの側の文字は「我は主のはしため」にあたる返事である。館の記録では、上下が逆さで、左右も反転している。
なぜマリアの言葉だけが逆さなのか
同館の目録の答えは、上から読めるように逆さに書かれている、というものである。マリアの返事は、上にいる神に向けた言葉だからである。
目録は、同じ仕掛けがヘントの祭壇画の受胎告知の場面にも使われていると書く。ファン・エイクが一度きりの思いつきでなく、繰り返し使った書き方だと分かる。
二組の文字は、どちらも同じ細さで丁寧に書かれている。剥落や描き直しの跡として片づけられる形ではない。
文字は壁や床ではなく、二人の間の空いた場所に浮かんでいる。物として置かれたのではない書き方である。
建物と床は何を語っているのか
この教会堂は実在の建物ではない。目録によれば、トゥルネーの大聖堂やディジョンの聖母教会との類似が指摘されてきた。
建物の上と下では、窓の形が違う。上の階は丸い頭の窓、下の階は先の尖ったアーチである。
同館は、上の古い様式から下の新しい様式への移り変わりを、旧約の時代から新約の時代への移り変わりと読む。ただ目録は、この組み合わせ自体は当時のベルギーの教会に実例があるとも書いている。
上の暗い壁には、彩色硝子の窓が一つだけある。中の人物は笏と板を持ち、アジアの語が書かれた球の上に立つ。目録はこれを旧約の神とする見方が一般的だとする。
同じ窓の中には、車輪の上に立つ赤い翼の天使たちもいる。目録によれば、旧約のエゼキエル書に出てくる、四つの翼を持つケルビムである。
一方、マリアの背後の下の壁には、丸い硝子をはめた窓が三つ並ぶ。同館は、上の一つの窓と下の三つの窓を、旧約から三位一体の新約へ移る印と読む。
床の敷石には何が刻まれているのか
床には、線で絵を刻んだ敷石が並ぶ。目録によれば、旧約聖書の場面と、黄道十二宮の印の二種類である。
刻まれた人物には名前が添えられている。手前にはサウル王、ダビデ、ゴリアテの名があり、ダビデが倒したゴリアテの首を切る場面である。
その奥の列は、サムソンが神殿の柱を引き倒す場面で、敵を多く倒したという一文が続く。左下には、妻デリラに裏切られるサムソンの場面がある。
目録はこれらを、キリストの受難と勝利を先に告げる場面として説明する。
十二宮の印は、丸い枠の中に描かれる。画像でも、左下の獅子などが確かめられる。
目録が紹介する復元案では、天使の足元に三月の牡羊座、マリアの足元に乙女座が来る。受胎告知の祝日は3月25日である。
十二宮の中には、本来の姿から崩れた生き物も混じる。天秤座の場所に人魚の男が入るなどで、これを救い主が来る前の世の乱れと読む研究者もいる。ただし目録は、その読みを無批判に受け入れるべきではないと注意している。
場面の枠には、おだまきと白詰草を図案化した縁取りが巡る。百合と同じく、床の植物まで描き分けられている。
手前の踏み台にも、いくつかの読み方がある。マリアの謙遜の印とする説と、神の言葉「地はわが足台」に結ぶ説を、目録は並べている。
壁の上の方の絵にも、銘が残る。籠で流された幼いモーセとファラオの娘、十戒を授かるモーセの場面である。目録は、この壁画の作風がトゥルネー周辺の中世の壁画に近いとする見方を紹介している。下の壁の二つの円形には、イサクとヤコブの名が入る。
目録によれば、イサクがヤコブを祝福する話も、受胎告知と対になる場面として読まれてきた。新約のルカによる福音書には、生まれる子が「ヤコブの家」を治めると書かれている。
いつ、誰のために描かれたのか
制作年には、長い議論がある。目録によれば、かつては1428年から1429年とする説が有力で、同館も一時それを採っていた。
その後、1437年の年記がドレスデンの三連祭壇画で見つかり、ファン・エイクの年代の組み立てが見直された。目録はそれを踏まえ、1434年から1436年ごろが最もよいとした。いまの館の記録の年代はこれである。
この絵は単独の作ではなく、三連祭壇画の左翼だったと同館は考えている。中央と右翼は失われ、何が描かれていたかは分かっていない。
目録は、天使の外套をミサに仕える者の装いと読む説も紹介する。十二月にフランドルで行われた「黄金のミサ」という典礼では、天使役が笏を持ち、鳩を指し示したという。笏を持つ天使の姿は、この典礼とも重なる。
《受胎告知》はどこから来たのか
館の来歴によれば、確かな記録は1819年のパリでの売り立てから始まる。ブリュッセルの画商を経て、オランダ国王ウィレム二世の所蔵となった。
国王の没後、1850年にハーグで競売にかけられ、ロシア皇帝ニコライ一世のために買われた。以後はサンクトペテルブルクのエルミタージュに置かれた。
1930年6月、画商を介してアメリカのアンドリュー・メロンが買い取った。1937年にナショナル・ギャラリー(ワシントン)へ贈られている。
それより前については、館は可能性として、ディジョン近郊のシャンモル修道院を挙げる。1843年の画商の記録が、善良公のためにディジョンの宗教施設へ描かれたと伝えるためである。1791年の記録にも、細長い受胎告知の板絵が出てくる。
ただし館は、その記録の寸法がこの絵と合わないことも書いている。だから当サイトも、注文主と出所は確定していないものとして扱う。
マリアの顔に、善良公の妃イザベル・ド・ポルテュガルの面影を見る研究者もいる。目録は、決め手はないが興味深い説として紹介するにとどめている。
なお、兄のフーベルトの作とする少数意見もある。ただ目録は、ほとんどの研究者がヤンの真筆とみていると書く。
板からカンヴァスへ移されている
館の記録の技法欄には、板から移されたカンヴァスに油彩、と書かれている。
目録によれば、1850年の競売目録と1864年の文献では、まだ板の絵として載っている。1870年のエルミタージュの目録では、すでに布へ移されている。移したのは、エルミタージュに入った後とみられる。
青い衣はなぜ平たく見えるのか
目録は、この絵が大きく修復されていると書く。マリアの青い衣は、表面の透明な層の多くが失われ、ニスが乳白色に濁った所もある。
衣の青が、天使の錦ほど立体的に見えないのはそのためである。背景の亀裂を埋めた補彩も、色が変わっている。
一方で、赤外線による調査では下描きが見つかっている。マリアの衣には平行な線の陰影があり、ダビデとゴリアテの床には菱形の格子が下描きされていた。
目録は、天使の外套の裾に読み取れない銘があることも記している。目録によれば、最初の語はヘントの祭壇画にも出てくる、神を表す秘語に近いという。

メトロポリタン美術館にある《磔刑と最後の審判》も、記録では板から移されている。
二枚一組の細長い板絵で、左は三本の十字架と群衆、右は上下二段に分かれた審判の場面である。右の下半分は、翼を広げた骸骨の下に置かれる。
館の記録では、この二枚は各56.5×19.7センチ。縦の長さは横の三倍ちかくあり、細長い板の中に場面が上下へ積み上げられている。
同じ主題の絵と比べる
受胎告知は、15世紀の西洋で繰り返し描かれた場面である。当サイトの在庫にも、同じ題の作品が何点もある。

クリーヴランド美術館にあるジャウマ・フェレール(子)の《受胎告知》は、約20年後のスペインの板絵である。館の記録では、六枚組の祭壇画の一部とされる。
場面は、館の言う「ふつうの家」の中である。屋根の下の棚には本や器が並び、手ぬぐいと燭台も描かれる。ただ壁の上の空は、盛り上げた金の模様で埋められている。
館は、これらの日用品にも意味があると書く。百合は清らかさ、消えた蝋燭は神の光の到来、閉じた本と開いた本は旧約と新約である。
天使はひざまずいて片手を上げ、もう一方の手で文字の帯を持つ。帯はマリアの方へ渡り、上では小さな天使が三人、それぞれ巻物を広げる。
マリアは段の上に坐り、冠を載せた頭文字を金で散らした紺の衣を広げる。二人の間には、百合を挿した器が置かれる。
フェレールは文字を帯に書き、読める向きのまま渡した。ファン・エイクは帯を使わず、マリアの返事だけを逆さに浮かべた。
百合を花瓶に挿すのは同じでも、ファン・エイクは家ではなく教会堂を選び、建物と床に旧約の物語を刻んだ。二枚を並べると、その違いが見える。
一枚の板を隅まで読む見方は、肖像でも変わらない。ダ・ヴィンチ《ジネヴラ・デ・ベンチ》の解説では、板の両面の作りを追っている。


