空から、描き始める——ジョン・コンスタブル
地面のほとんどない「空だけの絵」を、この画家は何十枚も油彩で写生した。雲の観察、実物大の下絵、そして最晩年の荒れた厚塗り。故郷の川辺だけを描き続けたコンスタブルの七点で、風景画に天気と時間を持ち込んだ方法をたどる。

牧場の上を、雲の影が走る
一枚の絵から始めたい。

横に長い画面である。縦56.1センチ、横101.2センチ。
手前に牧場が広がる。牛が草を食み、木陰で休んでいる。
中景に湖がある。水面に白鳥が浮かび、岸辺の木々が映り込む。
白鳥の白は、画面の中でひときわ明るい点になっている。
対岸のゆるやかな丘の上に、白い邸宅が小さく見える。
牧場と湖と木々が、ゆるやかにつながって奥へ続く。
手入れされた、豊かな土地である。見ていて幸福な絵、と言ってよい。
そして画面の半分近くを、空が占める。
白い積雲がいくつも浮かぶ。その影が、牧場の上を走っていく。
夏の午後の、よく晴れて、しかし雲の多い日である。
日の当たる緑と、影に入った緑。地面が明暗の帯に塗り分けられている。
この縞模様は、雲がつくったものだ。
頭上の雲が日を遮り、その影が地面に落ちる。
雲が動けば、影も動く。数分後には、明るい場所と暗い場所が入れ替わるはずだ。
湖面も同じである。空の光を受けて、白く反射する部分と沈む部分がある。
つまりこの絵の地上の表情は、すべて空が決めている。
絵の中で、天気が動いている。そう言いたくなる画面である。
1816年の夏の作と伝えられる。緑の濃さと光の高さが、季節を語っている。
注文で描かれた、実用の絵
所蔵館の来歴記録によれば、この絵は注文で描かれた。
依頼主は、この土地を所有する軍人である。ウィヴェンホー・パークは、その領地の名だ。
つまりこれは、自分の土地を記念する絵である。邸宅も湖も、依頼主の財産だった。
注文主の求めに応じて、庭園の要素を画面に収めたと伝えられる。
記録のための、実用の絵。しかし空と光は、注文の枠を超えて生きている。
領地の記念画なら、邸宅を大きく描けばよさそうなものだ。
ところがこの絵の邸宅は、遠景の点景にすぎない。
画面を支配しているのは、湖の光と、雲の影の往来である。
注文の絵にすら、画家の関心は隠しようもなく出てしまう。
描いたのはジョン・コンスタブル。このとき40歳の英国の風景画家である。
この人の目が、なぜいつも空へ向かうのか。それがこのコラムの主題である。
製粉業者の息子
コンスタブルは1776年、英国東部のサフォークに生まれた。
所蔵館の記録は、出身地をイースト・バーゴルトと記している。
父は製粉業者だった。ストゥア川のほとりで水車場を営む家である。
川の流れ、粉をひく水車、荷を運ぶ舟。少年はその風景の中で育った。
家業を手伝いながら絵を志し、20代でロンドンの美術学校に学んだと伝えられる。
しかし主題に選んだのは、都会でも外国でもなかった。
生涯、あの川辺を描き続けることになる。
水車場、堰、曳き舟の道。働く川の風景が、そのまま画題になった。
この一帯は、いまでは画家の名を冠して呼ばれることもあると伝えられる。
風景が絵になったのではない。絵が、土地の呼び名を変えたのである。
見慣れたものほど、よく見える。この画家の強みは、そこにあった。
そして平らな土地の常として、この地方では空が大きい。
子どものころから、視界の半分はいつも空だったはずである。
絵にするのは、自分の育った場所だけでよい。そういう姿勢の画家だったと伝えられる。
歴史画でも神話画でもない。イタリアへ修業に行くこともない。
故郷の川と、その上の空。それだけを主題に選んだ。
同世代には、旅に生きたターナーがいた。各地を巡り、歴史画の伝統に挑んだ画家である。
その対照はターナーとクロード・ロランに書いた。
片や世界へ、片や故郷へ。同じ時代の英国に、正反対の風景画家が並び立った。
ターナーが光の劇を求めたとすれば、コンスタブルが求めたのは日常の天気である。
どちらも空の画家だった。ただ、その空の性格がまるで違った。
風景は、売れなかった
ただし、風景画は売れなかった。
19世紀初頭の英国で格が高いのは、歴史画や肖像画である。
風景を買うにしても、客が求めたのは理想化された古典風の景色だった。
ありのままの田舎の川辺を描いた絵に、高い値はつかない。
新しすぎる絵は、いつの時代も買い手を待たせる。
生前のコンスタブルは、母国では評価に恵まれなかったと伝えられる。
王立アカデミーの正会員に選ばれたのも、50歳を過ぎてからだったと伝えられる。
1816年には長い交際の末に結婚し、養う家族もできた。
では、何が生計を支えたのか。

肖像画である。黒い羽根飾りの帽子の夫人が、静かにこちらを見る。
縦75.6センチ、横62.9センチ。胸から上を捉えた、標準的な肖像の型だ。
モデルは友人一家の夫人と伝えられる。1818年の作。
夫妻は画家を長く支えた友人だったと伝えられる。仕事であり、友情の記録でもある。
風景が売れない時期、こうした肖像の仕事や模写が家計を支えたと考えられる。
風景画家の描く肖像は、律儀で誠実だ。派手な演出はない。
暗い背景から、帽子の羽根と白い襟元が浮かび上がる。
それでも顔にあたる光の扱いに、戸外を見てきた目がのぞく。
頬の赤みは、化粧の色というより、外気に当たった肌の色に見える。
人物の背後に、空はない。この画家の絵としては、それが少し寂しい。
この画家の本題は、やはり屋根の外にあった。
次のページで、その本題に戻る。
問い——なぜ、空だけの絵があるのか
ここで問いを立てたい。
コンスタブルには、空だけを描いた油彩がある。
地面がほとんど描かれていない。雲と光だけの小さな絵である。
風景画家が空を描くのは当然だ、と思うかもしれない。
しかし空だけを何十枚も油彩で写生した画家は、当時まれである。
売り物にならないことは、本人が一番よく知っていたはずだ。
それでも彼は、丘に登って空を描き続けた。
なぜ彼は、空だけの絵を描いたのか。
答えを探すために、まず大作の制作現場を見ておきたい。
空の習作は、そこにつながっているからである。
六フィートの賭け

縦127センチ、横183センチ。横幅6フィートの大画面である。
主役は白い馬。曳き舟を引く馬が、舟に乗せられて川を渡る場面だ。
曳き舟の道が対岸に移るとき、馬も舟で運ぶ。ストゥア川の日常の一コマである。
岸辺には農家が建ち、木々が茂る。空には大きな雲が湧く。
劇的な事件は何も起きていない。川辺の労働の、ありふれた瞬間だ。
しかし近づいて見ると、画面は静かではない。筆は粗く、絵の具は厚い。
雲も水面も、素早い筆で一気に置かれている。
《ウィヴェンホー・パーク》の3倍を超える面積である。
売れない風景画で勝負するには、見る者の足を止める大きさが要る。
歴史画の寸法で、川辺の日常を描く。それ自体が挑戦だった。
実は、同じ構図の完成作が別にある。ニューヨークのフリック・コレクション所蔵の一枚だ。
ワシントンのこの絵は、展覧会出品作のために描かれた実寸の下絵と考えられている。
6フィートの本番をぶっつけで描かない。同じ大きさの下絵で、構図と光を先に組む。
この方法が、「シックス・フッターズ」と呼ばれる大作の連作を支えた。
習作の勢いを、大画面の隅々まで行き渡らせるための仕組みである。
完成作は1819年の展覧会に出て、画家の名を高めたと伝えられる。
所蔵館の来歴記録によれば、この下絵は画家の死まで手元に残されたとみられる。
売るための絵ではない。描くための絵である。
そして下絵で最も念入りに試されているのが、空と光の配分だった。
大聖堂の上の、白い雲

1820年の作。友人の聖職者一家との縁で描いた大聖堂だと伝えられる。
ソールズベリーは英国南部の町である。画家は友人を訪ねて、たびたび滞在した。
故郷の川辺のほかで、彼が繰り返し描いた数少ない土地である。
縁のある場所しか描かない。その流儀は、ここでも変わらなかった。
手前の木立が、天然の額縁のように尖塔を囲む。
草地には人物が小さく立つ。建物の大きさが、それでよく分かる。
しかし目を引くのは、尖塔の背後に広がる空である。
白い雲がもくもくと湧き、その間から青がのぞく。
空が、主役級の面積と輝きを持っている。
石の建築と、動く雲。永続するものと、一瞬のもの。
その取り合わせが、この絵の緊張をつくっている。
大聖堂の連作はこのあとも続き、空はしだいに劇的になっていく。
所蔵館の来歴記録によれば、この絵は画家の生前には売れなかった。
死の翌年の1838年、遺品の売り立てに出たと記録されている。
丹念に描かれた大聖堂よりも、その上の雲。画家の関心は、すでにそちらへ傾いていた。
ハムステッドの丘で
そして1821年ごろ。コンスタブルはロンドン郊外のハムステッドに居を構えていた。
家族の療養のために移り住んだ高台の町だと伝えられる。
眺めのよい丘は、空の観察には格好の場所だった。
丘の上で、彼は空だけを油彩で写生し始める。

縦20.3センチ、横27.3センチ。紙に描かれた小さな油彩である。
戸外に持ち出せる大きさだ。実際、屋外で描かれたと考えられる。
イーゼルを立て、空を見上げ、乾く前に描き切る。速さが命の仕事である。
画面にあるのは、ほぼ空だけだ。地面は下端にわずかな影として残るのみ。
嵐の気配をはらんだ日没。赤く焼けた光と、重く沈む雲がせめぎ合う。
筆の速さが、そのまま雲の速さに見える。悠長に描いている暇はない。
日没の空は、数分で別の空になってしまうからだ。
小さな紙の上に、消えていく一瞬の天気が留められている。
売るあてのない絵に、これほどの集中を注いだ画家は多くない。
1821年から22年にかけて、彼はこうした空の写生を何十枚も描いたと伝えられる。
裏面に日付や天候を書き込んだ例もあると伝えられる。写生というより、観測に近い。
おりしも気象学が興り始めた時代である。雲に名前を与える分類も、同じころに生まれたと伝えられる。
空を、気分ではなく対象として観察する。そういう時代の空気があった。
画家の雲の写生は、その空気と同時代のものだった。
ここで、冒頭の問いに答えたい。
彼にとって空は、背景ではなかった。
空こそ絵の「感情の主要な器官」だ。画家がそう語ったと伝えられる。
風景画の感情は、空が受け持つ。だから空を、器官として鍛える。
明暗の基調も、時刻も、湿り気も、すべて空が決める。
空を誤れば、地上をどれだけ描き込んでも絵は嘘になる。
だから彼は、売れない空だけの絵を描き続けた。
雲の観察の蓄積が、六フィートの大作の光を支えたのである。
《白い馬》の雲も、大聖堂の上の白雲も、この観測に裏打ちされていた。
海辺では、空が主役になる

1822年の作。ヤーマスは英国東海岸の港町である。
縦31.7センチ、横50.8センチ。手元に置ける小ぶりな一枚だ。
地平線が低い。画面の下から4分の1ほどの高さしかない。
残りの大半を、空が占める。
桟橋と人影と舟は、下辺の細い帯に収まっている。
内陸の川辺と違って、海辺には空を遮るものがない。
雲は海風に流され、ほつれ、光をこぼす。
浜の人影は小さい。大きな天気の下で、人の営みが続いている。
画面左下には「John Constable pinxt. 1822.」と署名がある。所蔵館の記録が明記している。
署名と年記のある、完成品として世に出た絵である。習作ではない。
つまりこの空の比率は、実験ではなく画家の判断だ。
雲の写生と同じ年の作である。習作で鍛えた目が、そのまま一枚の絵になった。
低い地平と大きな空。この画面の型は、のちの世代に受け継がれていく。
半世紀後のフランスで、同じ型の海辺の空を描き続けた画家がいる。
その系譜はブーダンの空で書いた。あわせて読んでほしい。
最晩年の、荒れた白

1836年。亡くなる前年の大作である。
縦126センチ、横169センチ。再びの大画面だ。
ストーク・バイ・ネイランドは、故郷ストゥア川流域の村である。
60歳の画家は、最後まで生まれた土地の風景に戻っていった。
村の教会の塔が、茂る木々の上に立つ。
手前には鋤が置かれ、荷車が進む。空には虹の気配がかかる。
雨あがりの光だろう。濡れた空気が、画面全体を覆っている。
驚くのは、その筆づかいである。
絵の具は厚く盛られ、こすりつけたような白が画面のあちこちで荒れている。
《ウィヴェンホー・パーク》の綿密さとは、別人のようだ。
20年のあいだに、習作の自由が本画へなだれ込んだ。
白は、光である。濡れた葉のきらめき、雲の縁、水たまりの反射。
その光を、形の輪郭を壊してでも画面にねじ込む。
この荒々しさは、当時の英国では理解されにくかったと伝えられる。
仕上げが足りないと見る向きもあっただろう。評価が本当に高まるのは、死後のことである。
未完成に見えたものが、後の時代には先駆に見えた。絵の歴史では、よくあることだ。
若い日の《ウィヴェンホー・パーク》と、この絵を並べてみてほしい。
20年を隔てて、同じ画家が同じ地方の空を描いている。
変わったのは筆であって、目ではない。天気を見る目は、最初から最後まで同じである。
見立て——これは「天気の絵」である
七点を並べて、見立てを述べたい。
コンスタブルの絵は、風景画というより「天気の絵」である。
名所の絵なら、場所が主役だ。だが彼の描く場所は、名所ではない。
牧場、川辺、浜。どこにでもある土地である。
その土地を一回きりのものにしているのが、空模様なのだ。
描かれているのは場所であると同時に、その日その時の天気である。
しかも、ただの晴れでも雨でもない。変わりつつある天気である。
雲の影が牧場を走る。嵐の前の日没が燃える。海風が雲をちぎる。晩年の空には虹が兆す。
どの画面にも、次の瞬間の気配がある。
それを可能にしたのが、ハムステッドの丘での雲の写生だった。
空を、覚えてしまうまで見る。その蓄積が、絵に時間と湿度を与えた。
想像で描いた空は、形になっても動かない。
観察して覚えた空は、画面の中でも流れ続ける。
止まった風景ではなく、動いている天気。そこにこの画家の新しさがあった。
空だけの習作は、その新しさを支える基礎工事だったのである。
海峡の向こうの聴衆
母国で売れなかったこの画家に、意外な聴衆がいた。
フランスの画家たちである。
1824年、パリのサロンに代表作《干し草車》が出品される。
この絵は金賞を受け、フランスの画壇に強い印象を残したと伝えられる。
ドラクロワが感嘆したと伝えられる。のちのバルビゾンの世代も、この空に学んだと考えられる。
型どおりの茶色い風景画ではない。緑は緑のまま、光は光のまま置かれている。
フランスの若い画家たちには、それが新鮮に映ったのだろう。
目の前の空をそのまま信じる態度。それが海峡を越えて、種をまいた。
印象派へと続く戸外の絵の水脈をたどると、その源流のひとつはこの人に行き着く。
故郷から動かなかった画家の絵が、外国の絵画を動かした。皮肉ではなく、必然だろう。
どこにでもある空を描いたからこそ、絵はどこへでも届いたのである。
空を先に見る
最後に、見方の提案をしたい。
コンスタブルの絵の前では、空を先に見るとよい。
画家自身が、空から絵を組み立てた。見る側も、そこから入るのが早道である。
地上の物語より先に、雲の形と、光の向きを確かめる。
積み上がる雲か、流される雲か。光は高いか、傾いているか。
すると、その日の天気が分かる。風の強さや、時刻の見当もついてくる。
晴れていく途中なのか、崩れていく途中なのかも、雲が教えてくれる。
そのあとで地上に目を下ろす。牧場の影も、川面の光も、すべて空とつながって見えるはずだ。
《雲の習作》のような絵は、この見方の練習台としても最適である。
地面がないから、迷いようがない。雲と光だけを、正面から見ることになる。
彼は故郷の小さな流域から、ほとんど動かなかった。
それでも絵が古びないのは、頭上の空をだれよりも新しく見たからである。
絵を見終えて外に出る。ふと空を見上げる。
窓の外の雲が気になったら、それはもう、この画家の目が乗り移り始めた証拠だろう。


