空だけを、描く練習——ウジェーヌ・ブーダン
ブーダンは、画面の三分の二を空にした。額縁屋の店番から始まり、十八歳のモネに外へ出ろと言った画家である。空を記録する練習が、なぜ商売として成立したのか。板に描かれた小品や、働く海の絵を並べながらたどる。

画面の三分の二が、空である
一枚の小さな板絵から始めたい。

まず、面積の配分を見てほしい。
画面の上から三分の二ほどが、空である。
その下に、海の細い帯。さらに下が、砂浜。
人物は、画面の下端近くに横一列に並んでいる。全体の五分の一ほどの高さしか占めていない。
空を、よく見る
その空を、細かく見ていきたい。
上端は明るい青。下へ向かうにつれて、青は薄くなる。
水平線の近くでは、ほとんど白に近い灰色になっている。
雲は二種類ある。上のほうに、灰色がかった平たい雲。中ほどに、白く盛り上がった雲。
雲の縁はぼかされていない。絵具を置いた筆の跡が、そのまま形になっている。
そして重要なのは、空が均一でないことだ。
同じ青が塗られている場所は、どこにもない。上と下、右と左で、明るさも色みも変えてある。
海の帯も見ておきたい。
水平線は、画面の下から三分の一ほどの高さにある。ほぼ直線で、わずかに右上がり。
海の色は、遠くが灰青、手前へ来るほど緑がかる。波打ち際には白が置かれる。
そして海の面積は、驚くほど狭い。画面の高さの八分の一ほどしかない。
「海辺の絵」でありながら、海はほとんど描かれていない。
主役は空であり、次が砂浜であり、海はそのあいだの細い帯にすぎない。
この配分は意図的だろう。実際、彼の浜辺の絵はほとんどこの比率で作られている。
人物は、記号に近い
一方、人物の描き方は驚くほど簡略である。
女性たちのスカートは、白、水色、桃色の塊。顔は絵具の一点。
男性は、黒い上着とシルクハットの縦長の形。
椅子が数脚、砂の上に置かれている。藁の座面が黄色く光る。
犬が二匹。右端に旗竿が二本立ち、三色旗が風になびいている。
海には帆船が四、五隻。そして中央に、煙を吐く汽船が一隻。
板に描かれている
材料も見ておきたい。所蔵館の記録は「板に油彩」と記している。
画布ではない。木の板である。
板は硬く、絵具が沈み込まない。だから筆の跡がはっきり残る。
そして、この大きさなら持ち運べる。画架を立てずに、膝の上でも描ける。
屋外で描くための選択である。コローが紙を使い、ピサロが厚紙を使ったのと、同じ考え方だ。
支持体の選択には、その画家がどこで描いていたかが表れる。
帆船と、汽船が同居している
もうひとつ、時代を示すものが画面に入っている。
海に浮かぶ船のうち、四、五隻は帆船である。風で動く、古い技術だ。
しかし中央の一隻は、黒い煙を上げている。蒸気船である。
この絵が描かれた1863年は、まさに帆から蒸気への移行期にあたる。
そして、その汽船と鉄道が、パリの人々をこの浜辺へ運んできた。
つまり画面には、行楽客と、彼らを運んだ技術が同時に写っている。
ブーダンがそこまで意図したかは分からない。ただ、見たままを描けばそうなる時代だった。
この記事の問い
ブーダンは、画面の大半を空に使った画家である。
なぜそこまで空にこだわったのか。
そして、彼の絵が果たした役割は何だったのか。
もうひとつ、彼の浜辺の絵には社会的な意味もある。
十九世紀の半ばに生まれたばかりの「海へ避暑に行く」という習慣。その最初期の記録として読める。
技法・教育・社会。三つの面から見ていきたい。
作者はウジェーヌ・ブーダン。1824年、ノルマンディーの港町オンフルールに生まれた。
父は船の水先案内人で、彼自身も少年期を船の上で過ごしている。
海と空を、生活として知っていた人である。
そしてもうひとつ。彼は、後に印象派と呼ばれることになる画家たちの、いわば先生役にあたる。
とくにモネとの関係は決定的だった。この点も、あとで詳しく見ていきたい。
額縁屋の店番から
経歴を追いたい。
十代の終わり、彼はル・アーヴルで文具と額縁を扱う店に勤めた。のちに共同で自分の店を持っている。
この店には、近郊へ制作に来た画家たちが立ち寄った。作品を店に置かせてもらうこともあった。
つまり彼は、画家として出発する前に、画家の仕事を売る側にいた。
そこで知り合った画家たちに勧められ、二十代の半ばから本格的に絵を学びはじめる。
美術学校の正規の課程は通っていない。この点は、この時代の何人かの画家と共通する。
二十代の半ばに、市から奨学金を得てパリで学ぶ機会も得ている。ただし数年で戻った。
彼の制作の場は、生涯ノルマンディーの海岸だった。パリの画壇の中心にはいない。
中心にいないことが、かえって主題の一貫性を保たせた面はあるだろう。
流行を追う必要が薄ければ、同じものを描き続けられる。
十八歳のモネに、外へ出ろと言った
彼の名前が美術史に確実に残っている理由のひとつは、教えた相手にある。
1858年ごろ、ル・アーヴルの店に、地元で評判の若い似顔絵描きの作品が置かれていた。
十七、八歳の少年である。名をクロード・モネといった。
ブーダンは彼に、外へ出て自然を描くよう勧めた。少年は最初、まったく気が進まなかったと伝えられる。
しかし一度ついて行って、考えが変わった。
モネは後年、自分が画家になれたのはブーダンのおかげだ、という趣旨のことを繰り返し語っている。
この証言は複数の形で残っており、内容もおおむね一致している。
何を教えたのか、という点も具体的に伝わっている。
要点は単純である。外へ出て、目の前のものを描け。
当時、風景画はアトリエで組み立てるものだった。屋外の習作はあくまで素材の採取である。
その関係を逆にする。屋外で描いたものを、そのまま作品として扱う。
この転換が、次の十年で印象派を生むことになる。コローが習作と大作を並行して持っていた話は別のコラムで扱っている。
ブーダンは、その二本立てのうち片方だけを選んだ人だと言ってもよい。