画家を知る

銀灰色は、どこから来たのか——カミーユ・コローの風景

コローの絵は、霞んだ銀灰色で知られる。しかしイタリアで描いた習作には、はっきりした影がある。サロンに出す絵と手元に置いた絵の違い、世界一多いといわれる贋作、そして「思い出」という題名。何が変わったのかを七点の作品からたどる。

ローマ、サン・バルトロメオ島と橋
カミーユ・コロー《ローマ、サン・バルトロメオ島と橋》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

一枚の絵に、はっきりした影がある

まず、若いころの一枚から始めたい。

ローマ、サン・バルトロメオ島と橋
カミーユ・コロー《ローマ、サン・バルトロメオ島と橋》1825〜28年。紙に油彩、画布に裏打ち。縦27センチ、横43.2センチ。カミーユ・コロー《ローマ、サン・バルトロメオ島と橋》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

ローマ、テヴェレ川の中州である。

中央に建物が集まり、四角い鐘楼が突き出ている。左右から石橋が中州へ渡り、水面にアーチの影を落とす。

空は明るい青。上部に白い雲がひとかたまり。

建物の壁は、桃色がかった黄土と、白と、灰。それぞれの面が、はっきりと塗り分けられている。

日の当たる面は明るく、影の面は暗い。そのあいだに、中間の調子がほとんど無い。

水は静かで、灰緑色。建物と橋の影が、そのまま映り込んでいる。

大きさは、A3より少し小さいほどである。

影が、形を作っている

この画面でいちばん働いているのは、影である。

建物の壁面を見てほしい。日の当たる面と、影の面が、鋭い線で分かれている。

境界にぼかしが無い。明るい黄土から、いきなり暗い灰褐色へ切り替わる。

その切り替わりの位置が、建物の角を示している。

つまり輪郭線を引かずに、明暗の切り替えだけで立体を作っている。

これは南の強い日射しの下でしか成立しない見え方である。曇りの日には、面と面の差がこれほど出ない。

コローがイタリアで手に入れたのは、この「面で捉える目」だったと考えたい。

水面の扱い

水も見ておきたい。

川面は、灰と緑を混ぜた一色でほぼ均一に塗られている。波は描かれていない。

そこに、橋のアーチと建物の影が、縦の帯として落ちている。

反射は正確ではない。実際の水面なら、もっと歪み、もっと途切れるはずだ。

ここでは、影を単純な帯として置いている。整理されている。

写生でありながら、既に整理が入っている。この点は押さえておきたい。

一気に描かれている

この絵の作られ方も見ておきたい。

支持体は紙である。画布ではない。

紙に油彩で描き、あとから画布に貼って保存する。当時の画家が屋外で描くときの、標準的な方法だった。

紙は軽く、板に留めれば持ち運べる。失敗しても惜しくない。

そして、この画面は速い。

輪郭線を引いてから塗る、という手順ではない。明るい面と暗い面を、いきなり絵具の塊として置いている。

建物の窓は、暗い絵具を一筆置いただけだ。形を整えていない。

雲は、白を厚く載せ、指か布で押し広げたように見える。

数時間で描き上げたのだろう。日が動けば影の位置が変わってしまうからだ。

この記事の問い

この画家は、五十年近く描き続けた。

そして晩年の作品は、この一枚とまるで違う。輪郭は溶け、影は消え、画面全体が銀色がかった灰色になる。

なぜ変わったのか。

そしてその変化は、進歩だったのか、それとも別の何かだったのか。

もうひとつ、この画家には二重性がある。

屋外で描く速い習作と、アトリエで組み立てる大作。まったく性格の違う二種類の絵を、生涯にわたって並行して作り続けた。

どちらが「本当のコロー」なのか。

そして、いま私たちが高く評価しているのはどちらなのか。

この問いも、あわせて追いかけたい。

作者はジャン=バティスト・カミーユ・コロー。1796年にパリで生まれ、1875年に没した。

家は服飾の商いで成功しており、生涯にわたって実家からの援助を受けている。売れなくても描き続けられた画家である。

この条件は軽く見ないほうがよい。

当時の画家が生きるには、注文を取るか、サロンで評価されて売るしかない。どちらも「求められるものを描く」ことを意味する。

コローには、その必要が薄かった。だから二十代の数年を、売れるあてのないイタリアの習作に使えた。

生活の条件が、制作の自由度を決める。この関係は、他の画家を見るときにも効いてくる。

たとえば十九世紀アメリカの画家バニスターは、妻の営む事業に支えられて描き続けた。別のコラムで扱っている。

誰の金で描いているか。作品を見るとき、この問いは意外に効く。

イタリアで、何をしていたか

コローは1825年から28年まで、イタリアに滞在した。二十代の終わりである。

その後も1834年と1843年に再訪している。合わせて数年をイタリアで過ごしたことになる。

当時、イタリアへ行くことは画家の修業の定番だった。古代の遺跡と、ルネサンスの絵画と、南の光。この三つを見るために行く。

ただしコローが持ち帰ったのは、遺跡でも名画でもなかった。光の見え方である。

同時期にローマには各国から若い画家が集まり、屋外で油彩の習作を採っていた。彼だけが特別だったわけではない。

その集団的な実践の中から、後年ずば抜けた質を持つことになる一群が生まれた。

サロンに出す絵は、まったく違った

まず、はっきりさせておきたいことがある。

いま見たローマの一枚は、売り物でも出品作でもない。

コローにとって、こうした屋外の油彩は習作だった。人に見せるものではなく、自分のために採るものである。

では、公に出す絵はどうだったか。

フォンテーヌブローの森
《フォンテーヌブローの森》1834年。油彩・画布。縦175.6センチ、横242.6センチ。サロン出品作である。カミーユ・コロー《フォンテーヌブローの森》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

同じ画家の、同じ時期の作品である。

大きさが違う。縦1.7メートル、横2.4メートル。壁のような画面だ。

内容も違う。大きな樫が画面を覆い、根元に暗い水たまりがある。左下に赤い衣の女が横たわり、本を読んでいる。

中景には明るい空き地があり、その向こうに霞んだ遠景が見える。

暗い前景、明るい中景、霞んだ遠景。この三層構造は、十七世紀の風景画が確立した型である。その型については別のコラムで扱っている。

つまりコローは、屋外では速い習作を描き、アトリエでは伝統的な大作を組み立てていた。

二つの実践が、並行して走っている。

習作と出品作の関係

この二重生活は、当時としては珍しくない。

屋外の習作は、素材の採取である。光の見え方、木の形、雲の動き。それを覚えておくために描く。

アトリエでは、その蓄積を使って構図を組み立てる。実在の場所を再現するのではなく、要素を配置し直す。

つまり習作は下ごしらえで、出品作が料理だった。

十九世紀の後半になると、この関係が逆転する。屋外で描いたものが、そのまま完成作として認められるようになる。

その転換の中心にいたのが印象派の画家たちである。モネの連作については別のコラムで扱っている。

コローはその一世代前にいて、両方を持っていた。

そして、両方を持っていたことが、後の世代に効いた。

若い画家たちが彼のアトリエを訪れ、屋外の習作を見せてもらっている。ピサロは自分をコローの弟子だと名乗った時期がある。

サロンで認められた大家が、屋外の速い絵も描いている——という事実そのものが、次の世代の許可証になった。

ピサロがそこから何を引き継いだかは、別のコラムで扱っている。

サロンという場所

出品作の話が出たので、サロンについても触れておきたい。

サロンは、フランスの官設展覧会である。数年に一度、あるいは毎年開かれ、数千点が並んだ。

画家にとっては、ここに入選し、批評で言及されることが唯一の出世の道だった。

審査があり、落選もある。壁の高い位置に掛けられれば、事実上見てもらえない。

そういう場所に出す絵は、当然ながら遠くから目立つ必要がある。大きく、暗く、はっきりした構図が有利になる。

《フォンテーヌブローの森》が2.4メートルあるのは、そのためだ。

一方、イタリアの習作は27センチである。九分の一の幅しかない。

同じ画家が、九倍違う寸法の絵を並行して作っていた。用途が違うからだ。

若いころの絵が、後から評価された

面白いのは、後世の評価である。

コローの生前、彼を有名にしたのはサロンの大作と、晩年の詩的な風景だった。

ところが二十世紀に入ると、評価の中心がイタリアの小さな習作へ移る。

理由は分かりやすい。習作のほうが、二十世紀の目に「新しく」見えたからだ。

面を塊として置く描き方、輪郭を作らない態度、速さ。これらはセザンヌ以降の絵画に通じる。

セザンヌが面をどう積んだかは別のコラムで扱っている。

もっとも、コロー本人はこれを完成作と考えていない。私たちが評価しているのは、彼が「まだ絵ではない」と思っていたもののほうである。

このずれは、覚えておいたほうがよい。

同じことは、素描の評価にも起きている。捨てられるはずの紙が、いま美術館の収蔵品になっている。別のコラムで扱った話である。

作り手が「完成」と考えたものと、後世が価値を認めるものは、しばしば一致しない。

この不一致自体が、美術史の面白さのひとつだと思う。

マコンのソーヌ川の橋
《マコンのソーヌ川の橋》1834年。紙に油彩、画布に裏打ち。縦25センチ、横33.6センチ。橋の石積みと水面の反射が、少ない筆数で置かれている。カミーユ・コロー《マコンのソーヌ川の橋》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

フランス国内でも、同じ方法で習作を採り続けた。

橋のアーチ、対岸の建物、水面。要素は少なく、筆数はさらに少ない。

こうした小品が、彼の生涯を通じて大量に残っている。

数の多さには、理由がある。

売らないからだ。

出品作は売れて手を離れるが、習作は手元に残る。しかも小さいので場所を取らない。

死後、アトリエに残された作品が一括して売り立てられた。その中に大量の習作が含まれていた。

いま各国の美術館にコローの小品が散らばっているのは、この売り立てが出発点になっている。

画家の死後に何が残るかは、生前どこまで売れたかで決まる。売れなかったものほど、まとまって残る。

皮肉な話だが、後世の評価にとってはむしろ幸運だった。

銀灰色は、いつ始まったのか

晩年の様式に移りたい。

繋がれた舟——イタリアの湖の思い出
《繋がれた舟——イタリアの湖の思い出》1861年。油彩・画布。縦61センチ、横90センチ。手前に舟と赤い帽子の人物、左奥に湖と山。カミーユ・コロー《繋がれた舟——イタリアの湖の思い出》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

同じ画家である。三十五年後の作品だ。

まず、輪郭が無い。

木の葉は、細かい点と刷毛の跡でできている。一枚ずつの葉ではなく、葉の集合が霧のような塊として置かれている。

幹は細く、上へ向かって溶ける。枝先はほとんど空気と区別がつかない。

色は、灰、緑がかった銀、淡い黄土。強い色はどこにもない。

例外がひとつ。舟に坐る人物の帽子だけが、赤い。

画面全体が抑えられているぶん、この小さな赤が異様に効く。

「思い出」という題名

題名にも注目したい。「イタリアの湖の思い出」である。

思い出——スーヴニールという語を、コローは晩年の作品名に繰り返し使っている。

特定の場所の記録ではない、という宣言である。

実際、これらの画面に描かれた風景は、どこか特定の土地には対応しない。イタリアで見たものの記憶が、フランスのアトリエで再構成されている。

若いころの習作が「その日の、その場所の光」だったのに対し、晩年の作品は「どこでもない場所の、時刻の無い光」になっている。

正反対と言ってよい。

何が起きたのか

変化の理由を、いくつか並べてみたい。

ひとつは、単純に売れたことである。この銀灰色の風景は、当時のフランスで非常に人気があった。

需要があれば、同じ型を繰り返す。画家も商売である。

ふたつめは、視力や手の変化。七十歳前後の画家に、細部を追う仕事は負担が大きい。

三つめは、方法としての選択。輪郭を消すことで、画面全体が一つの調子にまとまる。

どれか一つではなく、全部が絡んでいると考えたい。

湖畔の木立の下の踊り
《湖畔の木立の下の踊り》1865〜70年ごろ。木立の下で人物が輪になって踊る。同じ型の変奏である。カミーユ・コロー《湖畔の木立の下の踊り》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

同じ構図の変奏が、大量に作られた。

この一枚では、木立の下で人物が輪になって踊っている。

踊る人物は小さく、顔も描かれていない。楽しげな場面のはずだが、画面は静かである。

音が聞こえてこない絵だ。動きも、ほとんど止まっている。

「思い出」という題名が示すとおり、これは出来事の記録ではなく、気分の絵だからだろう。

同じ構図の変奏が、大量に作られた。

木立を左右どちらかに寄せ、水面を置き、小さな人物を数人配する。この型で何百枚も描いている。

ここが、後世の厄介の種になる。

その前に、なぜ定型化したのかを補っておきたい。

型を作ると、制作は速くなる。構図を考える時間が要らないからだ。

そして買い手にとっても、型があるほうが選びやすい。「コローらしい絵」が欲しい人は、コローらしい絵を買う。

作り手と買い手の両方に都合がよい。だから型は強化される。

これは版画の世界で「売れる意匠は形を変えて何度も出す」という話と、構造としては同じである。

世界一、贋作の多い画家

コローの晩年の作品は、模倣しやすい。

輪郭が無く、細部が無く、構図が定型化している。技術のある贋作者なら、それらしいものを作れてしまう。

しかも本人が大量に描いているので、未知の作品が出てきても不思議に思われない。

さらにコローは人が良く、弟子や困窮した画家の絵に自分の署名を入れてやったという話まで伝わっている。

その結果、「コローは三千点描いたが、そのうち一万点がアメリカで売られた」という警句が生まれた。誰が最初に言ったかは定かでないが、事情をよく表している。

作者欄が動く話は、フェルメールのコラムでも扱っている。あちらは真作が減っていく話だった。コローの場合は、増えすぎた偽物を減らす作業になる。

隠されていた人物画

もうひとつ、生前ほとんど公開されなかった仕事がある。人物画である。

アゴスティーナ
《アゴスティーナ》1866年。縦132.4センチ。イタリアの民族衣装をまとった女性が、灰色の空を背に立つ。カミーユ・コロー《アゴスティーナ》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

風景で知られた画家が、こういう絵も描いていた。

青い袖、赤い縁取りの胴着、花を刺繍した前掛け。首には真珠と珊瑚の飾り。

背景は灰色の空と、左奥のイタリアの町。ただし、この背景は写生ではないだろう。人物と光の当たり方が合っていない。

顔の描き方に注目したい。目のまわりに影が置かれ、視線はこちらを外している。

穏やかだが、愛想は無い。よそ行きの表情ではない。

アトリエで本を読む女
《アトリエで本を読む女》1868年ごろ。厚紙に油彩。画架の脇に坐り、本を開いている。カミーユ・コロー《アトリエで本を読む女》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

アトリエの中を描いた小品もある。

女性が椅子に坐り、本を開く。傍らに画架が立ち、そこには風景画が掛かっている。

絵の中に絵がある構図だ。この画家の生活が、そのまま画面になっている。

これらの人物画は、生前ほとんど展示されなかった。死後、遺作として世に出て、二十世紀に入ってから高く評価されるようになる。

見立て——変わったのは、絵の目的だった

ここからは書き手の見方である。

若いころの明晰さと晩年の曖昧さを、「衰え」と読むこともできる。逆に「到達」と読むこともできる。

私はどちらも取らない。目的が変わったと読みたい。

イタリアの習作が果たしていたのは、記録の役割である。いま、ここで、光がどう見えているか。

晩年の作品が果たしているのは、別の役割だ。見る人を、どこでもない場所へ連れていく。

前者には正確さが要る。後者には要らない。

同じ画家が、五十年かけて別の仕事に移った。技術の変化というより、注文の変化である。

そして、その注文を出したのは市場だった。買い手が求めたのは、記録ではなく気分のほうだったのだろう。

これを堕落と呼ぶのは簡単だが、私はためらう。晩年の銀灰色にも、確かな判断がある。

たとえば、あの赤い帽子。全体を抑えて一点だけ強くする、という決定は、若いころの明晰な習作と同じ種類の判断である。

方法は変わっても、判断の質は落ちていない。そう見ておきたい。

もうひとつ、擁護しすぎないための留保も置いておく。

晩年の定型的な風景の中には、明らかに手を抜いたものも混じっている。同じ構図を何百枚も作れば、当然そうなる。

すべてを「到達」として読むのは公平でない。良い一枚と、量産の一枚がある。

見分ける手がかりは、やはり色の配置だと思う。抑えた画面に置かれた一点が効いているかどうか。

効いていない一枚は、ただ灰色なだけである。

暮らしへ——一点だけ、強い色を置く

最後に、部屋づくりに応用できる話をひとつ。

コローの晩年の画面は、九割が抑えた灰と緑で、残りの一割に小さな赤が置かれている。

この比率は、そのまま部屋に使える。

壁も家具も布も抑えた色で揃え、一点だけ強い色を置く。花でも、クッションでも、本の背でもよい。

置く場所は、部屋の中心から少し外す。真ん中に置くと、目が止まって動かなくなる。

コローの赤い帽子も、画面の中心にはない。やや右下である。

抑えた背景と、外した一点。それだけで、部屋は締まる。

絵を飾るときも同じだ。周囲が静かなほど、絵の色は効く。飾る場所と光についてはこちらのコラムで扱っている。

そしてコローの風景は、実は明るい部屋に向く。銀灰色は、光が足りないとただの灰色に沈んでしまうからである。

逆に、若いころのイタリアの習作は、光の強い場所でも負けない。明暗の差が大きいからだ。

同じ画家の絵でも、置くべき場所が違う。

飾る前に、その絵がどれくらいの光を必要とするかを考える。手間のかかる話だが、効果は大きい。

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