銀灰色は、どこから来たのか——カミーユ・コローの風景
コローの絵は、霞んだ銀灰色で知られる。しかしイタリアで描いた習作には、はっきりした影がある。サロンに出す絵と手元に置いた絵の違い、世界一多いといわれる贋作、そして「思い出」という題名。何が変わったのかを七点の作品からたどる。

一枚の絵に、はっきりした影がある
まず、若いころの一枚から始めたい。

ローマ、テヴェレ川の中州である。
中央に建物が集まり、四角い鐘楼が突き出ている。左右から石橋が中州へ渡り、水面にアーチの影を落とす。
空は明るい青。上部に白い雲がひとかたまり。
建物の壁は、桃色がかった黄土と、白と、灰。それぞれの面が、はっきりと塗り分けられている。
日の当たる面は明るく、影の面は暗い。そのあいだに、中間の調子がほとんど無い。
水は静かで、灰緑色。建物と橋の影が、そのまま映り込んでいる。
大きさは、A3より少し小さいほどである。
影が、形を作っている
この画面でいちばん働いているのは、影である。
建物の壁面を見てほしい。日の当たる面と、影の面が、鋭い線で分かれている。
境界にぼかしが無い。明るい黄土から、いきなり暗い灰褐色へ切り替わる。
その切り替わりの位置が、建物の角を示している。
つまり輪郭線を引かずに、明暗の切り替えだけで立体を作っている。
これは南の強い日射しの下でしか成立しない見え方である。曇りの日には、面と面の差がこれほど出ない。
コローがイタリアで手に入れたのは、この「面で捉える目」だったと考えたい。
水面の扱い
水も見ておきたい。
川面は、灰と緑を混ぜた一色でほぼ均一に塗られている。波は描かれていない。
そこに、橋のアーチと建物の影が、縦の帯として落ちている。
反射は正確ではない。実際の水面なら、もっと歪み、もっと途切れるはずだ。
ここでは、影を単純な帯として置いている。整理されている。
写生でありながら、既に整理が入っている。この点は押さえておきたい。
一気に描かれている
この絵の作られ方も見ておきたい。
支持体は紙である。画布ではない。
紙に油彩で描き、あとから画布に貼って保存する。当時の画家が屋外で描くときの、標準的な方法だった。
紙は軽く、板に留めれば持ち運べる。失敗しても惜しくない。
そして、この画面は速い。
輪郭線を引いてから塗る、という手順ではない。明るい面と暗い面を、いきなり絵具の塊として置いている。
建物の窓は、暗い絵具を一筆置いただけだ。形を整えていない。
雲は、白を厚く載せ、指か布で押し広げたように見える。
数時間で描き上げたのだろう。日が動けば影の位置が変わってしまうからだ。
この記事の問い
この画家は、五十年近く描き続けた。
そして晩年の作品は、この一枚とまるで違う。輪郭は溶け、影は消え、画面全体が銀色がかった灰色になる。
なぜ変わったのか。
そしてその変化は、進歩だったのか、それとも別の何かだったのか。
もうひとつ、この画家には二重性がある。
屋外で描く速い習作と、アトリエで組み立てる大作。まったく性格の違う二種類の絵を、生涯にわたって並行して作り続けた。
どちらが「本当のコロー」なのか。
そして、いま私たちが高く評価しているのはどちらなのか。
この問いも、あわせて追いかけたい。
作者はジャン=バティスト・カミーユ・コロー。1796年にパリで生まれ、1875年に没した。
家は服飾の商いで成功しており、生涯にわたって実家からの援助を受けている。売れなくても描き続けられた画家である。
この条件は軽く見ないほうがよい。
当時の画家が生きるには、注文を取るか、サロンで評価されて売るしかない。どちらも「求められるものを描く」ことを意味する。
コローには、その必要が薄かった。だから二十代の数年を、売れるあてのないイタリアの習作に使えた。
生活の条件が、制作の自由度を決める。この関係は、他の画家を見るときにも効いてくる。
たとえば十九世紀アメリカの画家バニスターは、妻の営む事業に支えられて描き続けた。別のコラムで扱っている。
誰の金で描いているか。作品を見るとき、この問いは意外に効く。
イタリアで、何をしていたか
コローは1825年から28年まで、イタリアに滞在した。二十代の終わりである。
その後も1834年と1843年に再訪している。合わせて数年をイタリアで過ごしたことになる。
当時、イタリアへ行くことは画家の修業の定番だった。古代の遺跡と、ルネサンスの絵画と、南の光。この三つを見るために行く。
ただしコローが持ち帰ったのは、遺跡でも名画でもなかった。光の見え方である。
同時期にローマには各国から若い画家が集まり、屋外で油彩の習作を採っていた。彼だけが特別だったわけではない。
その集団的な実践の中から、後年ずば抜けた質を持つことになる一群が生まれた。
サロンに出す絵は、まったく違った
まず、はっきりさせておきたいことがある。
いま見たローマの一枚は、売り物でも出品作でもない。
コローにとって、こうした屋外の油彩は習作だった。人に見せるものではなく、自分のために採るものである。
では、公に出す絵はどうだったか。

同じ画家の、同じ時期の作品である。
大きさが違う。縦1.7メートル、横2.4メートル。壁のような画面だ。
内容も違う。大きな樫が画面を覆い、根元に暗い水たまりがある。左下に赤い衣の女が横たわり、本を読んでいる。
中景には明るい空き地があり、その向こうに霞んだ遠景が見える。
暗い前景、明るい中景、霞んだ遠景。この三層構造は、十七世紀の風景画が確立した型である。その型については別のコラムで扱っている。
つまりコローは、屋外では速い習作を描き、アトリエでは伝統的な大作を組み立てていた。
二つの実践が、並行して走っている。