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印象派の前に立っていた三人——ミレー《七面鳥の群れのいる秋の風景》、コロー、クールベ

ミレー、コロー、クールベ。印象派より一世代前の三人は、屋外で描き、身近な土地を選び、働く人を主題にした。その三つが揃ってはじめて、川辺の休日を描く絵が成立する。名古屋に並ぶ「印象派の前」を、九点の作品から見ておきたい。

七面鳥の群れのいる秋の風景
ジャン=フランソワ・ミレー《七面鳥の群れのいる秋の風景》メトロポリタン美術館蔵

夕暮れの畑に、七面鳥がいる

一枚の絵から始めたい。

七面鳥の群れのいる秋の風景
ジャン=フランソワ・ミレー《七面鳥の群れのいる秋の風景》1872年から1873年。油彩・画布。メトロポリタン美術館蔵。ジャン=フランソワ・ミレー《七面鳥の群れのいる秋の風景》メトロポリタン美術館蔵

暗い絵である。空は灰と青に沈み、雲が重く垂れる。

画面の中ほどに、大きな木が二本立つ。葉は落ちかけている。

その手前、地面には七面鳥の群れが散らばる。黒い塊として置かれる。

右手には人影が一つ。長い衣を着て立っている。番をしているのだと考えられる。

遠くには村の建物が低く並ぶ。

色数は少ない。褐色、灰、鈍い緑。それだけである。

制作は1872年から1873年。ミレーの晩年にあたる。

彼が暮らしたバルビゾンは、パリの南東、フォンテーヌブローの森のそばにある。

農村である。畑と森と、そこで働く人がいる。

ミレーはその場所で、農民の姿を描き続けた。

種を蒔く人、落ち穂を拾う人、鐘の音に祈る人。

いずれも、労働の途中の姿である。

この絵に描かれるのも、七面鳥の番という日常の仕事である。

2026年秋、名古屋に「印象派の前」も並ぶ

この記事を書いているのは2026年8月である。

名古屋市美術館で、9月19日から11月29日まで展覧会が開かれる。

「ゴッホの跳ね橋と印象派の画家たち ヴァルラフ=リヒャルツ美術館所蔵」という。

会場の発表によれば、ドイツ・ケルンの美術館から70点、42人の画家の作品が来る。

そしてその画家のなかに、ミレー、コロー、クールベの名が挙がっている。

いずれも印象派より前の世代である。

つまりこの展覧会は、印象派だけを集めたものではない。

その前後を含めて、19世紀の絵の流れをたどる構成だと考えられる。

当サイトは主催者でも共催者でもない。出品作を掲げることもできない。

会期や料金は、名古屋市美術館の公式サイトで確かめてほしい。

そのうえで、この記事では前の世代に光を当てたい。

権利が開かれた作品だけを使い、三人の画家を並べてみる。

ミレー、コロー、クールベ。生年は1814年、1796年、1819年である。

モネの生年は1840年、ゴッホは1853年。

つまり親か祖父の世代にあたる。

印象派の画家たちは、この三人の絵を見て育った。

たとえばピサロは、若いころコローに助言を求めたことが知られている。

モネもクールベと面識があり、影響を受けたと伝えられる。

若い画家にとって、この三人は同時代の先輩だった。

歴史の教科書では章が分かれる。しかし現実には、同じ時期に生きていた。

ミレーが亡くなったのは1875年。第一回印象派展の翌年である。

コローの没年も1875年。クールベは1877年に亡くなっている。

つまり印象派が世に出るころ、三人はまだ活動していた。

新しい絵と古い絵が、同じ画廊や同じ展覧会に並んでいた時期がある。

その重なりを思うと、19世紀の絵の見え方は少し変わる。

三人はどこが違うのか

先に、三人の違いを大まかに示しておきたい。

ミレーは人を描いた。畑で働く人の姿勢と重さを描いた。

コローは空気を描いた。木と水のあいだに満ちる光の質を描いた。

クールベは物を描いた。岩、水、雪、肉。手で触れられるものの手ざわりを描いた。

もちろん、この整理は乱暴である。三人とも風景も人物も描いている。

それでも、絵の前に立ったときの手がかりにはなる。

もうひとつ、共通点も挙げておきたい。

三人とも、神話や聖書の物語を主題の中心に置かなかった。

19世紀前半のフランスで、絵画の格づけは主題によって決まっていた。

歴史画がもっとも上位に置かれ、風景画や静物画は下に置かれた。

その序列に対して、三人は別のやり方を選んだ。

目の前にあるものを、大きな画面で、正面から描く。

この選択は、当時としては挑戦だった。

クールベが批評家と衝突を繰り返したのは、その表れである。

バルビゾンという場所

ミレーが暮らしたバルビゾンについても書いておきたい。

パリから南東へ約60キロ。フォンテーヌブローの森の縁にある村である。

1830年代から、画家たちがこの村に滞在するようになった。

理由は単純である。森が近く、宿代が安く、モデルになる農民がいた。

テオドール・ルソー、シャルル=フランソワ・ドービニー、そしてミレー。

彼らは同じ流派を名乗ったわけではない。

同じ場所に集まり、似た主題を描いた人々である。

のちに「バルビゾン派」と呼ばれるようになった。

この呼び方は、あとから付けられたものである。

印象派の場合と同じで、画家自身が最初に掲げた旗ではない。

呼び名は便利だが、括られた側の違いを見えなくする。

展示室では、まず一人ずつ見たい。括りはあとでよい。

農民画は、どう受け取られたか

ミレーの農民画は、当初から評価が割れていた。

素朴な生活を描いた絵として愛された一方で、政治的な意味を読み取られもした。

土地を持たない人々の労働を、大きな画面で描く。

それを社会への告発と受け取る人がいた。

ミレー自身が、そうした意図を語った記録は多くない。

ここは、受け取られ方の話として書いておきたい。

いずれにせよ、農民を主題にすることは中立ではなかった。

冒頭の《七面鳥の群れのいる秋の風景》を、もう一度見てほしい。

七面鳥は財産である。番をする人物は、その財産を守っている。

牧歌的な情景に見えて、描かれているのは仕事である。