ギュスターヴ・クールベの代表作と特徴——なぜ写実主義と呼ばれるのか
クールベの代表作と特徴を、公開中の作品から読む。なぜ写実主義と呼ばれるのかを、《狩りの後》の寸法と主題の関係で説明する。《オウムと女》《ロール・ボロー夫人の肖像》《海景、竜巻》を、館の記録と画像から順に見ていく。

クールベの代表作
ギュスターヴ・クールベの代表作として日本でまず挙がるのは、《オルナンの埋葬》や《画家のアトリエ》、《石割り人夫》である。この三点は、当サイトの在庫にない。
図版に出せるのは、メトロポリタン美術館・クリーヴランド美術館・シカゴ美術館にある作品である。当サイトの作家記録では、クールベは一八一九年にオルナンで生まれ、一八七七年に没している。
晩年はスイスで過ごした。一八七一年のパリ・コミューンに加わり、ヴァンドーム広場の記念柱が倒された件の責任を問われたためである。一八七三年に国境を越え、そのままフランスへは戻らなかった。一八七七年の大晦日に、レマン湖畔の町ラ・トゥール=ド=ペで没している。

《オウムと女》は横に長い画面である。白い布の上に、裸の女が仰向けに横たわる。
頭は画面の左へ投げ出され、栗色の髪が布の外まで広がる。顔は上下が逆さに見える向きで、目は閉じている。
片腕を高く上げ、その手に緑と黄の鸚鵡が止まる。鳥は翼を開き、尾を斜めに下ろす。
左の端には、ねじれた形の柱が立つ。右の奥には、細い柱に横木を何段も付けた止まり木が見える。背景は暗い幕で、左上の隙間にだけ木々の緑がのぞく。
白い布は厚く皺を立てる。右下の足もとには濃い緑の布が敷かれ、細いリボンが床に落ちている。体は上から光を受け、輪郭の外はすぐ闇になる。
画面の左下の隅には、暗い赤で画家の署名が入る。背景を塗りつぶした暗さの中で、署名だけが明るい。
寝そべる裸婦という主題そのものは、当時の絵に多くあった。違うのは、姿勢が整えられていないことである。頭は投げ出され、髪は乱れ、体は斜めに流れる。
館の解説によれば、この絵は一八六六年のサロンに出品された。「品がない」と批判する評者もいたが、評価は割れ、国が買い上げを一時検討したという。
同じ年、マネも鸚鵡と女を組み合わせた絵を描き始めている。メトロポリタン美術館が所蔵する《一八六六年の若い女》で、当時の批評家はクールベへの応答と見た。裸婦と着衣の女という違いはあるが、鸚鵡という小道具が二人の画家をつないでいる。
クールベの生涯で作風はどう変わったか
大きく分けると三つの時期になる。故郷の人々を大画面に描いた一八五〇年前後が一つ。狩猟と裸婦が増える一八五〇年代後半から六〇年代が二つ目。海と亡命先の風景が中心になる晩年が三つ目である。主題は変わっても、目の前にあるものしか描かない態度は変わらない。
最初の転機はサロンへの入選である。一八四四年、黒い犬を連れた自画像が初めて入選した。この絵はいまパリのプティ・パレにある。
一八四九年のサロンでは、故郷の夕食後の一場面を描いた《オルナンの食後》が二等メダルを得た。国が買い上げ、作品はリールの美術館に送られた。
翌年から一八五一年にかけてのサロンに、《オルナンの埋葬》が出る。ここから、クールベは「写実主義」の画家として激しい批判と注目を同時に浴びることになる。
一八五七年のサロンには、狩猟の場面を初めて出した。自分でも猟をした画家で、獲物と犬と森は、以後の大きな柱になる。裸婦も、《オウムと女》のように、神話の衣を着せない形で描き続けた。
一八六〇年代の後半からは海に本格的に取り組む。山の多い土地で育った画家にとって、海は長く縁のない題材だった。ノルマンディーの浜に通い、同じ海を天気と時刻を変えて描き重ねている。
一八六五年には、ノルマンディーの保養地トルーヴィルで、アメリカ生まれの画家ホイッスラーと並んで描いた。館の解説では、《美しきアイルランド女ジョー》はこの夏に描き始められた。モデルはホイッスラーの恋人でモデルでもあったジョアンナ・ヒファナンである。
館の解説によれば、画家はこの図を少しずつ変えてさらに三点描いた。合わせて四点が知られ、メトロポリタン美術館の一点はその一つにあたる。注文や評判に応じて同じ図を描き直すことも、この時期の制作の一面だった。
《オルナンの埋葬》と《画家のアトリエ》はどこで見られるか
どちらもパリのオルセー美術館にある。《石割り人夫》は第二次世界大戦末の一九四五年、ドレスデンで失われた。いまは写真でしか見られない。
館の記録では、《オルナンの埋葬》は一八四九年から一八五〇年の作。カンヴァスに油彩で、315×668センチある。一八八一年に画家の妹ジュリエットから国に寄贈された。
描かれたのは、故郷オルナンの村の葬列である。館の解説では、およそ五十人の人物が登場し、みな村の住人である。黒い服の村人が横に長く連なり、主役と呼べる一人がいない。
画面の下の中央には掘られた墓穴が口を開け、その縁に頭蓋骨が置かれる。左寄りの奥では、十字架が人の列より高く掲げられる。
《画家のアトリエ》は一八五四年から一八五五年の作で、361×598センチ。中央でクールベ自身が、裸のモデルを背に風景画を描いている。一九二〇年に、広く寄付を募って国の所蔵となった。
一八五五年、パリで万国博覧会が開かれた。《画家のアトリエ》は審査で退けられ、クールベは会場の見える場所に自前の展示小屋を建てた。並べた作品は四十点を超える。
小屋には「写実主義」の名が掲げられた。目録の序文で、画家はこの呼び名を周りから押しつけられたものだと書いている。それを自分から看板に掲げた展示である。
二点とも、人の背丈の二倍近い高さがある。オルセーで見るときは、まず離れて全体の列を見て、次に近づいて一人ずつの顔を見るとよい。
なぜ写実主義と呼ばれるのか
答えは、主題と大きさの組み合わせにある。クールベは、格の低いとされた主題を、格の高い絵の寸法で描いた。
当時、人の背丈を超える画面は、歴史や聖書や神話を描くためのものだった。そこに村の葬式や狩りの後始末を描いたことが、反発と「写実」の呼び名を招いた。
当サイトが公開している四十点あまりを並べると、神話も聖書の場面も出てこない。主題は、土地と人と獣と海に限られる。目の前にある材料だけで絵を組み立てている。

《狩りの後》は、館の記録で高さ236.2センチある。人の背丈をはるかに超える画面である。
その大きさで描かれているのは、歴史でも神話でもない。森の中で、狩りの獲物を犬に見せている男である。館の解説では、男はお仕着せを着た使用人とされる。
赤い上着の男が木立の前に立ち、片手で獲物の一頭を吊り上げる。白と茶の猟犬が首を伸ばし、その獲物へ向かって吠え上げる。
地面には鹿が横たわり、兎と鳥が重なる。館の解説は、獲物を猪・山鶉・鹿・野兎と挙げている。左下には金色の角笛と赤い帽子が、草の上に投げ出されている。
獲物は画面の下半分に積まれ、毛と羽の質がそれぞれ描き分けられる。右端では、もう一頭の犬が獲物の山へ身を乗り出す。
歴史画に使う寸法で、土地の狩りの後始末を描く。同じ入れ替えを最大の寸法で行ったのが、先に見た《オルナンの埋葬》である。村の葬式が、歴史画と同じ扱いを受けている。

《死んだ野兎と猟犬》は、狩猟の場面を初めてサロンに出した年の作である。秋の色の森で、二頭の猟犬が鼻先を下げて向き合う。
左下には仕留められた野兎が仰向けに転がる。館の解説では、犬たちは主人を待っており、人の気配は野兎だけが伝えている。
二頭の犬は、少し前に描かれた大作《獲物》からの転用だと館は説明する。《獲物》はボストン美術館にあり、そちらでは野兎の代わりに鹿が吊られている。同じ犬を別の画面に移す描き方は、狩猟画を何点も組み立てた画家の手順を示している。
クールベの絵の特徴
人物では、顔を整えないことが特徴になる。

《ロール・ボロー夫人の肖像》では、黒い服と黒い帽子の女が画面の中央から左を埋める。帽子からは薄い黒の網が垂れる。
首はわずかにかしぎ、目はこちらへ向く。目の下にははっきりと影が落ち、頬は左右で張りが違う。口もとはわずかに曲がる。
黄色い手袋の手が、腰のあたりで桃色と白の花束を持つ。袖口の白いレースと、肩を覆う黒いレースの模様が、黒の中で浮かぶ。
背景の右だけが開き、橙に焼けた空と低い水面が見える。顔と花束のほかは、ほとんどが黒である。
美しく見せるための修整がない。目の下の影も頬の左右差も、そのまま残されている。画面の右下には、赤い署名が入る。
館の記録では、この絵は画家の没後、一八八一年の遺作の売り立てに出ている。生前は手もとに置かれていたことになる。
風景では、土地の形がそのまま主題になる。

《オートピエールの岩》では、灰色の崖が画面の右の三分の二を占める。
崖は何層にも割れ、横の筋が続く。上には濃い緑の草地が乗り、崖の途中にも草が張りつく。
崖の下には赤茶の屋根の小さな家が並ぶ。左奥には水面と、青くかすむ山が見える。
岩肌は絵具を厚く置いた跡がそのまま残る。細い線で形を追うのではなく、面を置いて積み上げている。
色の作り方も、三点に共通している。暗い色をまず広く置き、その上に明るい色を乗せて形を起こす。だから明るい部分だけが厚く、影の側は薄い。
厚みを作る道具は筆だけではない。国立西洋美術館の解説は、《罠にかかった狐》の雪にも《波》の水にも、パレットナイフを使った質感の描き分けを挙げている。雪や波の白は、筆で塗るだけでなく刃で置かれている。展示室では、白の部分を斜めから見ると絵具の厚みが分かりやすい。
オルナンはクールベの生まれた土地である。崖と川のある土地の形が、そのまま絵の骨組みになっている。
クールベの作品はどこで見られるか
当サイトでは、クールベの作品を四十点あまり公開している。ギュスターヴ・クールベの作家ページから一覧できる。
内訳は、肖像・風景・狩猟・海景に分かれる。海を描いた作品は点数が多く、同じ浜を別の天気で描き直したものが並ぶ。
同じ対象を条件を変えて何度も描く態度は、のちの世代にも受け継がれる。クールベの場合、その対象は故郷の川と、ノルマンディーの浜であった。

《海景、竜巻》では、画面の左下で波が崩れ、白い泡が横に長く伸びる。
右には切り立った岩の崖があり、その手前に角ばった石が積み重なる。空からは雨の筋が斜めに降りる。
上のほうの雲は赤茶に染まり、下へ行くほど灰色の雨に溶ける。人も舟も描かれていない。
館の解説によれば、描かれているのはエトルタの崖である。画家は一八六五年か翌年にトルーヴィルで竜巻を見て、一八六六年に初めてこの主題を描いた。
出来事の中心に人を置かない絵である。見ているのは、水と岩と空の動きだけである。
対になるのが、前年の夏に同じエトルタで描かれた《凪の海》である。館の解説では、潮が引いた浜に小舟が二艘残り、大きな空が細い水と砂の帯の上にそびえる。
館は、この静けさが同じ時期の海景としては珍しいと述べている。荒れる波と凪いだ浜を並べると、同じ海岸を条件だけ変えて描いたことがよく分かる。
日本でクールベを見られる美術館は
東京・上野の国立西洋美術館と、横浜美術館で見られる。どちらも所蔵品で、展示されているかは各館の案内で確かめる必要がある。
国立西洋美術館の所蔵は七点で、すべて松方コレクションに由来する。館の記録では、《罠にかかった狐》《肌ぬぎの女》《もの思うジプシー女》《りんご》《波》《馬小屋》《雪景色》である。
《波》は一八七〇年ごろの作で、72.5×92.5センチ。館の解説では、ノルマンディー地方エトルタの嵐の海を描いたもので、画面の半分を荒れる海が占める。
《罠にかかった狐》は一八六〇年の作である。館の解説は、雪の質感をパレットナイフで描き分けた冬の狩りの場面だとしている。当サイトの狩猟画と並べると、獲物を描く関心が同じだと分かる。
《馬小屋》は一八七三年の年記を持ち、亡命の年の作にあたる。《もの思うジプシー女》は一八六九年の作で、館の解説は着衣の女を描いた作品が概して好評だったと述べる。
横浜美術館には《海岸の竜巻(エトルタ)》がある。館の記録では一八七〇年の作で、65×81センチ。《海景、竜巻》と同じ年、同じ主題の一点である。
国立西洋美術館の《波》と横浜美術館の竜巻を実物で見たあと、当サイトの海景を並べるとよい。同じ年代の海が、波の塗り方と空の色でどう違うかを確かめられる。
同じころ農民を描いたミレーとの違いは、ジャン=フランソワ・ミレーの代表作と特徴と読み比べると分かる。
クールベのあと、同時代のパリを平らな色面で描いたのがマネである。その次の一歩はエドゥアール・マネの代表作と特徴で見た。





