エドゥアール・マネの代表作と特徴——なぜ影を消し、黒をそのまま塗ったのか
エドゥアール・マネの代表作と特徴を、公開中の6点から読む。《草上の昼食》と《オランピア》はパリにあるが、マネ自身の版画とシカゴ美術館の油彩なら見られる。影を省いた平らな明るさと、面として置かれた黒を、館の記録とCC0の画像で確かめる。

エドゥアール・マネとはどんな画家か
エドゥアール・マネは、19世紀のパリで描いた画家である。館の記録では、1832年に生まれ1883年に没している。
神話や聖書の場面を理想の姿で仕上げる当時の型から離れ、目の前の人と場所を、そのままの明るさで画面に置いた。
その結果、作品はしばしば非難された。ここでは当サイトで公開中の7点から、マネの代表作と特徴を順に見ていく。

横に長い画面の中央を、馬の群れがまっすぐこちらへ走ってくる。館の記録が描くのは、競走の決着の瞬間である。
当時の競馬画は、馬を真横から並べて描くのが普通だった。館の記録も、この正面からの構図を型破りなものとして扱っている。
馬の脚は芝の土煙に溶け、顔もほとんど描き分けられていない。速さは形ではなく、輪郭の崩れ方で示されている。左右から奥へ走る柵の斜めの線も、勢いを強めていると館は書く。
左の柵沿いには観客が黒い塊として詰まる。右奥にも同じ黒い帯が続き、緑の芝を挟んで対になる。左上には、双眼鏡で競走を追う男もいる。
館の記録によれば、競馬場はパリの西の端、ブーローニュの森にあった。競馬は英国から入り、19世紀のフランスで人気の娯楽になった。
同じ記録は、この絵がもとはずっと大きな構図で、画家自身が切り詰めたものだと書く。競馬場を何度も描いた友人ドガと違い、マネが競馬を描いた油彩は2点にとどまる。
来歴の記録では、画家は1877年にこの絵を売っている。1896年にシカゴのポッター・パーマーが画商から買い、1922年にパーマー家から館へ贈られた。
代表作はどこにあるか
よく知られる《草上の昼食》と《オランピア》は、どちらもパリのオルセー美術館にある。当サイトの在庫には無く、図版として出すことはできない。
《草上の昼食》は1863年のサロンで落選した。同じ年、落選作を集めた展示に出され、大きな騒ぎになった。
《オランピア》も1863年に描かれたが、サロンに出たのは2年後の1865年である。こちらは入選したものの、強い非難を浴びた。
晩年の大作《フォリー=ベルジェールのバー》は、ロンドンのコートールド美術館にある。1882年のサロンに出され、没する前年に仕上がったマネ最後の大作である。
鏡を背にした女給を正面から描き、背後の鏡に客席が映る。コートールドの解説によれば、マネはその店で素描をしたが、絵そのものはすべてアトリエで描いた。モデルはシュゾンという女給である。
同館は、鏡の中の女給と客の姿が、正しい遠近の位置から右へずらされていることも指摘している。左の瓶の映り方も合っていない。
日本でマネを見るならどこか
東京・上野の国立西洋美術館に《ブラン氏の肖像》がある。1879年ごろの油彩で、縦194.3センチ、横126センチの等身大に近い肖像である。
館の解説によれば、灰色のシルクハットに青紫の夏服を着たブラン氏が、小道でポーズをとる。晩年に印象派から受けた影響が、明るい自然の光の扱いに出ているという。
この肖像は、結局ブラン氏の手には渡らなかった。館の来歴では、マネの没後に画商ヴォラールを経て、ドガが手に入れている。
その後デンマークの収集家を経て、1923年に松方幸次郎が買った。長くブリヂストン美術館に預けられ、1984年に松方家の遺族から国立西洋美術館へ寄贈された。当サイトでは画像を扱えないが、国内でマネの大きな人物画を実物で見られる一点である。館の展示情報を確かめてから訪ねたい。
ただし《オランピア》は、マネ自身の手による銅版画なら公開されている。

館の記録では、作者はマネ自身である。館は、物議をかもした油彩を複製するためにマネ自身が作った版画だと説明している。モデルはヴィクトリーヌ・ムーランで、館によれば彼女自身もサロンに出品した画家だった。油彩の色が、ここではすべて線の密度に置き換わっている。
寝台に横たわる女、花束を抱えて立つ人、右端で尾を立てる黒い猫。構図の骨組みは油彩と変わらない。女の首のリボン、腕輪、髪の花も、細い線で残されている。
違うのは肌の扱いである。線をほとんど引かず紙の白を残すことで、周囲の闇から人物だけが抜けて見える。
黒く沈んだ背景は、細い斜線を何層も重ねて作られている。色を使わずに、油彩と同じ明暗の差を出そうとしている。
油彩は一点しかないが、版画は同じ版から何枚も刷られる。そのぶん各地の館に収まりやすく、公開もされやすい。
パリの一点が動かせなくても、同じ構図をクリーヴランドの記録で確かめられるのは、この仕組みのおかげである。
なぜサロンで嫌われたのか
1865年のサロンに、マネは《オランピア》とこの宗教画を並べて出した。

背景は黒一色で、奥行きを示すものが何も無い。人物は正面から強い光を受け、肌は影の少ない平らな明るさになる。
キリストは茨の冠をかぶせられ、縄で手首を縛られて座る。館の記録によれば、兵士たちは「ユダヤ人の王」と嘲るために、茨の冠と葦の笏と紫の外套を押しつけている。
画像では、手前でひざまずく兵士が葦を差し出し、右の毛皮の男が外套を肩に掛ける。奥には兜をかぶった髭の兵士が槍を持つ。足元には縄と棒が転がる。
キリストには光輪が無い。疲れきった体は、正面からさらされている。聖なる光なのか、アトリエの照明を浴びた生身の男なのか決めがたい、というのが館の見方である。当時の騒ぎも、まさにこの曖昧さから起きたと館は書く。
館の記録は、制作のきっかけの一つとして、1863年に出たルナンの『イエス伝』を挙げる。キリストの人間としての面を強調し、議論を呼んだ本である。ただし館も、可能性として触れるにとどめている。
神聖な主題を現実の人間として描いたことが、当時の反発を招いた。裸婦を女神ではなく生身の女として描いた《オランピア》と、問題の根は同じである。
館の記録によれば、写実主義が広まって以来、前衛の画家たちは宗教の主題を描かなかった。マネが聖書の場面を描いたのは、少なくとも二度ある。
もう一つは《天使に支えられる死せるキリスト》で、1864年の油彩がニューヨークのメトロポリタン美術館にある。マネはこれを版画にもしており、クリーヴランド美術館の記録では、エッチングとアクアチントで1866年から67年の作である。
同館は、空ろな目と背後の深い影が、写実のあまり醜悪だと批評家に嘲られたと書く。マネが作ったエッチングの中で最も大きく、そのため版から刷られた数も少ないという。
マネの黒は影の色ではない

画面のほぼ半分を、濃い青緑のマントが占めている。背景は褐色の闇で、床と壁の境も曖昧である。
マントには折り目の線がほとんど無い。光の当たる面と当たらない面が、大小の平らな面として並ぶだけである。
黒や濃い色は、ここでは影を作るためではなく、面そのものの色として置かれている。だから人物は浮き上がらず、切り紙のように画面に貼り付く。
館の記録では、この絵は《哲学者たち》と呼ばれる四点組の一点にあたる。題は、貧しさを知恵と結びつけた古代の哲学者の図像を踏まえている。
物乞いを等身大に近い大きさで、空の暗い背景に描いた。肖像や英雄の扱いは、本来は貴人や歴史や宗教の主題のものだった、と館は書く。
同じ館の《ダッフルコートの物乞い》は、この絵と対に構想された。館の記録によれば、マネは1872年に、アブサン飲みと屑拾いの絵とあわせて四点を《哲学者たち》の名で並べた。
そのころパリは大改造の最中で、こうした人々は町の外れへ押し出されていた。上流の家に生まれながら画壇の外にいたマネは、彼らに自分を重ねていたのだろう、と館は見ている。
足元の牡蠣の殻だけが、白く強い光を受けている。人物の顔と殻、この二か所だけが明るい。
中間の調子を省くこのやり方は、前の《兵士たちに嘲弄されるキリスト》とも共通する。明るい面と暗い面が、途中を飛ばして隣り合う。
立体を丸く見せる階調が減ると、画面は平たく見える。マネの人物が紙を貼ったように見えるのは、このためである。
スペイン旅行は何を変えたのか
1865年の秋、サロンで非難を浴びた年に、マネは十日ほどスペインを旅した。館の記録は、この短い旅がこの時期の作品に深い影響を与えたと書く。

マネはマドリードで闘牛を見た。詩人ボードレールへの手紙には、見られる中で最も見事で、最も奇妙で、最も恐ろしい光景の一つだと書いている。
その場で描いた素早い素描が、のちの何点かの油彩のもとになった。《闘牛》はその一つである。
画像では、手前に赤い布を持つ闘牛士の背があり、左に黒い牛が立つ。右の砂の上には、倒れた馬が横たわる。観客席は赤い瓦屋根の下に二層に重なり、柵の向こうにも人が立つ。明るい砂の上で、手前の闘牛士の黒い衣装が際立っている。ここでも黒は影ではなく、面の色として置かれている。
館の記録が指摘するのは、焦点の差である。観客席の群衆は色の点に溶け、闘牛士と牛だけが比較的くっきりと描かれる。
物乞いの二点が1865年から67年の作であるのも、この旅のすぐ後にあたる。暗い背景に人物を一人だけ立たせる型は、ここで見た《牡蠣を持つ物乞い》と同じである。
死後、作品はどう世に出たのか
マネは1883年に51歳で没した。翌1884年1月、パリの美術学校で大きな遺作展が開かれている。
シカゴ美術館の展覧会歴を見ると、《ロンシャンの競馬》《牡蠣を持つ物乞い》《読書する女》の三点がこの遺作展に出ている。生前に評価の定まらなかった画家の仕事が、ここでまとめて示された。《ロンシャンの競馬》と《兵士たちに嘲弄されるキリスト》は、1895年にニューヨークの画廊で開かれたマネ展にも出ている。作品が海を渡る道筋は、ここから見えてくる。
さかのぼって1867年、パリで万国博覧会が開かれた年に、マネはアルマ橋のそばで自作だけの個展を開いた。《兵士たちに嘲弄されるキリスト》と物乞いの絵は、この個展にも並んでいる。サロンに頼らず、自分で見せる場を作ったのである。
来歴をたどると、同じ名前が何度も出てくる。パリの収集家ジャン=バティスト・フォールである。
フォールは1882年に《読書する女》を画家から買い、同じ年に物乞いの絵を画商から買った。《兵士たちに嘲弄されるキリスト》も1894年に手に入れている。
その後、これらはパリの画商を通じてシカゴの収集家へ渡った。物乞いはエディ家、キリストはディーリング、読書する女はコバーン夫人である。いずれも遺贈で美術館に入った。
印象派とマネの距離
マネの周りには、のちに印象派と呼ばれる画家たちが集まった。シカゴ美術館の記録では、ピガール通りのカフェ、ヌーヴェル・アテーヌに、マネとその仲間のための卓が二つ取ってあった。ドガ、モネ、ピサロ、ルノワールらがそこに加わった。ただし、彼らが開いた展覧会にマネ自身は出品していない。

描かれているベルト・モリゾも画家で、印象派の展覧会に加わっている。館の記録では、この石版は油彩《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》の写真をもとにしている。マネの生前には売るための刷りは作られず、私的な目的の版だったという。同じ肖像から、顔を影絵のように黒く抜いた版も作られた。シカゴ美術館の《シルエットのベルト・モリゾ》がそれにあたる。帽子と外套は黒くつぶれ、白いのは襟と目もとだけである。
石版の粒が荒く残り、輪郭はどこも確定していない。それでも顔の向きと視線だけは、はっきりと決まっている。
晩年には、筆の跡をそのまま残す描き方が強くなる。

館の記録によれば、場面はカフェに見えるが、実際にはアトリエで作り直したものである。背後の花はマネ自身の絵だという。大理石の卓とビールのジョッキ、木の棒に留めた雑誌が、カフェらしさを作っている。厚い服と子山羊の革の手袋は、外の席の涼しい日を思わせる、と館は書く。
手前の雑誌は、灰色と白の筆を数回置いただけで紙に見える。背後の緑は、輪郭を持たない絵具の点の連なりである。
この背景の扱いは、同じころのモネやルノワールに近い。一方で、帽子と上着の黒は平らなままで、光に溶けていない。
印象派の画家たちは、影を紫や青に置き換えて黒をほとんど使わなくなった。マネは最後まで黒を面の色として持ち続けている。
代表作と呼ばれる絵がパリにあっても、この描き方はシカゴとクリーヴランドの7点でそのまま確かめられる。
印象派との共通点と違いは、印象派とは何かの記事と並べると分かりやすい。
水面だけを描いたモネの仕事は《睡蓮》の記事で扱っている。あわせて読むと、黒を手放した画家と手放さなかった画家の差が見えてくる。


