描くに値するものは、誰が決めるのか——ギュスターヴ・クールベ
クールベは、酒場の女主人を歴史画の大きさで描いた。整えられていない表情、二つとも見えている手、自前の展示小屋、天使を見たことがないという言葉。レアリスムという挑発が何を要求したのかを、公開作品と当時の記録から確かめる。

酒場の女主人が、大画面に描かれている
一枚の肖像画から始めたい。

太った中年の女が、こちらを見ずに右上を向いている。
黒い服。首元に白いレースの襟。袖口にも白いレースがのぞく。
右手の指先に、小さな青い花を一輪つまんでいる。左手は、大理石の天板の上に開いて置かれている。
天板の上には、緑の表紙の帳面。その脇に、硬貨が数枚散らばっている。
左には、ガラスの花瓶に生けられた白と赤の花。
背後の壁は、腰の高さで赤褐色と灰緑に分かれている。
表情が、整えられていない
顔を見てほしい。
美化されていない。頬は赤黒く、顎の下はたるみ、目尻には皺がある。
肌は滑らかに塗られていない。厚い絵具が、そのまま起伏として残っている。
視線はこちらを向かない。右上を見て、口の端をわずかに上げている。
笑っているようにも、値踏みしているようにも見える。
普通、注文で描かれる肖像画は、こういう顔にならない。もっと落ち着いた、感じのよい表情に整えられる。
宮廷の肖像画がどれほど記号で組み立てられていたかは別のコラムで扱っている。あちらは身分を語るための装置だった。
この絵には、その装置が無い。
手が、二つとも見えている
もう一つ、気づきにくい仕掛けがある。
両手が、どちらも画面に入っている。
右手は花をつまみ、左手は台の上に開いて置かれている。指の一本ずつが描き分けられている。
肖像画で両手を描くのは、実は手間のかかる選択である。手は顔の次に難しい。
そして、この二つの手は同じことをしていない。
右手は誰かに差し出すような仕草。左手は台に置かれ、動いていない。
差し出す手と、置かれた手。商売をする人の手つきとして読むこともできる。
もっとも、これは解釈である。画家がそこまで意図したかは分からない。
大きさに、注目してほしい
この絵は、縦1.3メートルある。
十九世紀のフランスで、この寸法は何を意味したか。
肖像画としては大きい部類である。等身大に近い。
そして当時、これだけの大きさを与えられるのは、王侯貴族か、高名な人物か、あるいは歴史上の場面だった。
描かれているのは、そのどれでもない。
帳面と硬貨が示すとおり、この女性は商売の主である。所蔵館の記録は、彼女を店を仕切る女主人として説明している。
つまり、本来なら大画面に値しないとされていた人物が、大画面に描かれている。
これがクールベの仕事の中心にある。
補足しておくと、この絵は一度描かれたあと、二年ほど後に加筆されている。所蔵館の記録にそう記されている。
どこに手を入れたかは、画面からは判別しにくい。ただ、彼がこの一枚を放置しなかったことは分かる。
挑発的な絵ほど、繰り返し手を入れる。反応を見ながら調整していた可能性もある。
この記事の問い
彼のやったことは、「何を描くか」の変更である。
技法の革新でも、色彩の発見でもない。描くに値するものの範囲を、力ずくで広げた。
その挑発が、どこまで意図的で、どこから商売だったのか。
そして、挑発の代償として何を払ったのか。
この三つを、作品と経歴の両方から見ていきたい。
先に断っておくと、この画家は好き嫌いの分かれる人物である。
作品には強引なところがあり、本人の言動には自己宣伝の匂いがある。称賛一辺倒でも、批判一辺倒でも、実像から外れる。
両方を並べたまま進めたい。
作者はギュスターヴ・クールベ。1819年、フランス東部フランシュ=コンテ地方のオルナンに生まれた。
裕福な農家の出である。パリへ出て画家になったが、生涯にわたって故郷の風景と人物を描き続けた。
学校へは、行っていない
経歴を少し補いたい。
彼は美術学校の正規の課程を出ていない。
パリへ出たあとは、私塾に通い、ルーヴルで模写を重ねた。スペインやオランダの絵画、とくに暗い背景に厚い絵具で人物を置く方法を、そこで学んでいる。
正規の課程が何をしていたかは、素描を扱った別のコラムで書いた。石膏像を写し、生きたモデルを描き、そのあとで色に進む。
その順序を通っていない画家は、線よりも塊で考える傾向がある。
クールベの人物は、輪郭で囲われていない。暗い背景の中から、明るい絵具の塊として浮かび上がる。
学校を出ていないことが、様式の一部になっている。
一八五五年の、自前の小屋
事件の年から入りたい。1855年である。
この年、パリで万国博覧会が開かれた。美術部門もあり、フランス美術の総覧という位置づけだった。
クールベは大作を出品したが、主要作が受け入れられなかった。
彼が取った手段は、当時としては前代未聞である。
博覧会の会場のすぐ近くに、自費で小屋を建てた。そこに自作を四十点ほど並べ、入場料を取って公開した。
小屋の名は「レアリスムの館」。
さらに、短い文章を配った。写実主義とは何かを説明した、宣言のような文書である。
要点はこうである。自分は生きている時代を、見たとおりに描く。伝統の型にも、理想化にも従わない。
画家が自分で展覧会を開き、自分で理論を配る。この形式は、後に何度も繰り返されることになる。
十九世紀アメリカで大画面の風景画を単独興行にかけた画家たちも、構造としては近い。別のコラムで扱っている。
ただし、あちらは商売としての興行だった。クールベのそれは、拒絶への抗議である。
もっとも、この二つは完全には分けられない。
抗議であっても、入場料は取る。人が来なければ抗議として成立しないし、金も入らない。
事実、この小屋の客入りは芳しくなかったと伝えられる。抗議としては歴史に残り、興行としては失敗した。