アメリカはなぜ、荒野を歴史画の大きさで描いたのか——トマス・コール《オックスボウ》
入場料25セント、三週間で1万2千人。十九世紀アメリカの風景画は、見世物であり、記録的な値段で売れる商品だった。なぜ荒野が歴史画の寸法で描かれたのか。そして「手つかずの自然」という言葉が消していたものは何か。三人の画家の主張を読み分ける。

一枚の絵が、真っ二つに割れている
まず、画面が二つに分かれていることを確認したい。

左半分は、暗い。
嵐雲が斜めに垂れこめ、雨が降っている。手前には落雷か強風で裂けた木が、白い幹をさらしている。斜面は下草に覆われ、道はない。
右半分は、明るい。
コネティカット川が大きく蛇行し、馬蹄形の入り江をつくっている。まわりは区画された農地で、干し草の山と小さな家が点在する。川面に舟が浮かんでいる。
同じ一枚の中に、原生林と耕作地が、雨と晴れが、並んで置かれている。
分ける線は、画面をほぼ対角に走っている。偶然の構図ではない。
そしてもう一つ。中央下寄りの斜面に、小さな人物がいる。
日傘のようなものを立て、画架を据えて、こちらを振り返っている。画家自身である。
つまりこの絵は、「私はいまこの場所に立って、この二つの世界を同時に見ている」と宣言している。
作者はトマス・コール。1801年にイギリスで生まれ、十七歳で家族とともにアメリカへ渡った。ほとんど独学で絵を学んだ人である。
題名にある「オックスボウ」は、牛の首にかける木製の軛のことで、そこから転じて、川が大きく曲がってできる馬蹄形の地形を指す。
描かれているのはマサチューセッツ州、コネティカット川の実在の湾曲部である。画家はホリヨーク山の中腹に登り、そこから見下ろしている。
当時この山は、すでに観光地だった。頂上に休憩所があり、眺望を楽しむ人が来ていた。
つまりこの絵の視点は、探検家のものではない。観光客が立てる場所である。
にもかかわらず、左半分には人跡未踏の荒れ地が描かれる。同じ場所の、違う顔を並べているわけだ。
嵐は、去りつつある
題名をもう一度読みたい。「雷雨のあとの眺め」である。
嵐は終わったばかりで、雲はまだ左半分を覆っている。雨の筋が斜めに見える。
しかし右奥はすでに晴れ、川面が光っている。天候は、左から右へ抜けていく途中である。
つまりこの絵には、方向がある。暗いほうから明るいほうへ。過去から未来へ。
十九世紀のアメリカで、これがどう読まれたかは想像がつく。荒野は文明に道を譲る、という物語である。
ただしコール自身が、その物語を全面的に肯定していたかは疑わしい。この点は後で戻ってくる。
荒れた丘に、文字が彫られている
もう一つ、この絵には仕掛けが指摘されている。
右奥の丘の斜面に、樹木を伐り払ってできた地肌の模様が見える。
この模様が、ヘブライ語の文字を形づくっている、という読み方が古くからある。上下を逆さにすると別の語になる、とも言われる。
コールは信仰の篤い人で、風景を神の書物として読む態度を持っていた。だからこの読み方には一定の説得力がある。
ただし、伐採跡が偶然そう見えているだけ、という可能性も否定できない。ここは確定した事実としては扱わない。
いずれにせよ、この画面は自然の記録ではない。読ませるために作られた図である。

残っている下絵を見ると、構図の骨格はこの段階でほぼ決まっている。
暗い左と明るい右、対角線、蛇行する川。現場で決めたのは、この配分だった。
厚紙に油彩と鉛筆、という材料の組み合わせにも注意したい。屋外で素早く色を置き、線で位置を確かめている。
完成作は縦横それぞれ十倍近い。同じ構図を十倍に拡大すると、絵の性質は変わる。
小さな画面なら、視線は一度に全体を捉える。二メートル近い画面では、そうはいかない。観客は左を見て、右を見て、また左へ戻る。
見るのに時間がかかること。それ自体が、この寸法の狙いである。
素描や下絵が制作の中で果たす役割については、別のコラムでまとめて扱っている。
この記事の問い
十九世紀のアメリカで、風景画は異様に大きくなった。
横二メートル、三メートルという画布が次々に描かれ、入場料を取って公開され、記録的な値段で売れた。
なぜ荒野が、それほどの主題になりえたのか。
そして、その「荒野」は本当に無人だったのか。
順に見ていきたい。
その前に、大きさの話をしておく。
ヨーロッパの絵画の序列では、大画面は歴史画のためのものだった。神話、聖書、王の事績。風景はもっと小さい判で描かれるのが普通である。
風景画の地位がどう上がっていったかについては、別のコラムで扱っている。十七世紀のフランスで、それは百年がかりの仕事だった。
十九世紀のアメリカは、その順序を一気に飛ばした。歴史画の寸法を、いきなり風景に使ったのである。
理由のひとつは単純で、描くべき歴史がなかったからだ。建国から半世紀ほどしか経っていない国に、絵にすべき古い事績は少ない。
かわりに、他国にない規模の自然があった。そこに歴史画の寸法を与える——という発想は、いま思えば当然の帰結だったかもしれない。