暮らしと名画

水は、器の形で示される——ドゥフェネク・ピサロ・乾山ほか九点

水は形を持たないから、器の形が水の存在を伝える。水を汲む九点を数えると、六点に桶か甕か水瓶があり、器の中の水はどこにも描かれていなかった。運ぶ重さは、天秤棒のたわみと肩の傾きだけで示される。厚み四ミリの陶片も、その一点である。

ヴェネツィアの水運び
フランク・ドゥフェネク《ヴェネツィアの水運び》スミソニアン協会蔵

石の欄干の前で、桶が並んでいる

横長の大きな画面である。

122.8×185.7センチある。

画面の中央に、石の欄干がある。

欄干は太い柱が並ぶ。

柱と柱のあいだから、水が見える。

水は青緑で、細かい波が立つ。

奥には、白い建物が並ぶ。

建物の上に、丸い屋根がある。

さらに奥には、船の帆柱が立つ。

欄干の手前に、人が集まる。

左に、男が二人いる。

一人は身をかがめ、桶を持ち上げる。

桶は木で、金属の輪が回る。

もう一人は、欄干にもたれる。

中央には、女が二人立つ。

一人は黄土色の上着を着る。

その肩に、細い棒が渡る。

棒の両端から、桶が下がる。

天秤棒である。

もう一人は、赤い裾の衣である。

腕を上げ、頭に手を当てる。

右には、子どもが二人いる。

一人は白い衣で、桶を提げる。

桶は小さく、体に比べて重そうである。

足元には、桶がいくつも置かれる。

数えると、六つ以上ある。

地面は石畳で、平らである。

空は明るく、雲が薄い。

ヴェネツィアの水運び
フランク・ドゥフェネク《ヴェネツィアの水運び》1884年。館の記録では、油彩・カンヴァス。122.8×185.7センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。フランク・ドゥフェネク《ヴェネツィアの水運び》スミソニアン協会蔵

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

つまり、なぜ水を運ぶのかは書かれていない。

まわりは、水に囲まれた町である。

しかし飲める水は、別に汲まなければならない。

水を汲むとは、下にあるものを上へ運ぶことである。

井戸でも、泉でも、川でも同じである。

運ぶ道具は、桶と甕である。

そして運ぶ体には、重さがかかる。

水は、一升で一キロを超える。

桶一つで、十キロを超えることもある。

だから運ぶ姿は、体が傾く。

天秤棒は、その重さを肩へ移す道具である。

水を汲むは、九つの場所に現れる

この一枚を出発点に、水を汲むことにまつわる九点を数えていく。

汲む場面には、三つの要素がある。

水のある場所と、器と、運ぶ人である。

どれが欠けても、汲むことにならない。

先に言ってしまうと、九点のうち、人が水を運んでいるのは三点である。

二点では、井戸端で人が話している。

一点では、井戸だけが残っている。

そして三点は、水を入れる器そのものである。

つまり九点のうち三点で、人は画面にいない。

井戸端で、話が始まる

二点目は、大きな浮き彫りである。

井戸端のキリストとサマリアの女
ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア《井戸端のキリストとサマリアの女》1500年から1530年ごろ。館の記録では、彩色テラコッタ。全体は221×177.8×27.9センチ。番号は1922.210。クリーヴランド美術館蔵。ジョヴァンニ・デッラ・ロッビア《井戸端のキリストとサマリアの女》クリーヴランド美術館蔵

大きな浮き彫りである。

全体は221×177.8×27.9センチある。

人の背より高い。

上端は、半円のアーチである。

縁には、細かい縄の文様が回る。

画面の中央に、井戸がある。

井戸は石で、四角い。

その左に、男が座る。

男は青い衣を着る。

体は右を向く。

右手を上げ、指を立てる。

話している姿である。

井戸の右に、女が立つ。

女は赤褐色の衣を着る。

体は左を向く。

両手で、甕を抱える。

甕は丸く、口が細い。

奥には、階段がある。

階段の上に、人が数人立つ。

その人たちは、こちらを見ている。

さらに奥には、城壁と塔がある。

塔には、小さな窓がある。

右下の隅にも、二人がいる。

色は、青と赤褐色と白が強い。

館の記録では、この浮き彫りは、ある修道院のために作られた大きな連作の一つである。

その修道院は、千五百年から千五百三十年のあいだに拡張された。

そのとき三十二の礼拝堂が建てられ、それぞれが物語の一場面に捧げられたという。

そして館は、この一点の来歴について書いている。

この浮き彫りは、もとはある礼拝堂に据えられていた。

やがて礼拝堂は荒れ、修道士の洗い場になったという。

そして千九百年代の初めに、修道院が修理の費用のために売却したという。

館の記録は、そう説明している。

つまり水を汲む場面のあった部屋が、水を使う部屋になった。

九点のうち、置かれた場所の変化が記録されるのは、この一点である。

礼拝堂は荒れ、洗い場になり、そして売られた。

三度、役目が変わっている。

館の記録は、その順序を書き残している。

甕を抱えて、立ち止まる

三点目は、大理石の立像である。

井戸端のリベカ
チョーンシー・アイブス《井戸端のリベカ》1854年、彫りは1866年。館の記録では、大理石。127×41.9×41.9センチ。番号は99.8。メトロポリタン美術館蔵。チョーンシー・アイブス《井戸端のリベカ》メトロポリタン美術館蔵

等身より小さい立像である。

127×41.9×41.9センチある。

女性が立つ。

体は正面をやや向く。

顔は左を向く。

目は伏せられる。

髪は後ろでまとめられ、布で覆われる。

衣は足元まで届く。

衣の襞は、縦に長く落ちる。

襞は深く、影が入る。

右腕は曲がり、胸の前にある。

その手で、甕を支える。

甕は丸く、口が広い。

甕は右の腰に載る。

左手は、下がる。

指は軽く開く。

足元には、円い台がある。

台の縁に、文字が刻まれる。

足は裸で、片方が前へ出る。

石は白く、面は磨かれる。

館の記録は、年の欄を二つに分けている。

原型が1854年、彫りが1866年である。

つまり十二年の隔たりがある。

そのあいだ、この姿は石膏か粘土であった。

そして注文があってから、石が彫られた。

九点のうち、原型と彫りの年が離れているのは、この一点である。

甕は空に見える。

口が上を向き、傾いていない。

汲む前か、汲んだ後かは決められない。

石で水を表すことは、できない。

井戸のまわりで、時間が過ぎる

四点目は、油彩である。

井戸端の女と子供
カミーユ・ピサロ《井戸端の女と子供》1882年。館の記録では、油彩・カンヴァス。81.5×66.4センチ。番号は1922.436。シカゴ美術館蔵。カミーユ・ピサロ《井戸端の女と子供》シカゴ美術館蔵

縦長の画面である。

81.5×66.4センチある。

画面は、庭である。

草は明るい緑で、細かい点でできる。

点は短く、方向がそろわない。

画面の左に、煉瓦の柱がある。

柱は赤褐色で、上へ伸びる。

その前に、女が立つ。

体は右を向く。

上着は水色で、縞がある。

裾は青で、床まで届く。

顔は下を向く。

視線は、子どものほうへ落ちる。

右には、子どもが立つ。

子どもは青い衣を着る。

両手を口元へ上げる。

飲んでいるらしい。

二人のあいだの地面に、桶がある。

桶は木で、把手が付く。

奥には、木立がある。

木は黄緑で、実が付く。

さらに奥には、家の屋根が見える。

屋根は赤褐色である。

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

つまり誰かは書かれていない。

題には、井戸という語がある。

しかし画面に、井戸の穴は見えない。

見えるのは、柱と桶だけである。

九点のうち、井戸が題にあって見えないのは、この一点である。

柱は井戸の一部かもしれない。

しかし、それも決められない。

題だけが、そこが井戸端だと告げている。

廃墟の中に、井戸が組み込まれる

五点目は、版画である。

井戸
ユベール・ロベール《井戸》1763年から64年。館の記録では、エッチング。番号は1930.544。クリーヴランド美術館蔵。ユベール・ロベール《井戸》クリーヴランド美術館蔵

縦長の版画である。

線は細く、灰色である。

画面の中央に、古い建物がある。

建物は石で、壁が崩れている。

上に、簡単な屋根が架かる。

屋根は板で、傾く。

その下に、井戸がある。

井戸は円く、縁が高い。

縁の上に、人が乗る。

人は身を乗り出し、下を覗く。

その右に、女が座る。

女は洗い物をしている。

手前には、平たい石の台がある。

台の上に、布が広がる。

左には、大きな木が立つ。

木は葉が茂り、枝が広がる。

葉は、短い線の集まりである。

奥には、別の建物がある。

建物の壁には、彫刻の断片がある。

右の隅にも、人が二人いる。

館の記録では、この一組の版画は、この画家自身のペンと墨の素描にもとづく。

架空の人物を、ある都市の実在の建物や彫像の近くに置いているという。

そして館は、献辞について書いている。

題扉で、作者はある女性にこの一組を捧げている。

その人は、ある富裕な著述家とともにその都市を訪れたという。

二人とも、素人の版画家であった。

そして、学校を中心とする画家や版画家の集まりと交わっていたという。

館の記録は、そう説明している。

つまり井戸は、旅の途中で見た景色である。

九点のうち、井戸が廃墟と一体なのは、この一点である。

井戸は使われ続け、建物だけが崩れた。

人が二人、そこで働いている。

廃墟が、日々の場所になっている。

井戸だけが、写真に残る

六点目では、人がほとんどいない。

ヨアブの井戸、エルサレム
ジェームズ・ロバートソン《ヨアブの井戸、エルサレム》1857年。館の記録では、湿板の陰画からの塩紙。画面は25×29.7センチ。番号は1998.157。クリーヴランド美術館蔵。ジェームズ・ロバートソン《ヨアブの井戸、エルサレム》クリーヴランド美術館蔵

横長の写真である。

画面は25×29.7センチある。

全体が、褐色がかった灰色である。

画面いっぱいに、岩の斜面がある。

斜面は、大小の石で覆われる。

石は角ばり、影が深い。

斜面の中ほどに、石の構造物がある。

構造物は低く、アーチの穴がある。

穴の中は、暗い。

そのまわりに、崩れた壁がある。

壁は、石を積んだだけである。

上のほうに、低い塀が続く。

塀の上には、草が生える。

画面の左下に、人が一人座る。

人は小さく、輪郭だけである。

その大きさが、全体の寸法を伝える。

空は、画面の上端にわずかに見える。

空は白く、雲の形がない。

光は強く、影が短い。

昼の高い時刻らしい。

館の記録では、この眺めは二人の写真家の共同の仕事から生まれた。

千八百五十七年の旅の途中であるという。

そして館は、技法について書いている。

その質の高い、大きく美しく、丁寧に構成された写真は、この地域で湿板の方法が使われた最初の例であるという。

さらに館は、構図について書いている。

カメラは上へ向けられ、井戸の石の廃墟が斜めから写されている。

その石は、丘の岩の面に溶け込んで見えるという。

そして手前の一人の座る姿が、寸法を示し、この荒涼とした場面に人の気配を入れているという。

館の記録は、そう説明している。

つまり人は、寸法のために置かれている。

九点のうち、人が寸法の役なのは、この一点である。

井戸そのものは、崩れている。

水が残っているかどうかも、分からない。

記録は、そこに触れていない。

水を運ぶための、器そのもの

七点目からは、器である。

ヒュドリア(水瓶)
果樹園の画家に帰せられる《ヒュドリア(水瓶)》紀元前480年から470年。館の記録では、テラコッタ、赤像式。33.5×33.7×27.6センチ。番号は1889.95。シカゴ美術館蔵。《ヒュドリア(水瓶)》シカゴ美術館蔵

丸い胴の水瓶である。

33.5×33.7×27.6センチある。

胴は丸く、下がすぼまる。

口は広く、外へ開く。

口の縁は、平らである。

把手は三つある。

左右に二つ、水平に付く。

その二つは、持ち上げるためのものである。

もう一つは、後ろに縦に付く。

縦の把手は、注ぐときに使う。

地は黒く、艶がある。

胴の正面に、赤い人物が並ぶ。

人物は横向きで、腕を伸ばす。

数は三人ほどである。

その下に、細い帯の文様がある。

足は円く、外へ広がる。

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

つまり、この器の用途は題で示される。

水瓶という名が、そのまま題である。

三つの把手の位置が、使い方を伝える。

九点のうち、器の名が題なのは、この一点である。

水を汲みに行くのは、たいてい女の仕事だった。

この器の絵にも、女が描かれる。

器と、使う人が同じ画面にある。

古代の器の形と用途については、器の形と用途で扱った。

四ミリの破片が、器を伝える

八点目は、断片である。

赤絵式オイノコエ(酒注ぎ)またはヒュドリア(水瓶)の断片:箱を持つ女
シュヴァーロフの画家《赤絵式の器の断片:箱を持つ女》紀元前425年から420年ごろ。館の記録では、陶。全体は0.4センチ。番号は1915.533.d。クリーヴランド美術館蔵。シュヴァーロフの画家《赤絵式オイノコエ(酒注ぎ)またはヒュドリア(水瓶)の断片:箱を持つ女》クリーヴランド美術館蔵

小さな破片である。

厚みは0.4センチしかない。

形は不定形である。

上の縁は、斜めに割れている。

地は黒く、艶がある。

その黒の上に、赤い部分がある。

赤い部分に、人物が描かれる。

人物は、頭と上半身だけが残る。

顔は右を向く。

目は大きく、瞳が黒い。

髪は短く、額を覆う。

首は細い。

腕は前へ伸びる。

手には、四角い箱がある。

箱には、細い線の飾りがある。

箱の下の部分は、割れて失われている。

輪郭の線は、細く均一である。

館の記録では、この座る女の比較的大きな目と頭は、ある画家の描く人物の特徴である。

その画家は、五世紀の半ばから終わりに多くの小さな器を描いたことが知られるという。

そして館は、主題について書いている。

神話の主題とともに、この画家はしばしば家の中の女を描いた。

ここもそうであり、手にする箱は婚礼の贈り物かもしれないという。

館の記録は、そう説明している。

そして題には、酒注ぎか水瓶か、と二つの候補が並ぶ。

つまり何の器だったかは、決められていない。

九点のうち、器の種類が決まっていないのは、この一点である。

残っているのは、厚み四ミリの陶片である。

館の記録は、その厚みを寸法として書く。

高さも幅も、書かれていない。

測れるのは、厚みだけである。

それでも、描き手の名は推定されている。

目と頭の大きさが、その根拠である。

四ミリの厚みの上に、その判断が乗っている。

残った部分の少なさと、書かれた言葉の多さが釣り合わない。

少ないほど、記録は長くなる。

茶のための水を、入れておく

最後の一点も、器である。

松文水指
尾形乾山《松文水指》1720年ごろ。館の記録では、酸化鉄の下絵の炻器、漆の蓋。高さ11.4センチ、直径16.5センチ。番号は29.100.614a。メトロポリタン美術館蔵。尾形乾山《松文水指》メトロポリタン美術館蔵

低い円筒形の器である。

高さ11.4センチ、直径16.5センチしかない。

胴はまっすぐ立つ。

口は広く、平らである。

上に、黒い蓋が載る。

蓋は漆で、艶がある。

蓋の中央に、小さな把手がある。

胴の地は、灰白色である。

面には、細かいひびが走る。

その上に、褐色で木が描かれる。

木は幹が太く、上で枝が広がる。

葉は、短い線の束である。

松である。

木は三本ほどある。

木のあいだに、雲のような形がある。

形は白く、地の色である。

線は太く、勢いがある。

幹の輪郭は、一度で引かれている。

途中で止めた跡がない。

酸化鉄は焼くと褐色になる。

描いたときは、もっと薄い色だった。

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

館の札には「木」とある。

題にある水指とは、茶のための水を入れる器である。

つまり汲んだ水を、そこに移しておく。

汲む場面と、使う場面のあいだにある器である。

茶室に運ばれ、そこに置かれる。

蓋を取れば、水面が見える。

しかし図版では、蓋が閉じている。

九点のうち、水を溜めておく器は、この一点である。

蓋があるのは、この一点だけである。

蓋は、埃を防ぐためのものである。

汲んだ水を、しばらく置くことが前提になっている。

この作り手の筆と窯については、筆と窯で扱った。

数えてみると

九点を並べ直す。

人が水を運んでいるのは、二点である。

天秤棒と桶の群れ、そして甕を抱える立像。

井戸端に人がいるのは、三点である。

浮き彫り、庭の二人、そして廃墟の井戸。

井戸だけが写るのが、一点。

器そのものが、三点である。

もう一つ数える。

九点のうち、水が見えるのは二点である。

運河の水面と、写真の暗い穴。

汲まれた水そのものは、どこにも描かれていない。

水面が見えるのは、運河と、写真の暗がりだけである。

どちらも、汲まれる前の水である。

さらに数える。

九点のうち、器が写るのは六点である。

桶が二点、甕が二点、水瓶と水指が一点ずつ。

器のない三点は、井戸そのものか、断片である。

断片も、もとは器だった。

数え方によっては、七点になる。

器のない二点は、井戸と、その写真である。

どちらも、水のある場所そのものである。

場所と器で、九点は二つに分かれる。

場所が五点、器が四点である。

人がいるのは、場所の側に多い。

器の四点には、使う人がいない。

器だけが、館に残っている。

言えることと、言えないこと

言えるのは、水を汲む場面が「器で示される」ということである。

水は形を持たない。

だから器の形が、水の存在を伝える。

桶、甕、水瓶、水指。

九点のうち六点に、そのどれかがあった。

言えないのは、汲まれた水が描かれるという話である。

九点のどこにも、器の中の水は見えない。

桶は空か、中が見えない角度で描かれる。

甕は口が上を向き、覗き込めない。

水は、運ばれていることだけが分かる。

最後に、はじめの一枚へ戻る。

足元に、桶がいくつも置かれている。

その桶は、まだ空か、もう一杯かは分からない。

分かるのは、人がそれを運ぶことだけである。

九点を数え終えて残るのは、その重さのほうである。

重さは、姿勢に出る。

肩が下がり、腰がひねられる。

空の桶なら、そうはならない。

見る側は、姿勢から中身を読む。

最初の一枚では、天秤棒がたわんでいる。

たわみが、そのまま重さを示している。

数字ではなく、線の曲がりで示される。

館の記録は、その重さを書かない。

書かれるのは、寸法と材料だけである。

重さは、絵の中にしかない。

九点のうち、重さが姿勢に出ているのは二点である。

天秤棒の一枚と、甕を腰に載せる立像。

残る七点では、重さは問われていない。

井戸端は、休む場所でもある。

汲む前と汲んだ後のあいだに、話が生まれる。

九点のうち三点が、その時間を描いている。

仕事の合間が、絵になっている。

運ぶ場面より、待つ場面のほうが多い。

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