画家を知る

筆でも窯でも、同じ意匠——尾形乾山

型に落とした流水に椿の掛軸と、笹を描いた同じ意匠の皿が二枚。琳派の意匠は、紙の上でも土の上でも同じ手つきを見せる。絵と器のあいだを自在に行き来した尾形乾山の七点から、「デザイン」という仕事の先駆けとしての姿を読む。

水辺の椿
尾形乾山《水辺の椿》メトロポリタン美術館蔵

青い水が、型のように流れる

一枚の掛軸から始めたい。

水辺の椿
尾形乾山《水辺の椿》1741年。掛軸。紙に墨と彩色。縦30.5センチ、横45.1センチ。メトロポリタン美術館蔵。尾形乾山《水辺の椿》メトロポリタン美術館蔵

横長の画面である。縦30.5センチ、横45.1センチ。

床の間に掛ければ、腕を広げたほどの幅になる。

画面の下半分を、青い水が流れている。

だがこの水は、本物の水には見えない。

うねる線が何本も並び、渦を巻き、模様のように整っている。

濃い青と淡い青が、帯になって交互に走る。

線の間隔はほぼ一定で、リズムを刻むように反復する。

流水文。水の流れを型に落とし込んだ、装飾の言葉である。

着物の裾を飾る文様と、同じ種類の水といってよい。

その水の上に、椿の枝が伸びる。

枝は画面を斜めに横切り、赤い花を咲かせている。

濃い緑の葉が、花のまわりに茂る。

花にも葉にも、影はほとんどない。

輪郭のはっきりした色の面が、切り紙のように置かれている。

赤と緑と青。色の数は絞られ、にごりがない。

椿の赤は、青い水の上でひときわ強く燃える。

補い合う色を、計算して並べた配色である。

椿は、寒さの残る季節にいち早く咲く花である。

冷たい水と赤い花の取り合わせに、早春の気配が漂う。

水は模様になり、花は型になる。

自然をそのまま写すのではない。

自然を、意匠に変えてしまう。

この小さな一枚に、描いた人の方法が凝縮されている。

しばらく眺めていると、不思議な感覚がやってくる。

水は流れていないのに、目は水の上を流れていく。

型は、動きを止めるのではない。

動きを、いつまでも続く形に変えるのである。

ほんものの川は流れ去るが、この青い水は流れ続ける。

元文の年記——数え七十九歳の筆

画面には年記がある。元文の元号が書き込まれている。

元文は江戸中期、十八世紀なかばの元号である。

年記のある絵は、画家の歩みをたどる確かな道しるべになる。

いつ、何歳のときの筆か。それが画面の上で確定する。

所蔵館の記録は、この絵を1741年の作とする。

描いたのは尾形乾山。このとき数え七十九歳である。

亡くなる二年前の筆ということになる。

それでも線は迷わない。水の曲線はのびやかに走る。

老年まで、筆は衰えなかった。

むしろ型は、いっそう大らかになっているように見える。

若い頃に身につけた意匠の言葉が、体にしみ込んでいる。

考えて描くのではなく、手が型を覚えている筆である。

七十九歳の絵がこれほど明るい。まずそのことに驚きたい。

では、この人はどこから来たのか。

京の呉服商に生まれて

尾形乾山は1663年、京都に生まれた。

生家は雁金屋という裕福な呉服商である。乾山はその三男だった。

そして兄が、画家の尾形光琳である。

呉服商とは、着物の生地をあつらえて商う店をいう。

店には染めと織りの見本があふれていただろう。

流水、草花、市松、幾何学の文様。

売り物のすべてが、意匠でできている家である。

兄弟は、型のある美しさに囲まれて育ったと考えられる。

時代は元禄。京都の町人文化が爛熟へ向かう頃である。

芝居、出版、装い。町人の暮らしが文化の主役になった。

美しい着物は、町の人々の憧れの的だった。

その最先端の意匠を商う家に、兄弟はいた。

兄の光琳は絵筆を取り、華やかな画面で名をなした。

弟の乾山は、別の道を選ぶ。

乾山は書物を好み、静かな暮らしを望んだと伝えられる。

派手好みの兄とは、対照的な気質だったようである。

1699年、乾山は京都の鳴滝に窯を開いたと伝えられる。

鳴滝は都から見て乾、すなわち北西の方角にあたる。

町の喧噪を離れた、山裾の土地である。

窯の名「乾山」は、この方角に由来すると伝えられる。

つまり乾山は、絵師として世に出たのではない。

京焼の窯元。それが出発点だった。

京焼とは、京都で焼かれたやきものの総称である。

茶の湯と結びつき、洗練された器を生み出してきた。

その窯の器には、絵と書が大きく施された。

器を画面に見立てる作風で、乾山焼は評判を取ったと伝えられる。

兄が絵付けをした器もあると伝えられる。

雁金屋の意匠は、兄弟の手で紙と土に分かれて流れ出た。

琳派——自然を型に変える方法

乾山と光琳の芸術は、のちに琳派と呼ばれる流れに数えられる。

京都で受け継がれた、装飾の系譜である。

師から弟子へと工房で継がれた流派ではない。

先人の作に学び、型を受け取る。そういう緩やかな系譜である。

だからこそ、型そのものの力が問われる。

琳派の方法は、はっきりしている。

水の流れを、うねる曲線の繰り返しにする。

花を、輪郭の明快な色の面にする。

単純化した型を、たっぷりした余白と組み合わせる。

単純化は、手抜きではない。

枝ぶりの偶然を捨て、花の本質だけを残す選択である。

何を描かないかを決めることが、意匠の仕事の半分を占める。

型だから、覚えられる。人から人へ渡せる。

そして型だから、着物にも、扇にも、器にも移せる。

《水辺の椿》の青い水は、まさにこの方法でできている。

写生ではなく、意匠。

それが乾山の育った家の言葉であり、兄弟の言葉だった。

表具まで、ひとつの画面

この掛軸は、表具も見どころである。

絵のまわりを、金の唐草の裂が囲んでいる。

赤い椿と青い水が、金の枠のなかで引き締まる。

掛軸という形式は、絵と表具をひとつの面として見せる。

裂の選びまでが、鑑賞の対象になる。

いわば絵は、布の意匠に縁どられて壁に掛かる。

呉服商の子の絵として、これほどふさわしい形式もない。

この形式の面白さは掛軸・屏風・扇に書いた。

では、窯元だったはずのこの人が、なぜ掛軸を残したのか。

ページをあらためて、問いを立てたい。