塗り残しのまま残る肖像——ジョン・ウェズリー・ジャーヴィス
顔だけが仕上がり、周囲は画布が見えている。完成しなかった一枚から始めて、同じ画家の九点をたどる。どこから描き始めるか、背景をどうぼかすか。制作の順序が、そのまま画面に残っている。軍装の一枚では、仕上げられた画面との差もはっきりする。

塗り残された画布
一枚の肖像から始めたい。

男の上半身が描かれている。
顔は正面をやや外し、こちらを見る。
髪は黒く、額の上で乱れる。
頬に赤みが差す。
首元には、白い布を高く巻く。
上着は暗い緑と青で、肩から胸へ大きく塗られる。
右手は、緑の板のようなものに掛かる。
その下に、指が見える。
しかし、背景は塗り残されている。
灰色の下地が、そのまま出ている。
完成していない絵
背景を見ると、絵具が置かれていない部分が広い。
そして、上着の輪郭も曖昧である。
筆の跡が、大きく残っている。
つまり、この絵は仕上げられていない。
顔と手だけが、丁寧に描かれている。
肖像画では、こうした状態のものが残ることがある。
顔から描き始め、周囲を後で仕上げるからである。
途中で中断すれば、この状態になる。
顔から、描き始める
肖像画の制作手順を確かめておきたい。
まず、画布に下地を塗る。
灰色や褐色が使われる。
そのうえに、顔の位置を決める。
そして、顔を描く。
依頼主が座っているのは、この段階である。
顔が終われば、依頼主は帰ってよい。
残りは、工房で仕上げる。
だから、中断すると顔だけが残る。
描いた人について
ジョン・ウェズリー・ジャーヴィスは、一七八〇年に生まれた。
生地は英国である。
幼いころに米国へ渡ったとされる。
一八四〇年に、ニューヨークで没した。
版画の彫り師として修業し、のちに肖像画へ転じた。
十九世紀の初め、ニューヨークで最も忙しい肖像画家の一人だったとされる。
九点の年代も、その時期に集中している。
一八〇七年から一八二〇年
九点の年代を並べたい。
一八〇六年か〇七年ごろ。
一八〇七年から一〇年が二点。
一八一一年ごろ、一八一三年ごろ、一八一四年ごろ。
一八一五年、一八一九年ごろ、一八二〇年ごろ。
つまり、十五年ほどに収まっている。
画家の三十代の仕事にあたる。
最も注文の多かった時期だろう。
黒い上着の男
二点目は、仕上げられている。

若い男の上半身である。
髪は黒く、耳の上で膨らむ。
顔は正面をやや外し、目はこちらを見る。
首元には、白い布を巻く。
その結び目が、顎の下で膨らむ。
上着は黒で、襟が高く立つ。
背景は、黄土と褐色である。
上部が明るく、下部が暗い。
顔以外の情報が、ほとんどない。
背景を、ぼかす
この背景の作り方を見たい。
平らではない。
顔の周りだけが明るく、外へ行くほど暗くなる。
そして、境目がない。
筆でぼかし、色を溶かしている。
こうすると、顔が浮き上がる。
同時に、背景に奥行きらしきものが生まれる。
十九世紀初めの肖像画で、広く使われた方法である。
軍装の全身に近い像
三点目は、大きい。

縦が123センチある。
男が、膝から上で描かれる。
紺の軍服を着る。
肩には、金色の房飾りが載る。
胸には、金のボタンが二列に並ぶ。
腰には、金の留め具のついた帯を巻く。
右手に、黄色い棒のようなものを持つ。
背後には、木立と岩がある。
そして、左下に馬の頭が見える。
背景に、馬を置く
背景の馬に注目したい。
顔の一部だけが見える。
暗く塗られ、目立たない。
つまり、脇役として置かれている。
軍人の肖像に馬を添えるのは、古い型である。
騎馬像にすれば大がかりになるが、頭だけなら場所を取らない。
そして、軍人であることを示せる。
前回の記事でも、同じ処理に触れた。
描かれた人物について
この人物は、軍人であり、のちに政治の要職に就いた。
一八一九年ごろは、軍での功績で名が知られていた時期である。
つまり、政治家になる前の姿である。
肖像画は、その時点の立場を写す。
後に何になるかは、絵には書かれていない。
いま私たちは、その後を知って見ている。
見る側の知識が、絵の見え方を変える。
黒衣の女性
四点目は、色のない画像である。

年配の女性が、椅子に座る。
黒い衣を着て、肩に暗い布を掛ける。
頭には、大きな黒い帽子をかぶる。
帽子の下から、白い縁飾りが出る。
顔は正面を向き、口を結ぶ。
両手は膝の上で組まれる。
袖口には、白い縁飾りがある。
背景は、雲のような明暗が広がる。
暗い衣と、明るい背景の対比が強い。
黒の面積が大きい絵
この一枚は、黒が画面の大半を占める。
衣、帽子、肩掛け。
いずれも黒である。
そこへ、白い縁飾りだけが入る。
つまり、明るいのは顔と、わずかな白だけである。
こうした絵では、黒の中の階調が要になる。
平らに塗れば、穴になる。
袖の膨らみ、肩の丸み、布の重なり。
いずれも、黒の中の明暗で示す必要がある。
白い衣の若い女性
五点目は、色がある。

若い女性が、椅子に座る。
衣は白く、胸元が大きく開く。
袖は短く、膨らむ。
頭からは、薄い布が肩へ流れる。
髪は赤みを帯び、額の上でまとめる。
耳と手首に、金の飾りがある。
背後の左には、赤い幕が垂れる。
右には、緑の風景が見える。
床には、格子の敷物がある。
板に描く
この一枚の技法欄に注目したい。
油彩・板とある。
画布ではない。
十九世紀の初めに、板に描く肖像画は少数である。
理由は、大きな板が手に入りにくいことだろう。
そして、重い。
一方、板は表面が硬く、細かい描写に向く。
九点のうち、板に描かれたものは三点ある。
いずれも、同じ時期の作である。
対になる夫
六点目は、五点目の対である。

男が、椅子に座る。
黒い上着に、白い襟巻き。
髪は短く、額の上で立つ。
顔は正面をやや外し、こちらを見る。
右手は、椅子の肘に置かれる。
その手に、細い棒のようなものを持つ。
背後には、柱と、木立の風景がある。
床には、赤い敷物が敷かれる。
寸法は、五点目とほぼ同じである。
対の肖像の条件
二点の寸法を比べたい。
縦は、いずれも87.6センチ。
横は、70.3センチと70.2センチ。
つまり、一ミリしか違わない。
技法も、いずれも板である。
年代も同じ。
そして、同じ購入で館に入っている。
対の肖像としては、理想的な状態である。
夫婦の肖像は、こうして一組で残る。
向きを、逆にする
二点の顔の向きも確かめたい。
妻はやや左を、夫はやや右を向く。
つまり、並べると向かい合う。
そして、背景の風景も左右で対応する。
一方は右に風景、他方は左に風景。
つまり、外側に風景が来る。
対の肖像では、こうした配慮が積み重なる。
寸法、向き、背景、色調。
すべてを揃えて、初めて一組になる。
敷物の模様
五点目と六点目には、床の敷物が描かれている。
格子の模様、あるいは幾何学的な文様である。
床を描くと、人物の立つ場所が定まる。
そして、部屋の格も示せる。
一方で、模様を描くのは手間である。
遠近に従って、模様を歪ませる必要がある。
この二点では、その処理がなされている。
奥へ行くほど、格子の間隔が詰まる。
きちんと作図されている。
机に向かう人
七点目は、横長である。

九点の中で、これだけが横長である。
男が、机に肘をついて座る。
体は左を向き、顔もそちらを向く。
髪は黒く、耳の上で膨らむ。
首元には、白い布を巻く。
上着は暗く、袖が広い。
机の上には、書物が積まれる。
そして、開いた紙が置かれる。
左手には、白い布のようなものを持つ。
横長という選択
横長の肖像は、少ない。
理由は、人物が縦に長いからである。
しかし、机や書物を入れるなら、横幅が要る。
つまり、持ち物の量が画面の形を決める。
この一枚では、書物と紙が主題の一部になっている。
学識や職業を示す道具である。
それを描くために、横長を選んでいる。
肖像画の形は、内容から決まる。
書物という持ち物
机の上の書物に注目したい。
数冊が積まれ、背表紙が見える。
そして、開いた紙がある。
つまり、読み書きの場面である。
十九世紀の肖像では、この設定がよく使われた。
学識、職業、地位。
そのいずれをも示せるからである。
当サイトでも、繰り返しこの型に触れてきた。
帽子と、頭の飾り
九点の女性像を見比べたい。
一人は黒い大きな帽子、一人は薄い布を頭から流す。
つまり、年齢と場面によって装いが違う。
年配の女性は帽子をかぶり、若い女性は布を流す。
これは、当時の慣習に沿っている。
肖像画は、その慣習をそのまま写す。
だから、頭の装いから年齢層が読める。
顔の皺を数えるより、確かな手がかりになる。
幕と、風景
九点の背景を分類したい。
平らな褐色が三点。
雲のような明暗が二点。
幕と風景を組み合わせたものが二点。
そして、海と空が一点。
塗り残しが一点である。
つまり、四種類ほどの型がある。
依頼主の立場に応じて、型が選ばれる。
背景は、注文の一部でもあった。
有名な著述家
八点目は、よく知られた人物である。

年配の男の上半身である。
髪は白く、耳の上で膨らむ。
額は広く、皺が寄る。
鼻は大きく、赤みを帯びる。
顔は正面をやや外し、目はこちらを見る。
首元には、白い布を高く巻く。
上着は暗い褐色である。
背景は褐色で、平らである。
顔以外の情報が、ほとんどない。
晩年の顔
この人物は、独立と革命の時代の著述家である。
一七三七年に生まれ、一八〇九年に没した。
つまり、この肖像は最晩年の姿である。
七十歳前後だろう。
若いころの肖像は、他の画家によるものが知られている。
それらと比べると、この一枚は老いが強く出ている。
頬がこけ、鼻が赤い。
理想化していない。
老いを、どう描くか
肖像画では、老いの扱いが難しい。
そのまま描けば、依頼主が喜ばないこともある。
美化すれば、似ていなくなる。
この一枚は、そのまま描くほうを選んでいる。
皺、たるみ、赤み。
いずれも省かれていない。
つまり、記録としての性格が強い。
有名人の肖像には、この傾向がある。
後世に伝わることを、前提にしているからである。
海を背にした軍人
九点目は、色が鮮やかである。

男の上半身である。
紺の軍服を着る。
肩には、金色の房飾りが載る。
胸には、金のボタンが並ぶ。
首元には、白い布が高く巻かれる。
髪は黒く、額の上で乱れる。
顔は正面を向き、口を結ぶ。
背後には、海と空が見える。
雲は黄土と灰で、渦を巻く。
左奥には、帆船の影がある。
背景で、職業を示す
この背景の海と帆船に注目したい。
つまり、海軍の軍人であることを示している。
先の陸軍の将軍では、木立と馬だった。
背景が、職業を語る。
肖像画では、これが常套である。
商人には商品、学者には書物、軍人には戦場や海。
当サイトの
背景に、商品と土地を描くでも、この点を扱った。
顔だけでは、立場は伝わらない。
二人の軍人像
三点目と九点目を比べたい。
いずれも軍人の肖像である。
年代も、一八一四年ごろと一八一九年ごろで近い。
しかし、印象が違う。
一方は縦123センチで、膝から上。
他方は縦91センチで、胸から上。
そして、背景も違う。
木立と馬、海と帆船。
同じ画家が、軍種に応じて設定を変えている。
顔の描き方
九点の顔を見比べると、共通点がある。
頬に、はっきりした赤みが入る。
そして、鼻の先にも赤みがある。
目の周りには、影が落ちる。
つまり、血色をはっきり描く。
これは、この画家の癖だろう。
前回扱った別の画家にも、似た特徴があった。
十九世紀初めの肖像画に、広く見られる傾向である。
健康であることを、色で示す。
白い襟巻き
九点のうち、男性像は七点である。
そのいずれにも、白い襟巻きが描かれている。
首に布を巻き、顎の下で結ぶ。
その結び目が、膨らんで見える。
当時の男性の装いである。
そして、絵としても効く。
暗い上着と、顔の間に白を挟む。
顔が浮き上がり、視線が集まる。
装いと構図が、都合よく一致している。
板と画布
九点の支持体を整理したい。
画布が六点、板が三点である。
板の三点は、いずれも一八〇七年から一八一一年の作である。
つまり、早い時期に集中している。
その後は、画布だけになる。
理由は分からない。
材料の入手の都合かもしれない。
あるいは、制作の速さの問題かもしれない。
板は下地の準備に手間がかかる。
九点の寸法
寸法も見ておきたい。
最も大きいのが、縦123.2センチ。
最も小さいのが、縦65.4センチ。
そして、縦86センチ前後が三点ある。
つまり、いくつかの規格に分かれる。
胸から上なら六十から七十センチ台。
腰から上なら八十センチ台。
膝から上なら百二十センチ台。
英国の肖像画の規格に、おおむね対応している。
規格と、値段
寸法の規格には、意味がある。
画布の大きさが決まっていれば、値段も決めやすい。
そして、額も既製のものが使える。
依頼主は、寸法を選ぶことで予算を決める。
つまり、注文の手続きが簡単になる。
肖像画は、この仕組みで大量に作られた。
当サイトの
肖像画という商売でも、同じ点に触れた。
色のない画像で見る
九点のうち、三点は色のない画像で公開されている。
いずれも古い記録写真とみられる。
衣の色も、背景の色も分からない。
一方で、明暗の配分ははっきり見える。
黒い衣の中の階調、背景の雲の明暗。
色に邪魔されずに、構図だけを追える。
九点のうち、色のあるものとないもの。
両方が混ざっていることで、比較もできる。
版画から、肖像画へ
ジャーヴィスは、版画の彫り師として出発した。
つまり、線を扱う訓練を受けている。
それが、肖像画にどう影響したか。
九点を見ると、輪郭がはっきりしている。
顔の縁、襟の縁、袖の縁。
いずれも、線として意識されている。
一方、背景はぼかされる。
線と面の使い分けが、明確である。
版画の経験が、そこに出ているかもしれない。
忙しい画家の絵
十九世紀初めのニューヨークで、この画家は非常に忙しかったとされる。
一年に何十点も描いたという記録もある。
だから、仕上げに差が出る。
顔は丁寧に、衣と背景は速く。
九点の中にも、その差が見える。
最初の一枚は、その極端な例である。
顔だけが仕上がり、あとは下地のままである。
忙しさの痕跡と読むこともできる。
未完成の絵が残る理由
未完成の絵が館に残るのは、なぜか。
依頼主が受け取らなかった、あるいは支払いがなかった。
画家が亡くなった、あるいは中断した。
そして、工房に残ったまま処分された。
いずれの場合も、完成作より価値は低いとされた。
しかし、後世には貴重になる。
制作の手順が、そのまま見えるからである。
九点のうち一点が未完成であることは、幸運である。
受け入れ年の幅
九点の来歴を並べたい。
一八七五年、一八八一年。
一九六二年、一九六四年、一九六九年が二点。
そして、二〇〇〇年。
つまり、百二十年以上にわたる。
早い時期の二点は、描かれた人物の子孫からの寄贈である。
家に伝わった肖像が、館へ渡る。
その経路が、いちばん自然な形である。
九点を、順に見る
見方を提案して、終わりたい。
最初の未完成の一枚と、他の八点を見比べてほしい。
未完成の一枚では、顔だけが仕上がっている。
他の八点でも、顔がいちばん丁寧である。
つまり、力の配分は同じである。
違うのは、周囲を仕上げたかどうかだけである。
肖像画の制作は、顔から始まり、外へ広がる。
その順序が、一枚の未完成品から見える。
九点を並べる意味は、そこにある。
顔から外へ、目を動かしてほしい。


