画家を知る

街角を、絵に入れる——クリメルのフィラデルフィア

銀行の柱廊の前で薪を挽く職人、夜の牡蠣屋台、雪の街を走るそり。偉人の肖像しか売れなかった時代のアメリカで、ドイツ移民の画家は街角のふつうの人々を描いた。最初期の風俗画八点を、その記録の価値と視線の偏りごと読む。

フィラデルフィアの冬景色——合衆国銀行を背景に
ジョン・ルイス・クリメル《フィラデルフィアの冬景色——合衆国銀行を背景に》メトロポリタン美術館蔵

鈴の音が、大理石の前を走る

一枚の水彩から始めたい。

フィラデルフィアの冬景色——合衆国銀行を背景に
ジョン・ルイス・クリメル《フィラデルフィアの冬景色——合衆国銀行を背景に》1811〜13年ごろ。水彩・墨・紙。縦18.7センチ、横24.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《フィラデルフィアの冬景色——合衆国銀行を背景に》メトロポリタン美術館蔵

雪の積もった街路である。

画面の奥に、白い建物が構えている。ギリシャ神殿を思わせる列柱の正面。

合衆国銀行である。若い共和国の富を象徴する、堂々たる建築だった。

古代の神殿の姿を借りることで、新しい国は威厳を演出した。

石の白さは、永遠に続くものの色として選ばれている。

だが、この絵の主役は銀行ではない。

手前の路上を、そりが走っていく。馬が引き、人々が乗り込む。

鈴を鳴らし、雪をけたてて進む。冬のフィラデルフィアの楽しみである。

厚着をした乗り手たちの、浮き立つような気配が伝わってくる。

雪の日は、馬車をそりに替える。街全体が、少しだけ祝祭になる。

大理石の柱と、庶民のそり遊び。厳粛な建築と、路上の笑い声。

その取り合わせを、画家は面白がっているように見える。

威厳の建築は、この画面ではただの書き割りである。

主役の座は、雪の上ではしゃぐ人々のものだ。

紙の大きさは、縦18.7センチ、横24.8センチ。帳面ほどの小ささである。

その小さな紙に、二百年前の街角の空気が閉じ込められている。

冷たい空気、鈴の音、雪を踏む足音まで、聞こえてきそうである。

描いたのはジョン・ルイス・クリメル。1786年生まれの移民画家である。

銀行と教会と、偉人の肖像

19世紀の初め、アメリカの絵画には決まった主題があった。

偉人の肖像。建国の歴史の場面。あとは風景が少し。

絵とは、立派なものを後世に残すための道具だった。

注文するのは、名前を残せる立場の人々である。

描かれるのも、名前を残す価値があるとされた人々だった。

銀行や教会の建物は描かれても、その前を行き交う人は描かれない。

市場のにぎわいも、屋台の売り声も、絵の主題とは見なされなかった。

そうした光景は、ありふれていて、残す価値がないとされたのである。

そこに現れたのが、クリメルである。

彼はアメリカ最初期の風俗画家のひとりと呼ばれる。

風俗画とは、名もない人々の日々の暮らしを描く絵のことである。

王でも英雄でもなく、街角のふつうの人々を画面の主役に据える。

クリメルは、それをアメリカで最初に本格的にやった画家だった。

ドイツから来た、商人見習い

クリメルは1786年、ドイツのヴュルテンベルクに生まれた。

1810年ごろ、フィラデルフィアに渡ったと伝えられる。

二十代半ばでの、新大陸への船出である。

兄の商売を手伝うための渡米で、やがて画業に転じたと伝えられる。

帳簿より絵筆を選んだ事情は、詳しくは伝わっていない。

つまり、絵の注文を受けて海を渡った画家ではない。

商人見習いとして着いた街で、描かずにいられなくなった人である。

当時のフィラデルフィアは、合衆国最大級の都市だった。

少し前までは、合衆国の首都でもあった街である。

銀行が集まり、港がにぎわう、若い国の経済の中心である。

通りには商人が行き交い、市場が立ち、劇場が毎晩芝居を掛けた。

碁盤の目に整えられた街路を、あらゆる階層の人々が歩いた。

ヨーロッパから来た者の目に、この街はよほど新鮮に映ったのだろう。

クリメルが選んだ画材は、水彩だった。

油彩のような格式はないが、軽く、速く、持ち運べる。

動いている街を捉えるには、うってつけの道具である。

当サイトにあるクリメルの水彩は、いずれも小さな紙に描かれている。

大画面の油彩なら、構図は事前に組み立てられ、動きは固まる。

小さな水彩だからこそ、街の一瞬の空気がそのまま残った。

同じころ、ロシアの外交官も、この国の日常を水彩で記録している。

その話はスヴィニンの見たアメリカに書いた。

外から来た目が、土地の者の素通りする光景を絵に変える。

クリメルの水彩は、その好例である。

日曜の朝、すました一家が

アーチ・ストリート集会所前の日曜の朝
ジョン・ルイス・クリメル《アーチ・ストリート集会所前の日曜の朝》1811〜13年ごろ。水彩・墨・紙。縦22.9センチ、横18.7センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《アーチ・ストリート集会所前の日曜の朝》メトロポリタン美術館蔵

日曜の朝の街角である。

れんが造りの建物へ、一家が連れ立って歩いていく。

アーチ・ストリートの集会所。クエーカー教徒の礼拝の場である。

塔も装飾もない、簡素なたたずまいの建物である。

華美を避けるという信仰の姿勢が、建築にも表れている。

フィラデルフィアは、もともとクエーカー教徒が築いた街だった。

大人たちは、よそゆきの服で背筋を伸ばして歩く。

だが、子どもはそうはいかない。ぐずり、立ち止まり、手を引かれる。

すました大人と、退屈しきった子ども。

日曜の朝の、どこの家にもある光景である。

質素を旨とするクエーカーの装いと、子どものむずかる仕草。

信仰の街の理想と、家族の日常の現実が、一枚の中でせめぎ合う。

肖像画なら、こんな場面は決して残らない。

注文主は、澄ました顔だけを後世に残したいからである。

クリメルは、その「絵にならない瞬間」をこそ紙に留めた。

ここに、この画家の目の新しさがある。

そしてその目は、着飾った一家だけを追ったのではない。

同じ街路で働く人々にも、等しく向けられていく。

問い——なぜ、街角の人々なのか

ここで問いを立てたい。

なぜクリメルは、街角のふつうの人々を描いたのか。

銀行と教会と偉人の肖像しか絵にならなかった時代である。

答えの手がかりは、彼が移民だったことにある。

ヨーロッパには、風俗画の長い伝統があった。

オランダの画家たちは、17世紀から酒場や台所を描いてきた。

イギリスではホガースが、都市の悲喜劇を絵と版画にしていた。

クリメルと同じ時代には、ウィルキーが庶民の集いを描いて人気を得た。

村の祝いの席や酒場の口論が、展覧会の人気の主題になっていた。

庶民の暮らしは描くに値する。その考えが、すでに根づいていたのである。

クリメルは、その伝統を目に宿して大西洋を渡ってきた。

だから彼には、市場も屋台も兵隊の行進も、すべて主題に見えた。

土地の画家が素通りした光景が、移民の目には輝いて見えたのだろう。

見慣れたものは、見えなくなる。

外から来た目だけが、日常を主題として発見できることがある。

では、その目は街の誰を捉えたか。順に見ていきたい。

クリスマスの朝、街角の問答

煙突掃除たちと「世俗の人々」
ジョン・ルイス・クリメル《煙突掃除たちと「世俗の人々」》1811〜13年ごろ。水彩・鉛筆・紙。縦24センチ、横17.5センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《煙突掃除たちと「世俗の人々」》メトロポリタン美術館蔵

クリスマスの朝の街角である。奥に教会の姿が見える。

着飾った白人の男女が、道ばたの一団に声をかけている。

黒人の煙突掃除の少年たちと、その親方である。

題名は《煙突掃除たちと「世俗の人々」》。

「世俗の人々」とは、着飾った側を指すと読める。

祝いの日に盛装で歩く人々こそ「世俗」だという、皮肉のきいた題である。

働く少年たちの側に、静かな敬意を置いた題名とも取れる。

煙突掃除は、当時の都市に欠かせない仕事だった。

煙突のすすを放っておけば、火事のもとになる。

木と石炭で暖を取る街は、この仕事なしには冬を越せなかった。

狭い煙突にもぐり込むのは、体の小さい子どもの役目である。

すすにまみれ、体をむしばまれる、危険な労働だった。

その担い手の多くが、黒人の子どもたちだった。

盛装の男女の朝と、すすにまみれた少年たちの朝。

同じクリスマスが、同じ街角で、まるで違う顔をしている。

この一枚は、その落差ごと街を写している。

当時のフィラデルフィアには、自由黒人の大きな共同体があった。

北部で奴隷制の廃止が進み、自由を得た人々がこの街に集まっていた。

教会を建て、互助の組織をつくり、街の一角に根を張った人々である。

彼らは煙突掃除、荷運び、行商といった都市の労働を担った。

街が毎朝動き出すためには、その働きが不可欠だった。

クリメルの紙の上には、その人々が繰り返し登場する。

背景の点景としてではなく、場面の中心に立つ姿として、である。

白い柱廊の前で、薪を挽く

ペンシルベニア銀行前の木挽きたち
ジョン・ルイス・クリメル《ペンシルベニア銀行前の木挽きたち》1811〜13年ごろ。水彩・鉛筆・紙。縦23.2センチ、横17.1センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《ペンシルベニア銀行前の木挽きたち》メトロポリタン美術館蔵

白い柱の並ぶ建物の前で、男たちが薪を挽いている。

建物はペンシルベニア銀行。これも神殿風の名建築である。

当時のフィラデルフィアを代表する建物として知られていた。

金融の殿堂の足もとで、黒人の職人たちが体を使って働く。

のこぎりを引く腕。積まれた材木。路上がそのまま仕事場である。

冬を前にした街では、薪の準備が欠かせない。

木挽きは、その需要を路上で引き受ける仕事だった。

この構図は、冒頭のそりの絵と同じ仕掛けを持っている。

立派な建築と、その前の生活。柱の白と、路上の労働。

街の富を収める建物と、街を支える労働が、一枚に同居する。

画家がどこまで意図したかは分からない。

だがクリメルの画面ではいつも、建築は背景で、働く人が主役である。

夜、ランタンの明かりの下で

チェスナット街劇場前の牡蠣屋台
ジョン・ルイス・クリメル《チェスナット街劇場前の牡蠣屋台》1811〜13年ごろ。水彩・鉛筆・紙。縦23.3センチ、横17.3センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《チェスナット街劇場前の牡蠣屋台》メトロポリタン美術館蔵

夜の街角である。チェスナット街の劇場の前。

ランタンの明かりが、牡蠣の屋台をぼんやり照らしている。

闇の中に、光の輪がひとつ。人々はそこに吸い寄せられる。

芝居のはねた客が立ち寄り、その場で牡蠣を味わう。

牡蠣は当時の都市で親しまれた、手軽な夜食だったと伝えられる。

屋台を切り盛りする売り手の姿も、画面に描き込まれている。

牡蠣売りもまた、黒人市民が担った商売のひとつだった。

夜の絵は、この時代の水彩としては珍しい挑戦でもある。

ランタンの光と夜の闇を、紙の上で両立させなければならない。

クリメルは、その難しい照明ごと街角を残そうとした。

昼の労働から夜の商いまで。

連作をたどると、都市の一日が誰の手で回っていたかが見えてくる。

名前は、記録に残らなかった

ここで、書き添えておきたいことがある。

これらの絵に描かれた人々の名前は、記録に残っていない。

煙突掃除の少年たちも、木挽きの職人も、牡蠣売りも。

誰ひとり、名前が伝わらないのである。

画家の名は残り、描かれた人の名は残らなかった。

描いたのは白人の移民画家だった。

その筆には、類型化や誇張の危うさが常につきまとう。

当時の出版物には、黒人を笑いものにする図像があふれていた。

クリメルの絵も、その時代の空気と無縁ではありえない。

描かれた側が、この絵をどう見たかを伝える記録もない。

描く自由は画家の側にだけあり、応答の言葉は残されなかった。

一方で、これらの水彩は希少な記録でもある。

19世紀初頭の黒人市民がどんな仕事をし、どんな街角に立っていたか。

それを具体的に伝える図像は、決して多くない。

文字の記録からこぼれ落ちた人々が、ここには姿を持って立っている。

貴重な記録であること。描く側の視線に偏りがあること。

この二つは、どちらも本当である。両方を頭に置いて見たい。

片方だけを見れば、絵は単純な美談か、単純な断罪になってしまう。

小さな水彩は、そのどちらよりも複雑なことを語っている。

宿の広間に、音楽が鳴る

働く街角だけではない。クリメルは、集う人々も描いた。

街道筋の宿の陽気な集い
ジョン・ルイス・クリメル《街道筋の宿の陽気な集い》1811〜13年ごろ。水彩・鉛筆・紙。縦18.1センチ、横23.3センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《街道筋の宿の陽気な集い》メトロポリタン美術館蔵

街道沿いの宿の広間である。

旅人と土地の者が入り混じり、踊りの輪ができている。

杯が上がり、笑いが起こり、床が鳴る。

横長の画面いっぱいに、人の群れがひしめいている。

ひとりひとりに仕草があり、表情があり、小さな筋書きがある。

群像を組み立てる腕は、ヨーロッパの風俗画で鍛えられたものだろう。

そして画面の右端に、楽器を奏でる人がいる。黒人の奏者である。

この広間の陽気さを支えているのは、彼の鳴らす音である。

踊る者は入れ替わっても、音楽が止めば宴は終わる。

にぎわいの要の位置に、その姿は描き込まれている。

画面の端という置き方に、当時の席次が透けて見えもする。

それでも音の出どころは、まぎれもなく彼である。

働き手としてだけでなく、街の楽しみの担い手として。

クリメルの連作は、黒人市民の姿をそのようにも記録している。

青い軍服が、街を行く

シティ・トループとフィラデルフィアの兵士たち
ジョン・ルイス・クリメル《シティ・トループとフィラデルフィアの兵士たち》1811〜13年ごろ。水彩・グワッシュ・紙。縦22.9センチ、横18.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《シティ・トループとフィラデルフィアの兵士たち》メトロポリタン美術館蔵

青い軍服の一隊が、旗を掲げて進んでいく。

シティ・トループ。フィラデルフィアの市民軍である。

職業軍人ではなく、市民が編成する部隊だった。

若い共和国では、市民が自ら街を守ることが誇りとされた。

その行進は、街の一大行事である。

磨かれた装具、そろった歩調、ひるがえる旗。

グワッシュの不透明な絵具が、軍服の青をひときわ鮮やかにしている。

沿道の者にとって、これは祝祭だった。

クリメルはここでも、行進そのものだけを描いてはいない。

見物する街ごと、その日の高揚を写し取っている。

行進を見上げる顔の側にも、筆は等しく届いている。

舞台の上の「儀式」

オリンピック劇場の「インディアン部族の儀式」の興行
ジョン・ルイス・クリメル《オリンピック劇場の「インディアン部族の儀式」の興行》1811〜13年ごろ。水彩・グワッシュ・紙。縦17.9センチ、横23.5センチ。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・ルイス・クリメル《オリンピック劇場の「インディアン部族の儀式」の興行》メトロポリタン美術館蔵

最後に、注意深く見たい一枚がある。

劇場の舞台の上で、先住民の「儀式」とされるものが演じられている。

オリンピック劇場の興行。つまり、客を集めた見世物である。

舞台の上の演者たちと、それを見つめる客席。

クリメルは、その両方をひとつの画面に収めている。

まず確認しておきたい。これは実際の儀式の記録ではない。

舞台に載せられた演目を、客席の側から描いたものである。

演じたのが先住民自身か、扮装した俳優かは、記録から分からない。

確かなのは、先住民の文化が都市の娯楽として消費されていたことである。

土地を追われていく人々の文化が、都会の舞台で拍手を浴びる。

その構図のいびつさから、目をそらすわけにはいかない。

この絵が記録しているのは、儀式そのものではない。

文化を見世物に変えた、その時代の都市のありようである。

だから、この一枚を「先住民の風俗の記録」と読むことはできない。

見世物にされた文化の記録として、距離を置いて見る必要がある。

クリメル自身も、客席のひとりとしてこれを描いた。

その筆は街の記録者であると同時に、消費する側の一員でもあった。

泳ぎの事故で、三十五歳

クリメルの筆は、長くは続かなかった。

1821年、水泳中の事故で急死したと伝えられる。35歳だった。

フィラデルフィアに渡って、およそ十年あまりの画業である。

アメリカの風俗画は、始まった矢先に担い手を失ったことになる。

彼の蒔いた種が本格的に育つまでには、時間がかかった。

19世紀の半ば、風俗画はアメリカ絵画の花形になっていく。

農村の団らんや、街の子どもたちが、堂々と絵の主題になる時代である。

その世代を代表するのが、イーストマン・ジョンソンだった。

続きはジョンソンの日常に書いた。

クリメルは、その流れの水源にいた画家である。

水源はしばしば忘れられる。だが、流れはそこから始まっている。

非公式の歴史として

改めて、この8点を通して見たい。

そり遊び、日曜の一家、煙突掃除、木挽き、牡蠣屋台、宿の踊り、行進、興行。

どれも、公式の記録には残らない光景である。

議事録にも、新聞の一面にも、偉人の伝記にも載らない。

だが街の一日は、まさにこうした光景でできていた。

偉人の肖像が公式の歴史なら、これは非公式の歴史だといえる。

クリメルの水彩は、「誰を絵に入れるか」という選択の記録でもある。

彼は、当時の絵画が入れてこなかった人々を、画面の中に入れた。

そこに、この連作のかけがえのなさがある。

ただし、そのレンズにも時代の歪みが刻まれている。

描く側と描かれる側の間には、越えがたい隔たりがあった。

名前を残せた者と、残せなかった者の差も、そのまま写っている。

記録として見ること。視線の偏りを忘れないこと。

その両方を携えて向き合うのが、この種の絵の正しい使い方だろう。

絵をうのみにもせず、切り捨てもしない。

二百年前の紙と、そういう距離で付き合いたい。

鈴の音の残る街へ

雪の街路を走る、そりの鈴の音に戻りたい。

大理石の銀行は、権力の側の建物である。

だがクリメルの画面では、それは背景に退いている。

前にいるのは、笑いながら雪の上を滑っていく人々である。

移民の画家は、その順序をためらいなく選んだ。

立派なものより、生きて動いているものを前に置く。

その選択が、アメリカの絵画に新しい扉を開けた。

帳面ほどの紙の上で、二百年前の街が今も動いている。

歩き、働き、踊り、見物し、そして描かれた人々がいる。

その一人ひとりに、名前と暮らしがあった。

小さな水彩の前で、そのことを思い出したい。

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