外交官が見たアメリカ——パーヴェル・スヴィニンの画帖
ロシアの外交官スヴィニンは、1810年代のアメリカを画帖に記録した。乗り物、労働、宗教の場面。ただし雑誌の版画を写した一枚も混じっている。記録という言葉の中身を九点で確かめる。何が描かれていないかも、あわせて見ておきたい。

表紙に、フランス語が書かれている
一枚の紙から始めたい。

絵ではない。文字だけの紙である。
大きな飾り文字で、フランス語の題が書かれている。
読める範囲を訳すと、「アメリカ合衆国への絵画的旅行」となる。
その下に作者の名。さらに下に「1811年、1812年、1813年」と年が並ぶ。
つまりこれは、画帖の表紙である。
三年間の滞在で描いた水彩をまとめ、一冊の体裁を与えている。
描いたのは、ロシアの外交官
作者はパーヴェル・ペトロヴィチ・スヴィニン。
ロシアの外交官として、アメリカに派遣された人物である。
滞在は1811年から1813年。まだ建国から四十年ほどの国だった。
職業画家ではない。公務のかたわら、見たものを水彩で記録している。
題がフランス語であることにも意味がある。
当時の外交と教養の言語はフランス語だった。
つまりこの画帖は、ロシアの読者や本国の関係者に見せるために作られている。
アメリカを紹介するための資料である。
寸法にも注目したい。表紙は縦23.5センチ、横40.2センチ。
横に長い紙で、中の水彩よりも大きい。
つまり画帖は横長の綴じ物として構想されていた。
一枚ずつの水彩を台紙に貼り、順に見せる形式だろう。
現在は一枚ずつ収蔵されているが、もとは一つの束だった。
組物が散らばる話は、他の分野でも繰り返し起きている。
図譜の頁が一枚ずつ売られた例は別のコラムで扱った。
当サイトには、この画帖の水彩が44点公開されている。
44点という数は、記録としてまとまった量である。
一点ずつ見れば小さな水彩だが、並べれば国の紹介になる。
主題を分類してみると、傾向が見える。
都市の建物、乗り物、川と滝、漁と労働、宗教の儀式、そして人物。
風景画としての美しさよりも、情報の網羅が優先されている。
観光の絵ではなく、報告書に近い性格を持っている。
最初の一枚は、上陸の場面である

小さな水彩である。縦15.7センチ、横22.5センチ。
画面の中央に、円形の建物が立っている。
木の柱が並び、屋根は円錐形。上に高い旗竿が伸びる。
旗竿には星条旗が掛かり、風にはためいている。
右には細長い樹が二本。手前に柵と、歩く人影が二つ。
奥には水面と、対岸の低い建物が続く。
空は薄い灰色で、雲が横に流れている。
これはニューヨークの港の入口にあたる場所である。
つまり船から降りて、最初に目にする眺めということになる。
外国人の視点から見たアメリカの入口である。
問い——外交官の画帖は、何を記録したのか
ここから本稿の問いに入りたい。
職業画家ではない人が、三年間かけて記録を作った。
そこには何が選ばれ、何が省かれたのか。
そして、すべてが実見にもとづくのか。
44点のうち九点を並べて確かめていきたい。
先に結論を書いておく。
この画帖は目撃の記録であり、同時に編集物である。
印刷物からの複写が混じっていることが、所蔵館の調査で分かっている。
その区別ができることが、資料としての価値を支えている。
外交官の仕事と、絵の関係
外交官がなぜ絵を描いたのか。
18世紀から19世紀の外交では、赴任先の情報を集めることが任務の一部だった。
地理、産業、軍備、習俗、政治の状況。
その報告に、図が添えられることは珍しくない。
写真がない時代である。図は情報の運搬手段だった。
つまりこの画帖は、公務と趣味の境目にある仕事である。
同時に、本人の関心も反映している。
風景の構図、色の扱い、樹の描き方。
義務だけで描いたとは思えない密度がある。
のちにこの人物は、雑誌の発行にも関わったと伝えられる。
記録し、編集し、公にする。その一連の関心が画帖にも現れている。
乗り物を、正面から記録する

道を、馬車が走っている。
車体は黄色く塗られ、屋根は黒い。側面に文字が読める。
客が六人ほど乗り、うち二人が窓から身を乗り出している。
御者は前方の席に座り、鞭を持つ。
馬は四頭。白と灰色で、二列に並んで駆けている。
道は土で、左に樹と草、右に岩と川が見える。
つまり乗合馬車の様子を、外から観察して描いている。
車体の色、屋根の形、車輪の数、馬の頭数。
いずれも交通の仕組みを伝える情報である。
外国の読者にとって、これは実用的な記録になる。
どうやって移動するのか、何人乗れるのか、道はどんな状態か。
技法にも触れておきたい。
水彩に加えて、グワッシュとペンが使われている。
グワッシュは不透明の絵具で、明るい色を上から置ける。
馬車の黄色や馬の白は、この不透明の絵具だろう。
ペンの線は、車輪の輻や手綱のような細部に使われている。
透明水彩だけでは、こうした細い線と強い色は出しにくい。
記録のための絵では、材料を組み合わせるほうが有利である。