美術史・技法

「記録」という言葉を、疑ってみる——ジョージ・カトリンの肖像

カトリンの絵は「消えゆく人々の記録」として売られ、有料で公開された。捕虜として描かれた肖像、そろえられた寸法、番号を振られた後年の連作、目撃できない主題の絵。記録という主張がどう作られたのかを、所蔵館の記録と突き合わせて検証する。

ムク・ア・タ・ミシ・オ・カ・カイク(ブラック・ホーク)、サック族の著名な首長
ジョージ・カトリン《ムク・ア・タ・ミシ・オ・カ・カイク(ブラック・ホーク)、サック族の著名な首長》スミソニアン協会蔵

記録と呼ばれている絵

一枚の肖像から始めたい。

ムク・ア・タ・ミシ・オ・カ・カイク(ブラック・ホーク)、サック族の著名な首長
ジョージ・カトリン《ムク・ア・タ・ミシ・オ・カ・カイク(ブラック・ホーク)、サック族の著名な首長》1832年。油彩・画布。縦73.7センチ、横60.9センチ。スミソニアン米国美術館蔵。ジョージ・カトリン《ムク・ア・タ・ミシ・オ・カ・カイク(ブラック・ホーク)、サック族の著名な首長》スミソニアン協会蔵

中年の男性が、正面をわずかに外してこちらを見ている。

頭は剃り上げられ、頂に短い髪の房が立つ。房の根元に赤い布が巻かれている。

両耳に、銀の輪が幾重にも下がっている。

白い鹿革の上衣。肩と胸の縁に長い房飾りが垂れている。

首には貝と骨を連ねた首飾りが四、五連。

左腕には黒い鳥の皮が抱えられ、その尾羽が扇の形に広げられている。

背景は灰緑の雲。人物の輪郭を柔らかく囲んでいる。

顔の描き方は丁寧である。眉間の皺、頬のたるみ、下唇の乾きまで拾っている。

この絵が描かれた場所

所蔵館の解説を読むと、この絵の条件が分かる。

1832年10月、セントルイス近郊の軍施設で描かれた。

描かれた人々は、そこに捕虜としていた。

同じ年に起きた戦いに敗れ、収容されていたのである。

画家自身も、そのことを書いている。

将軍に敗れて戦争捕虜となり、ワシントンをはじめ東部の諸都市を回されたと。

回された理由について、画家は「見物されるために」と書いている。

引用は、いずれも所蔵館が作品解説に載せている本人の著書からのものである。

画家の来歴を、先に押さえる

ジョージ・カトリンは1796年、ペンシルベニア州の町に生まれた。

はじめは法律の仕事につき、のちに絵に転じている。細密画と肖像から始めた画家である。

1830年、彼はセントルイスへ移った。西部へ向かう旅の起点である。

以後、1830年代を通じてミズーリ川の上流やその周辺を回り、多数の肖像と風俗の場面を描いた。

その集まりを、彼は「インディアン・ギャラリー」と名づけた。

1837年から、アメリカ各地で有料の展示として公開している。

その後ロンドンとパリでも見せた。入場料と図録と講演で収入を得る興行である。

彼は繰り返し、この集まりを国に買い取らせようとした。実現しなかった。

所蔵館の受け入れ記録は「ハリソン夫人の寄贈」となっている。

負債の担保として実業家の手に渡り、その死後に夫人から寄贈されたと説明されることが多い。

現在は当サイトでも412点を公開している。うち55点がスミソニアン、351点がワシントンの所蔵である。

ここで立ち止まりたい。

この絵は、一般に「消えゆく人々の記録」として紹介されてきた。

しかし少なくともこの一点は、敗者が収容された場所で描かれている。

そして描いた本人は、捕虜が見物に供されたことを承知していた。

さらに言えば、彼自身の展示も見物の商いだった。

有料で人を入れ、絵を並べ、説明を語る。捕虜を回した興行と、形が似ている。

1840年代のヨーロッパ巡回には、先住民の一団が同行して踊りを見せている。

当サイトが公開する晩年の連作にも、その一行の人物とされる肖像が含まれる。

絵を見せる商いと、人を見せる商いが、地続きになっていた。

記録は、主張でもある

本稿の問いは一つである。

「記録」という言葉は、絵について何を保証するのか。

先に立場を書いておく。私たちはこの画家の絵を、価値のある資料だと考えている。

同時に、無批判な記録としては扱えないとも考えている。

理由を、絵の側から示していきたい。

エ・トー・ク・パ・シェ・ピー・シャ(ブラック・モカシン)、老いた首長
ジョージ・カトリン《エ・トー・ク・パ・シェ・ピー・シャ(ブラック・モカシン)、老いた首長》1832年。油彩・画布。縦73.7センチ、横60.9センチ。スミソニアン米国美術館蔵。ジョージ・カトリン《エ・トー・ク・パ・シェ・ピー・シャ(ブラック・モカシン)、老いた首長》スミソニアン協会蔵

こちらは老人である。白い衣に身を包み、地面に座っている。

長い煙管を斜めに抱え、右手で軸を握っている。

衣の裾には、円形の飾りが等間隔に並ぶ。足元に刺繍のある履物が見える。

右手には槍と盾、羽根飾りの束が立てかけられている。

顔は深く皺が寄り、目は細い。口はわずかに開いている。

所蔵館の解説には、この老人の住居に数日間泊まったという本人の文章が引かれている。

数日である。長期の観察ではない。

一人あたりに使える時間は短い。だから顔と持ち物に集中し、他を省く。

型を使う理由は、思想よりもまず日程にあった。

背景に注目してほしい。

灰色から緑を帯びた雲があるだけで、場所を示すものが何も無い。

先のブラック・ホークの背景も同じだった。

衣装と持ち物は細かく描かれ、周囲の状況は消されている。

これは意図的な省き方だろう。人物が「型」になり、並べて比較できるようになる。

博物学の図版に近い作りである。

さて、寸法をもう一度見てほしい。

先のブラック・ホークと同じである。縦73.7センチ、横60.9センチ。

肖像の寸法が、すべて同じ理由

この画家の肖像は、寸法がそろっている。

29×24インチ。日本の号数で言えば、10号に近い縦長である。

同じ大きさの画布を大量に用意し、次々に人を座らせて描いた。

1832年の夏、彼はミズーリ川をさかのぼり、多数の肖像を持ち帰っている。

寸法をそろえる利点は明らかだ。運びやすく、並べやすく、額を共用できる。

そして何より、壁に整列させたときに見栄えがする

この絵は最初から、一枚で見せるために作られていない。

数百点を一室に掛けて見せる展示のための、部品である。