三百二十七点が、一つの番号で入る——ジョージ・カトリン
九点とも、1965年の十六番目の群に属する。その群には三百二十七点が含まれる。同じ規格のカンヴァスが繰り返され、額の寸法まで揃う。台紙の札と作者自身の番号も残る。反復の記録を読みたい。年の欄に、疑問符と斜線が入る点もある。

三百二十七点が、一つの番号で入る
ある画家の作品を九点、記録の欄で並べてみる。
九点とも、同じ番号の頭を持つ。
1965年に受け入れた、十六番目の群。
そのあとの枝番だけが違う。
この群には、三百二十七点が含まれている。
一人の画家の作品が、それだけまとまって入った。
出所の行も、九点とも同じである。
ある収集家の名を冠したコレクション。
三百二十七点すべてが、その一行で括られる。
前の回の記事で、群でまとめて入る作品を何度も見た。
これは、その中でもとくに大きな群である。
技法の欄が、二つに分かれる
九点の技法の欄を見ると、二種類ある。
七点が、板紙に貼った厚紙に油彩。
二点が、カンヴァスに油彩。
前者は、厚い紙に描いたものを、さらに板紙に貼っている。
後者は、ふつうの絵画と同じ作りだ。
そして、寸法もそれに対応して分かれる。
紙の七点は、いずれも横長で、四十五から四十七センチ。
カンヴァスの二点は、縦長で、七十一から七十二センチ。
技法が違えば、形も大きさも違う。
同じ画家の作品でありながら、二つの系統がある。
年の欄を見ると、その事情がさらに見えてくる。
年が、三十年離れている
九点の年の欄を並べてみる。
カンヴァスの二点は、1830年と1843年。
紙の七点は、いずれも1861年前後である。
三十年の隔たりがある。
つまり、この画家は若いころにカンヴァスに描いた。
そして晩年に、紙に描いた作品を大量に作った。
紙の七点は、寸法がほぼ揃っている。
横六十センチ前後、縦四十六センチ前後。
規格が決まっていたことになる。
前の回の記事で、規格が揃う小柄について書いた。
同じ現象が、絵画でも起きている。

縦長の画面に、女性が胸から上で描かれる。
顔はやや右を向く。
髪は中央で分けられ、後ろへ流れる。
頭に、細い赤い帯を巻く。
耳に、青い飾りが下がる。
首もとに、青と白の玉を連ねた飾りが三重に回る。
その下に、赤い模様の布が見える。
肩から、白い毛皮を掛ける。
毛皮は柔らかく、光を受けて白く輝く。
背景は褐色で、平らに塗られる。
顔と毛皮の白さが、その中で際立つ。
額の寸法が、書かれている
いま見た一点の寸法の欄には、二段目がある。
額装した状態の大きさである。
画面が縦72.2センチ、額込みで81.3センチ。
九センチの差がある。
カンヴァスの二点だけに、この二段目がある。
紙の七点には、額の寸法がない。
額に入っていないのだろう。
台紙に貼られた状態が、そのままの姿である。
前の回の記事で、額の寸法を書く例を何度か見た。
書かれているかどうかが、いまの状態を示している。

縦長の画面に、男性が胸から上で描かれる。
顔は正面を向き、こちらを見る。
頭に、羽根を密に立てた被り物をかぶる。
羽根は暗い褐色で、縁が赤い。
額と頬に、赤い顔料が塗られる。
鼻筋に、白い線が入る。
首もとに、細長い白い筒を並べた飾りが幾段も重なる。
その下に、爪を連ねた首飾りが弧を描く。
衣は淡い褐色の革である。
肩に、赤と緑と青の帯が縫い付けられる。
背景は緑がかった褐色で、平らである。
台紙の上に、札が貼られる
紙の七点の写真を見ると、共通の作りがある。
いずれも、緑がかった板紙の上に、絵の紙が貼られる。
板紙は絵より一回り大きく、額縁のように縁を作る。
そして、板紙の中央上部に、小さな札が貼られる。
札には、数字が書かれているらしい。
写真では、細かくて読めない。
館の銘記の欄を読むと、その数字が写されている。
板紙の上部中央に、桃色の絵具で数字。
裏面の上部中央に、鉛筆で別の数字。
つまり、表と裏に別々の番号がある。
館は、その両方を記録している。

横長の紙が、緑の板紙に貼られる。
板紙の上部中央に、小さな札がある。
絵の中央に、人々が輪をなして立つ。
数えると、二十人ほどいる。
いずれも横向きで、右へ向かって進む。
頭に羽根を立て、体を前に傾ける。
腕を前後に振る姿勢である。
右端には、座っている人が数人いる。
地面は黄緑で、簡単に塗られる。
上部は淡い青で、雲が薄く広がる。
人物のまわりだけが描かれ、周囲は白い紙のままだ。
作者自身の番号が、銘記の欄にある
九点のうち三点の銘記の欄には、変わった記載がある。
紙の左下に、記号と数字の組が書かれている。
記号は一文字、そのあとに斜線と二桁の数字。
八十六、九十二、九十三。
つまり、連続する番号である。
これは、館が付けた番号ではない。
館の番号は、別に1965年の枝番として存在する。
紙に書かれた番号は、作者自身が付けたものだろう。
三百点を超える作品を作れば、整理する番号が要る。
前の回の記事で、作った側の型番について書いた。
ここでは、作った本人が通し番号を振っている。
番号が、記録の二つの層になる
一つの作品に、二つの番号がある。
作者が付けた番号と、館が付けた番号。
そして、板紙の表と裏にも、別々の数字がある。
さらに、貼られた札にも数字がある。
つまり、四つの数の体系が同じ一点に重なっている。
館の記録は、そのすべてを銘記の欄に写す。
意味を解かずに、あるものをそのまま書く。
前の回の記事で、同じ態度を何度も見てきた。
意味が分からないものを、分からないまま残す。
後から分かる人が現れるかもしれないからだ。

板紙は褐色で、ほかの点より濃い。
その上に、絵の紙が貼られる。
紙の上に、大きな楕円の枠が描かれる。
枠の内側だけが、灰色に塗られる。
外側は、紙の色のままである。
楕円の中に、男性が三人立つ。
いずれも正面を向く。
頭に羽根を立て、長い衣をまとう。
衣の裾には、細い房が並ぶ。
中央の一人は、白い衣に模様を描く。
足もとの地面だけが、黄緑に塗られる。
楕円の枠が、二点にある
九点のうち二点には、楕円の枠が描かれている。
紙の上に、直接描かれた枠である。
額の代わりだろうか。
残る五点には、枠がない。
同じ規格の紙に、同じ大きさで描かれながら、扱いが違う。
館の記録は、この枠について何も書かない。
技法の欄にも、寸法の欄にも出てこない。
写真を見なければ、分からない。
前の回の記事で、記録の欄が形を書かない例を何度も見た。
装飾の細部は、たいてい欄の外にある。

緑の板紙に、絵の紙が貼られる。
紙の上に、楕円の枠が描かれる。
枠の外は、灰色に塗られる。
楕円の中に、円錐形の住居が立つ。
表面は白く、縦の筋が見える。
上部に、細い棒が幾本も突き出る。
その左に、木が茂る。
住居の前に、人が二人立つ。
手前にも、座っている人がいる。
右奥に、水面と小舟が見える。
上部は淡い青で、空を表す。
年に、疑問符が入る
いま見た一点の年の欄には、括弧と疑問符がある。
三桁の数字は読めるが、四桁目が確実でない。
そういう書き方である。
銘記の欄にも、同じ形で写されている。
つまり、絵に書かれた年がそう読めるのだ。
館は、読めたところまでを写し、読めない部分に疑問符を置く。
推測で埋めない。
前の回の記事で、銘記の欄の書き分けについて何度も書いてきた。
読めた字と、補った字を分ける。
その原則が、ここでも守られている。
年の欄に、斜線が入る
九点のうち七点は、年が一年で書かれている。
しかし、この群の全体では、そうではない。
三百二十七点のうち、百五十七点の年の欄はこうなっている。
1861年から1869年、と斜線で結ばれた形だ。
八年の幅である。
さらに八十五点は、1854年から1869年。
十五年の幅がある。
つまり、大半の作品は年が特定されていない。
年が書かれている作品だけが、一年に定まる。
前の回の記事で、年の欄の斜線について書いた。
幅を示す使い方と、二つの時点を示す使い方があった。
ここでは、幅を示している。

緑の板紙に、絵の紙が貼られる。
板紙の上部中央に、小さな札がある。
絵の中央に、三人が立つ。
左の一人は、白い長い衣をまとう。
腕に、小さな子を抱く。
中央の一人は、頭に羽根を高く立てる。
胸に、円い盾のようなものを掲げる。
盾の面には、模様が描かれる。
右の一人は、上半身が裸である。
手に、細い棒を数本持つ。
足もとの草だけが、緑に塗られる。
描かれた人の名は、記録にない
九点の題を見ると、多くは集団を指す言葉である。
三人の男性、三人の球技者、といった書き方だ。
そのあとに、その人々が属する集団の名が続く。
個人の名は、書かれていない。
九点のうち、個人を特定できる題は一つもない。
一方、この画家の初期の作品には、個人の肖像がある。
九点のうちカンヴァスの二点が、それにあたる。
しかし、その題も個人名ではない。
集団の名と、その人の立場を示す語である。
館の記録は、描かれた人の名を書く欄を持たない。
被写体の名は、題の中に書くしかない。
そして、題は画家が付けたものである。
題の言葉は、十九世紀のものである
九点の題に出てくる集団の名は、当時の綴りである。
いまその集団が自ら用いる呼び方とは、違うことが多い。
館は、題を書き換えていない。
作者が付けた題を、そのまま記録している。
前の回の記事で、記録が名を消さない話を何度も書いてきた。
書き換えれば、当時の資料との接続が切れる。
書き換えなければ、いまの呼び方と食い違う。
どちらを選んでも、問題が残る。
この記事では、集団の名を題の表記に従って書いた。
そのことを、断っておきたい。

淡い板紙に、絵の紙が貼られる。
絵の中央に、三人が立つ。
いずれも上半身が裸である。
左の一人は、右手に長い網の付いた棒を持つ。
腰から、白い布が垂れる。
中央の一人は、両手に棒を一本ずつ持つ。
頭に羽根を立て、腰に房を巻く。
右の一人も、同じ形の棒を持つ。
三人とも、体をやや傾ける。
足もとの地面だけが、黄緑に塗られる。
背景は、白い紙のままである。
来歴の欄が、九点とも同じ
九点の来歴の欄を読むと、一字も違わない。
作者から、その三人の娘へ。
娘の一人から、1912年に自然史の博物館へ。
そして、そこから収集家の手を経て館へ。
三百二十七点が、同じ経路をたどっている。
つまり、作者の死後も群として動いてきた。
ばらされずに、まとまったまま百年以上が過ぎた。
前の回の記事で、群の性格について何度も書いてきた。
まとまっていることが、その群の価値でもある。
ばらせば、通し番号の意味が失われる。
館は、群として受け入れ、群として保っている。

緑の板紙に、絵の紙が貼られる。
板紙の上部中央に、小さな札がある。
絵の中央に、人々が密集して立つ。
数えると、二十人ほどである。
いずれも横向きで、右へ進む。
頭に、羽根を一本ずつ立てる。
腕を前後に振り、膝を曲げる。
体はいずれも褐色で、輪郭が細い。
先頭の一人だけが、こちらを向く。
地面は黄緑で、簡単に塗られる。
上部は淡い青で、雲が薄い。
銘記のない一点
いま見た一点の銘記の欄は、空である。
署名も、年も、番号も書かれていない。
九点のうち、二点がこの形だ。
いずれも、作者の初期のカンヴァスと、この一点である。
署名がなくても、年の欄には1861年とある。
つまり、別の根拠で年が判断されている。
群の中の位置か、様式か。
館は、根拠を書かない。
前の回の記事で、年の根拠について何度も書いてきた。
書かれていない根拠を、推測で埋めない。

緑の板紙に、絵の紙が貼られる。
絵の中央に、三人が立つ。
左の一人は、白い衣を体に巻く。
衣の面に、赤い星形の模様が描かれる。
中央の一人は、円い盾を持つ。
盾の面に、赤い模様がある。
右の一人は、白い衣に赤い線を引く。
三人とも、頭に羽根を立てる。
足もとの草だけが、緑に塗られる。
背景は白い紙のままで、輪郭のまわりだけ淡く青い。
分類の欄が、九点とも同じ
九点の分類の欄には、いずれも絵画とある。
紙に描かれ、板紙に貼られたものも、絵画である。
素描でも、水彩でもない。
油彩で描かれているからだろう。
前の回の記事で、分類の基準について何度も書いてきた。
材料で分けるか、形式で分けるか、用途で分けるか。
ここでは、絵具の種類が決め手になっている。
紙に油彩で描けば、絵画。
同じ紙に水彩で描けば、水彩画。
支持体ではなく、絵具で分けている。
そのため、寸法も形式もまるで違う二系統が、同じ分類に入る。
分類の名は、中身の均質さを保証しない。
出所の一行が、群を隠す
九点の出所の行は、収集家の名を冠したコレクションとだけ書く。
三百二十七点が、その一行の下にある。
しかし、行そのものは短い。
読んだだけでは、群の大きさが分からない。
前の回の記事で、二千点を超える群を一行で括る例を見た。
短い行ほど、広い範囲を指す。
群の大きさを知るには、番号を数えるしかない。
同じ枝番の頭を持つ作品が、いくつあるか。
館の記録は、その数を書く欄を持たない。
数えるのは、読む側の仕事である。
同じ形式を、三百回繰り返す
九点を並べ終えて、この群の性格を考えたい。
同じ大きさの紙に、同じ作りで描く。
同じ台紙に貼り、同じ位置に番号を書く。
それを、三百回以上繰り返す。
これは、絵画というより、揃いの品の作り方に近い。
前の回の記事で、揃いの刀装具や記念章について書いた。
規格が決まり、中身だけが変わる。
そして、通し番号が振られる。
一点ずつが独立した作品でありながら、群として作られている。
館の記録は、群であることを番号でしか示さない。
三百二十七点が同じ枝番の頭を持つ、という事実だけだ。
その事実を読むには、複数の記録を並べるしかない。
描かれた場面について
九点のうち四点は、大勢が集まる場面である。
題には、踊り、あるいは競技の名が付く。
いずれも、その集団の儀礼や遊びを描いたものとされる。
しかし、館の記録には説明の欄がない。
作者が実際にその場を見たかどうかも、書かれていない。
晩年の三百点は、以前の作品をもとに作り直されたと言われる。
その説の当否を、こちらで判断することはできない。
確かなのは、記録が年と技法と寸法しか書かないことだ。
描かれた内容の正確さについて、館は何も保証していない。
九点を見て言えるのも、そこまでである。
九点を閉じて、記録に戻ってみる。
年、技法、寸法、銘記、出所、番号。
六つの欄だけで、三百二十七点が管理されている。
描かれた人の名も、描かれた場所も、欄にはない。
記録は、絵を物として扱う。
物としての性質だけを、正確に書く。
それ以上のことは、書かない。
書かないことは、無関心とは違う。
書けないことを書かないという、一つの態度である。
最後に、九点の寸法をもう一度並べておく。
紙の七点は、縦が44.8から47.2センチ。
横が59.5から63.8センチ。
縦で二センチ半、横で四センチほどの幅に収まる。
手で切った紙だから、完全には揃わない。
それでも、これだけ揃っている。
型で抜いたのではなく、寸法を測って切ったのだろう。
館の記録は、一点ずつミリの単位まで書く。
三百二十七点を、一点ずつ測っている。
その手間が、こうして並べる材料になった。
数字が揃っていることに気づけるのは、数字があるからだ。
揃っていることを書く欄は、どこにもない。
揃っていることは、並べてはじめて見える。
そして、並べるには番号が要る。
番号があるから、群として扱える。
群として扱えるから、繰り返しが見える。








