輸出のために、作りかえる——初代宮川香山
明治の焼き物は輸出品だった。初代宮川香山は、器から蟹や鳥が飛び出す作風で名を上げ、その看板を自分で下ろす。形と釉薬だけで見せる後半の仕事を、七点の静かな器からたどる。売れる物を作ることと、作りたい物を作ること。その優先順位を、途中で変えた人である。

輸出用の焼き物、という前提
明治のはじめ、日本の焼き物は輸出品だった。
外貨を稼ぐための産業として、国が後押ししていた。
万国博覧会に出品し、賞を取り、注文を受ける。
その流れの中で名を上げた人の一人が、初代の宮川香山である。
今回はその仕事を、七点の器から見ていきたい。

丸い胴の壺である。三本の短い脚が付いている。
蓋があり、上に小さなつまみが載っている。
白い地に、赤で文様が描かれている。
文様は渦を巻くような形で、胴全体をめぐっている。
よく見ると、その渦の中に生き物の姿がある。
胴の下のほうに、丸い目と、鱗のような線が見える。
龍のたぐいだろう。渦は雲か水を表しているのかもしれない。
赤は、釉薬の下に置かれている。
つまり、絵付けをしてから釉をかけ、高い温度で焼いている。
釉の下の赤
この赤は、扱いが難しい色である。
銅の成分を使い、酸素の少ない状態で焼くと赤く発色する。
窯の中の条件が少しずれると、色が飛ぶ。灰色になったり、黒ずんだりする。
だから、均一な赤を出すには窯の管理が要る。
この壺の赤は、濃淡はあるがよく出ている。
淡いところは桃色に近く、濃いところは深い臙脂になる。
その濃淡が、文様に立体感を与えている。
塗り分けたのではなく、焼きの結果としてこうなった部分もあるだろう。
横浜という場所
香山が移った横浜についても、少し書いておきたい。
横浜は、幕末の開港で急に大きくなった町である。
外国の商館が並び、輸出品がここから船に積まれた。
焼き物の産地としての歴史は、それまでほとんどなかった。
つまり彼は、産地のない土地で窯を開いたことになる。
これは不利にも見えるが、利点もある。
古い産地には、その土地の様式と決まりがある。
新しい土地なら、何を作っても差し支えない。
輸出先の好みに合わせて、自由に作り替えられる。
真葛焼が独特の道を歩めたのは、この条件と無関係ではないだろう。
もっとも、原料の土や燃料は他所から運ぶ必要があった。
港に近いという立地が、その面でも効いたはずである。
香山という人
初代宮川香山について、記録から分かることを書く。
生年は1842年、没年は1916年とされる。
京都の陶家に生まれ、のちに横浜へ移ったと伝えられる。
横浜は、開港した港である。輸出のための拠点だった。
そこで真葛焼と呼ばれる作を始めた。
初期の仕事は、いまの七点とはずいぶん違う。
器の表面に、鳥や蟹や花を立体的に貼り付ける作風だった。
高浮彫と呼ばれる技法である。
器から生き物が飛び出しているような、驚きのある造形である。
これが海外で評判を取り、博覧会でも賞を得たと伝えられる。
途中で、作風を変える
ところが香山は、この作風を続けなかった。
十九世紀の終わりごろから、方向を変えていく。
立体の装飾を減らし、器の形と釉薬の色で見せる方向へ移った。
いま見ている七点は、その後半の仕事にあたる。
なぜ変えたのか。
一つには、需要の変化が挙げられる。
派手な装飾への関心が薄れ、清らかな磁器が好まれるようになった。
もう一つには、技術的な関心の移動も考えられる。
釉下彩は、焼成の管理が難しい。挑戦しがいのある技法である。
ただし、当人の意図を記した資料を当方は確認していない。
分かるのは、作られた物が明らかに変わった、ということである。
変えることの重さ
作風を変えるのは、簡単なことではない。
評価を得た型を捨てる、ということだからである。
買い手も、卸す側も、以前の作を求める。
それを断って別の物を作るのは、経営としては危うい。
しかも高浮彫は、香山の名を立てた技法である。
その看板を、自分で下ろしたことになる。
七点の器を見ていると、その決断の結果が並んでいる。
派手さはない。むしろ、静かな器ばかりである。
三本の脚
最初の壺に戻って、細部をもう少し見ておきたい。
胴の下に、短い脚が三本付いている。
丸い胴を、そのまま置けば安定しない。脚が要る。
しかし脚の付け方には、いろいろな選択肢がある。
高く立てれば、器は軽やかに見える。低くすれば、どっしりする。
この壺の脚は、ごく短い。胴のふくらみが直に地面へ近づく。
そのため、器は重く、落ち着いて見える。
蓋のつまみも小さく、上へ伸びていない。
つまり、上下ともに主張を抑える設計になっている。
主張しているのは、胴を回る赤い文様だけである。
装飾と造形の役割が、はっきり分けられている。
中国の器を、下敷きにする
この壺の形と文様には、参照元がある。
釉下の赤で文様を描く磁器は、中国で古くから作られてきた。
明の時代の作例が有名で、日本でも珍重された。
香山は、そうした古い名品を研究したと伝えられる。
写しを作ることは、東アジアの工芸では正当な仕事である。
当サイトでも
永樂保全の写しで、
その考え方を扱った。
古い作を学び、同じ方法で作り、自分の名で出す。
模倣ではなく、技術の継承として扱われる。
この壺も、そういう系譜の中にあると考えられる。
ただし、特定の作例を写したという記録は確認していない。
龍の把手
二点目は、注ぎ口のある器である。

白い磁器の水注である。
胴はゆるやかに膨らみ、上へすぼまっている。
首の上に、球のような形の蓋が載る。
左側から注ぎ口が伸び、右側に把手が付く。
その把手が、龍の形をしている。
体をくねらせ、頭を器のほうへ向けている。
龍には金色が施され、青の染付が体に入っている。
胴の白い部分には、ほとんど文様がない。
つまり、装飾は把手の一点に集中している。
装飾を、一点に集める
これは、なかなか計算された作りである。
器全体に文様を回せば、賑やかにはなる。
しかし、どこを見ればよいか分からなくなる。
把手だけに装飾を置けば、目はそこへ行く。
そして白い胴が、その装飾を引き立てる背景になる。
余白の使い方、と言ってもよい。
日本の工芸が長く得意としてきた考え方である。
とはいえ、輸出向けの器では、必ずしもこうはならなかった。
当時の輸出品には、隙間なく文様を詰めた作も多い。
海外の買い手が、そういう物を求めたからである。
その中で、この水注の抑制は目を引く。
対になった二点
三点目と四点目は、一対の作である。


小さな花瓶である。高さ12.1センチ。手のひらに載る大きさだ。
胴は丸くふくらみ、首が細く立ち上がる。
胴の全面に、細かい幾何学の文様が彫られている。
記録では紗綾形とされる。連続する鉤形の文様である。
その彫りの上に、丸い窓が一つ抜かれている。
窓の中には、淡い赤で生き物が描かれている。
一方には馬らしき姿、もう一方には麒麟らしき姿が見える。
二点は形も寸法もほぼ同じで、窓の中身だけが違う。
対で作るということ
対の器は、東アジアの工芸で長く作られてきた。
床の間や棚に左右対称に置くための形式である。
輸出先の西洋でも、暖炉の上に対で飾る習慣があった。
つまり、対で作れば売りやすい。
もっとも、対を作るのは手間である。
寸法も釉の色も、二点でそろえなければならない。
窯の中の位置が違えば、焼き上がりも変わる。
この二点は、そろい方がよい。
彫りの深さも、赤の濃さも、ほぼ揃っている。
同じ窯で、同じ条件で焼かれたのだろう。
彫って、色を差す
この二点の技法にも触れておきたい。
まず生地の段階で、表面に文様を彫る。
細い工具で、一定の深さに刻んでいく。
紗綾形は連続する文様なので、途中で狂うと目立つ。
そのうえに釉薬をかけると、彫りの溝に釉が溜まる。
溜まったところは色が濃くなり、文様が浮かび上がる。
この作では、白い釉の下で文様が静かに見える。
そして窓の中だけに、赤い絵付けが入る。
彫りと絵付け、二つの装飾が組み合わされている。
窓の中の生き物
丸い窓の中に文様を置く形式にも、来歴がある。
一面を文様で埋め、その一部だけを抜いて別の絵を入れる。
抜かれた部分は窓のように見えるので、窓絵と呼ばれることがある。
中国の磁器にも、ヨーロッパの陶磁器にも見られる形式である。
窓があると、視線がそこへ吸い寄せられる。
地の文様が細かいほど、窓の中は際立つ。
この二点でも、紗綾形の細かさが窓を引き立てている。
窓の中の馬と麒麟は、ごく淡い赤で描かれている。
濃く描けば強く出るが、地との対比がきつくなる。
淡くとどめたことで、器全体が静かにまとまっている。
大きさと用途
高さ12.1センチという寸法にも、意味がある。
花を挿すには小さい。一輪挿しとしてなら使えるだろう。
しかし実用というより、飾るための器に見える。
口径3.2センチという細さも、それを裏づける。
輸出向けの小さな器は、持ち帰りやすさとも関係があった。
船で運ぶ以上、小さく壊れにくいほうが都合がよい。
対で買っても、荷物にならない。
そういう事情も、寸法の背景にあったかもしれない。
もっとも、これは当方の推測である。
白い磁器の意味
この二点は、白磁を地としている。
白い磁器は、東アジアの焼き物の到達点の一つである。
不純物の少ない土を使い、高い温度で焼く必要がある。
白ければ白いほど、技術の水準が高いと見なされた。
ヨーロッパでは長く白磁が作れず、輸入に頼っていた。
十八世紀に自国での製造が始まってからも、東洋の磁器は珍重された。
つまり白磁そのものが、輸出の売りだったことになる。
香山の後期の作が白磁に向かったのは、その延長でもあるだろう。
誰が買い、どこへ行ったか
七点はいずれも、いまメトロポリタン美術館にある。
日本で作られた器が、海を渡り、館の収蔵品になった。
その経路には、たいてい個人の収集家が挟まっている。
明治から大正にかけて、日本の工芸を集めた外国人は少なくない。
集めた品が寄贈され、公共の館に入る。
今回の七点についても、そういう来歴が想定される。
ただし当方は、個々の受け入れ経路までは確認していない。
言えるのは、これらが日本国内には残らなかった、ということである。
輸出品として作られた以上、当然ではある。
しかし結果として、明治の工芸を知るには海外の館を見る必要が出た。
当サイトが海外の館の公開画像を扱う理由の一つも、そこにある。
日本で作られた物を、日本語で読めるようにする。
そのために、いったん海を渡った記録を引き戻している。
釉薬だけで見せる
五点目は、文様がない。

細い首が長く伸び、口が広がっている。
胴は下でふくらみ、緩やかに立ち上がる。
首の上部は赤茶色で、そこから下へ緑に変わる。
緑は青みを帯び、胴の下でまた赤茶に戻る。
色の境目は、はっきりしていない。溶け合っている。
これは、描いた色ではない。
釉薬が窯の中で変化してできた色である。
窯変と呼ばれる現象である。
偶然を、設計する
窯変は、完全には制御できない。
窯の温度、酸素の量、置いた位置。それらで色が変わる。
だから同じ物は二つとできない。
ただし、まったくの偶然でもない。
釉薬の調合と焼き方で、傾向は決められる。
つまり、偶然の幅をあらかじめ設計する仕事になる。
香山がこの方向へ進んだのは、そこに関心があったからだろう。
貼り付けた蟹や鳥は、作れば必ずその形になる。
釉薬の色は、開けてみるまで分からない。
作り手の手を離れる部分を、あえて増やしている。
白黒でしか見られない一点
六点目は、当サイトが取得できた画像が白黒である。

胴が大きく張り、そこから首がすぼまり、口が外へ開く。
いわゆる玉壺春に近い形である。
表面には文様がない。釉薬だけの器である。
記録によれば、釉は瑠璃色とされる。
濃い青である。しかし画像は白黒なので、色は見えない。
見えるのは、形と、光の反射だけである。
胴の張りに沿って、白い光の帯が縦に走っている。
釉の表面がなめらかで、よく光を返していることが分かる。
色を欠いた画像でも、質感の情報は残っている。
記録の限界について
こういう例に出会うと、記録の限界を考えさせられる。
当サイトが扱えるのは、提供元が公開した画像である。
古い記録写真しかない作品では、色が分からない。
文字の記録に「瑠璃色」とあっても、その濃さや深さは伝わらない。
とはいえ、記録がなければ存在自体が伝わらない。
不完全な記録と、記録なしのどちらがましか。
答えははっきりしている。
当サイトが白黒の図版もそのまま載せるのは、そういう考えによる。
同じ問題は
アクセッション番号の読み方でも触れた。
緑の地に、白い花
最後の七点目は、色がよく残っている。

小ぶりの花瓶である。高さ14.6センチ。
胴が丸くふくらみ、短い首が立つ。
口は外へ開き、その内側が明るい青緑に見える。
胴の地色は、深い緑である。ほとんど黒に近い。
その上に、白い花と葉が描かれている。
花は数輪、葉は大きく広がっている。
白は厚く盛られ、わずかに立体になっている。
暗い地に白を置くと、形がはっきり出る。
そして地色が深いほど、白は明るく見える。
上絵と釉下彩
七点目の白い花は、釉薬の上に置かれている。
先ほどまでの赤や青は、釉薬の下にあった。
この違いは、焼き方の違いである。
釉下彩は、絵付けのあとに釉をかけ、高温で一度に焼く。
上絵は、釉をかけて焼いた器に絵具を置き、低い温度でもう一度焼く。
釉下彩は色数が限られるが、表面が滑らかで剥がれない。
上絵は色数が豊かだが、表面に凹凸が残り、摩耗しやすい。
この花瓶の白い花に厚みがあるのは、上絵だからである。
指でなぞれば、わずかな段差を感じるはずだ。
香山は、この二つを使い分けている。
同じ人の仕事の中に、複数の技法が並んでいる。
器の内側
もう一点、この花瓶で目につくところがある。
口の内側が、外の緑とは違う色に見える。
明るい青緑で、外側の深い緑と対照をなしている。
器の内側は、ふつう正面から見えない。
にもかかわらず、色が変えられている。
上から覗いたときに気づく仕掛けである。
工芸には、こういう「見えないところの仕事」がしばしばある。
底の削り、高台の処理、蓋の内側の釉。
買った人が手に取って初めて分かる部分に、手が入っている。
七点に共通すること
七点を並べて、共通することを挙げてみる。
まず、どれも小さい。高さは12センチから29センチである。
大きな飾り壺ではなく、手に取れる器ばかりである。
次に、形が端正である。歪みや破調がない。
轆轤で挽いた形を、そのまま生かしている。
そして、装飾が抑えられている。
文様があっても、面の一部にとどまる。
文様がない作も三点ある。
つまり、見せているのは形と釉の色である。
見せ方を、選び直した人
最初の話に戻りたい。
香山は、器から生き物が飛び出す作で名を上げた。
そして、その作風を自分で手放した。
七点の器には、その後の答えが並んでいる。
驚かせるのではなく、じっと見てもらう器である。
輸出の産業として始まった仕事が、そこまで行った。
売れる物を作ることと、作りたい物を作ること。
その二つは、必ずしも対立しない。
ただ、どちらを優先するかの選択は、いつも必要になる。
香山は途中で、優先の順を変えた。
その判断の結果が、いま海の向こうの館に残っている。
小さな器が七点。どれも静かで、よく焼けている。
いま、どう置くか
最後に、こういう器を暮らしの中でどう扱うかを考えたい。
高さ12センチから29センチという寸法は、いまの住まいにも収まる。
棚の上、玄関の飾り棚、机の隅。置ける場所は多い。
文様の少ない器は、周囲を選ばないという利点もある。
強い柄の器は、置く場所の色や質感とぶつかることがある。
無地に近い器は、どこに置いても収まりやすい。
香山の後期の作が静かなのは、結果としてそこにも効いている。
もっとも、これらは美術館の収蔵品である。手に取ることはできない。
できるのは、形と色をよく見ることだけだ。
それでも、器は本来使われるものである。
見るときに、置く場所を想像してみるとよいと思う。
どの棚に、どの高さで、どちらを正面にして置くか。
そう考えると、脚の短さや口の開き方の意味が見えてくる。
作り手は、置かれる場所まで考えて形を決めていたはずである。


