モロー《オイディプスとスフィンクス》の解説——スフィンクスの謎とは何か
モロー《オイディプスとスフィンクス》を解説します。メトロポリタン美術館にある1864年の一点から、スフィンクスの謎の中身、怪物が胸に爪をかける姿、崖の下に散る先の犠牲者、同じ構えで描かれたヒュドラの一点までをたどります。

モロー《オイディプスとスフィンクス》は、ニューヨークのメトロポリタン美術館にある一点である。岩場の崖の上で、翼のある怪物が若者の胸に爪をかける。二人は、まばたきもせず見つめ合っている。

画面は縦に長い。左に翼を広げた怪物がいて、右に裸の若者が立つ。若者は左手で赤い柄の長い槍を立てて握り、その肘を岩にあずける。緑の布が肩から腰へ垂れ、胸には淡い青の帯が斜めに渡る。
《オイディプスとスフィンクス》はどこで見られるか
ニューヨークのメトロポリタン美術館にある。館の記録では、カンヴァスに油彩、縦206.4センチ、横104.8センチである。制作は1864年、収蔵番号は21.134.1とされる。作品ページは《オイディプスとスフィンクス》から開ける。
館の記録では、この絵は収集家ウィリアム・ハリマンの遺贈で館に入った。ヨーロッパ絵画の部門に属する一点である。
描かれた年のうちに、絵は世に出た。ギュスターヴ・モロー美術館の年譜によれば、画家は1864年のサロンにこの絵で戻り、ナポレオン公が買い取った。
展示はいつもあるとはかぎらない。館の都合で壁から下りることもある。確実に見たいときは、行く前に館の展示情報をあたるほうがよい。
モローの絵をまとめて見るなら、パリのギュスターヴ・モロー美術館がある。館の説明では、1852年に両親が画家の名義で買った家で、画家は三階にアトリエを構えた。1895年4月、画家は建築家に頼んでこの家を美術館に造り替えさせた。二階と三階は北向きのガラス張りの大きなアトリエになった。館の説明では、二階のアトリエは、早くから描きついできた大作《求婚者たち》などを掛けるために設けたものだという。
早くから、画家は作品の行く末を気にかけていた。1862年の素描の余白には、ばらばらにすれば作品は滅びる、まとめておけば自分の仕事の姿が伝わる、という書き込みが残る。
画家は1898年4月18日に没し、遺贈は1902年に国に受け入れられた。数百点の油彩と水彩、数千点の素描が、アトリエごと残る場所である。
スフィンクスの謎とは何か
一つの声を持ちながら、四本足にも二本足にも三本足にもなるものは何か、という問いである。古代の神話集『ビブリオテーケー』は、スフィンクスの謎をそう伝える。答えは人である。赤ん坊は四つ足で這い、大人は二本の足で立ち、老人は杖を足して三本になる。
ロンドンのナショナル・ギャラリーの解説は、この謎を「朝は四本、昼は二本、夕は三本」の形で紹介している。日本でもよく知られた形だが、『ビブリオテーケー』の文に朝や夕という言葉は出てこない。どちらの形でも、答えが人であることは変わらない。
同じ書物は、謎の前後も伝えている。スフィンクスは女神ヘラが送った怪物で、女の顔と、獅子の胸と足と尾、鳥の翼を持っていた。謎はムーサたちから教わったものだという。スフィンクスはテーバイの近くの山に居すわり、通る者にこの問いを出した。答えられない者は命を落とした。町の側は、謎が解かれれば怪物から解放されるという託宣を得ていた。そこで、解いた者に王位と先王の妃を与えると布告した、とある。
結末も同じ書物にある。謎を解かれたスフィンクスは、城山から身を投げた。オイディプスは王位を得て先王の妃イオカステを妻とするが、それは実の母だった。ソポクレスの悲劇『オイディプス王』は、その真相が明かされる一日を描く。絵の若者は、まだ何も知らない。
つまり、この絵の場面は命のやり取りである。ただし画面だけでは、答えがまだ出ていないのか、すでに出たのかは決められない。確かめられるのは、二人が至近で向き合い、どちらも動いていないことである。
ロンドンのナショナル・ギャラリーの解説は、ギリシャのスフィンクスを、女の顔と頭と肩、獅子の体、鳥の翼を持つ怪物と説明する。ギリシャの壺の絵にも出てくる。当サイトには、その一例がある。

館の記録では、首の部分に踊る若者、肩に獅子にはさまれたスフィンクス、胴に踊るサテュロスと女たちが描かれる。記録によれば、この形は陶工ニコステネスの目印で、取っ手の下に名が記されている。アテネで作られ、イタリア中部のエトルリアの客に向けた形だという。
壺の絵のスフィンクスは、黒い影のような姿である。翼があり、獣の体に人の頭がのる。モローの絵も、作りは同じである。ただし顔は若い女で、頭には真珠を連ねた青い冠がのり、翼は青と白に塗り分けられている。
ギザのスフィンクスとは同じものか
同じ名で呼ばれるが、姿はかなり違う。エジプトのギザの大スフィンクスは、翼のない獅子の体に人の頭をのせ、地に伏せた巨大な石像である。

館の記録では、パリ育ちのアメリカ人グリーンが、発掘の記録のために写真を学んで撮った一枚である。頭巾をかぶった頭は砂からそびえ、胴の大半は砂に埋もれている。背後にはピラミッドが小さく見える。
謎を出し、オイディプスと向き合うのは、ギリシャ神話の翼ある女の怪物のほうである。モローが描いたのも、こちらである。
画面で何が起きているか
怪物が若者に飛びつき、顔を見上げている。スフィンクスは地面に立っていない。前足を若者の胸にかけ、後ろ足の一本で腰をつかむ。獣の体は宙に浮き、尾が下へ垂れる。
若者は動かない。体はまっすぐ立ち、顔だけを下に向ける。胸に爪がかかっても、槍を握る手は岩にあずけたままである。
足もとに目を移すと、別のものが見える。崖の縁から人の手の指がのぞいている。指は曲がり、縁にしがみついたまま止まっているように見える。右下には大きな足と脚が横たわり、そばに金の冠と赤い布がある。
館の記録に、この部分の説明はない。画面から確かめられるのは、崖の下に人の体の一部が置かれていることである。そして、それが若者の立つ岩より下にあることである。
画面の寸法も効いている。館の記録では縦206.4センチ、横104.8センチである。縦が横の二倍近くあり、人の背より高い。壁の前に立つと、若者はほぼ等身大で見えることになる。
右には細い柱が立ち、その上に大きな器がのる。柱は淡い青と白に塗られ、一匹の蛇が巻きついている。器の縁には獣の頭の飾りが並び、その上を青い蝶が飛ぶ。
左の崖には小さなイチジクの木が生え、暗い紫の実をつける。スフィンクスの体には、赤い珠の首飾りがかかる。背景は灰色がかった空と切り立った岩だけで、建物は無い。
細部はどう見ればよいか
作品ページの図版は拡大できる。まず、二人の顔の距離を見る。鼻先が触れそうなほど近いのに、どちらの表情も動いていない。
次に、スフィンクスの冠と翼、柱の器と蛇、崖の下の冠を見比べる。金と青の細かな描き込みが、画面のあちこちに散っている。最後に崖の下の手と足を見つけると、この静けさの意味が変わって見える。
アングルの《オイディプスとスフィンクス》とどう違うか
同じ主題には、半世紀ほど前のアングルの作がある。ロンドンのナショナル・ギャラリーの解説によれば、第一作は1808年の作で、いまはパリのルーヴル美術館にある。アングルがローマのフランス・アカデミーで学んでいたころ、審査のためにパリへ送った人物習作だった。
アングルはのちに画布を広げ、1827年に描き直した。ロンドンの一点は1826年ごろのやや小さな作で、この描き直しのための習作とみられている。オイディプスの姿勢は、古代のヘルメスの像をもとにしたという。
ロンドンの一点では、右奥の遠くにテーバイの町が見え、画面の下には先の旅人の頭蓋骨と骨が転がる。モローの画面には町が描かれず、岩と空に閉ざされている。
違いは、怪物と若者の距離にある。アングルでは、若者が岩に足をかけて身を乗り出し、謎を問いただす側に立つ。スフィンクスは岩陰の暗がりにいて、主導権は若者の側にある。
モローは、その関係を逆にした。スフィンクスは岩陰から出て若者の胸に取りつき、勝負はまだ決まっていない。崖の下の遺体という道具立ては共通でも、画面の緊張はまったく違う。
アングルの系譜は、モローにとって遠いものではなかった。モロー美術館の年譜は、アングルの弟子だった画家シャセリオーと1851年に親しくなり、その影響が決定的だったと書いている。モローは隣にアトリエを借りるほどだった。

館の記録では、自作の油彩を広めるために、シャセリオー自身が石版に描き直した一枚である。長い髪を両手で持ち上げ、片足に重心をのせて立つ。なめらかな輪郭と静かな姿勢は、モローの若者の立ち姿にも通じる。
モローはどんな画家か
画家は1826年4月6日にパリで生まれた。父は建築家で、息子に古典の教養を授けた。1846年に美術学校へ入ったが、ローマ賞に二度落ちて1849年に学校を離れている。
転機の一つは、1857年から59年のイタリア滞在である。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどで巨匠の作を写し続け、若いドガとも親しくなった。
美術館の解説によれば、ローマではシスティーナ礼拝堂の天井の一部を写し、ヴェネツィアではカルパッチョの連作を数多く写した。ラファエロの幼児の模写は、買いたいという申し出を断り、「わが子」と呼んで手元に置いたという。帰国から5年後のサロンで、この絵が世に出る。
《オイディプスとスフィンクス》で名を得た翌1865年には、皇帝ナポレオン三世にコンピエーニュの宮殿へ招かれている。だが1869年のサロンでは批評に厳しく扱われた。以後1876年までサロンには出していない。1876年のサロンには、《踊るサロメ》や下の《ヘラクレスとレルネのヒュドラ》などを出した。1880年が最後の出品で、1888年に芸術アカデミーの会員に選ばれた。生前の個展は、1886年に画廊で開いた一度きりだった。
晩年の1892年からは、美術学校で教えた。教室からはルオー、マティス、マルケらが出ている。日曜には自宅に教え子を迎えたという。
美術館の解説によれば、モローにとって絵は精神のものだった。自然を写すのではなく、夢を誘い、見る人を別の世界へ運ぶものだと考えていた。一枚ごとに素描を重ね、写し紙と升目で下絵を移す手順をとった。
同じ解説は、モローの画風を寄せ集めから生まれた独自のものと説明する。ミケランジェロの若者像、レオナルドの青みがかった背景と明暗、インドの細密画のしなやかな線。それらが溶け合って、ほかに似たもののない画面になったという。絵は七宝の濃い色に張り合うべきだ、とも考えていた。《オイディプスとスフィンクス》の冠や器の細かな金と青にも、その好みが出ている。
モローはほかに何を描いたか
神話と宗教の主題を、同じように静かな画面で描いた。クリーヴランド美術館の記録は、モローを象徴主義のなかで異色の画家と位置づける。記録は、彼が神話や宗教から取った比較的伝統的な主題を実現した点を挙げる。

シカゴ美術館の記録では、この絵は1876年のパリのサロンに出され、1878年のパリ万国博覧会にも並んだ。記録は、ヘラクレスが十二の難業の二番目として水の怪物ヒュドラに挑む場面だと書く。手前の沼には、先の犠牲者の体が散らばっている。若いヘラクレスは武器を手に、不死の七つめの頭を断とうと構えている。
記録は、暴力的な主題にもかかわらず画面が不気味に静まって見えると述べる。また、モローが細部ごとに下絵を重ね、動物園で生きた蛇まで写生したと記す。
同じ記録は、1870年から翌年の普仏戦争の敗北が画家を深く揺さぶったことにも触れる。ヘラクレスはフランス、ヒュドラはプロイセンを表すのかもしれない、という見方である。館もこれを断定してはいない。画家は1887年、この絵をマルセイユの収集家に売った。記録の展覧会歴によれば、1995年には東京の国立西洋美術館のモロー展にも出品されている。
オイディプスの絵と並べると、組み立てが似ている。若い男が落ち着いて立ち、怪物と向き合い、足もとに先に死んだ者がいる。どちらも、戦いの最中ではなく、その直前か直後の静止した時間を選んでいる。

こちらは宗教の主題である。館の記録では、傷ついた旅人が通りすがりの者に助けられる話を描いている。記録は、サマリア人が自分の馬を譲る場面をモローが選んだと説明する。
画面は横長で、大半が空と荒れ地である。人物は二人と一頭だけで、中央にかたまる。館の記録は、密な宝石のような水彩の層が、場面に現世離れした調子を与えると書く。
怪物と人が組み合う画面はエル・グレコ《ラオコーン》の解説でも扱った。細部に意味を詰めた画面の読み方はデューラー《メレンコリアI》の解説で確かめられる。ほかの作品はギュスターヴ・モローの作品一覧から見られる。


