画家を知る

絵を捨てた発明家——画家サミュエル・モールス

モールス信号の発明者は、人生の前半を画家として生きた。巡回興行に失敗した大作《下院議場》、生計のための肖像、そして国家的注文からの脱落。絵に捨てられた野心が電信へ流れ込むまでの道筋を、画家モールスの八点でたどる。

下院議場
サミュエル・モールス《下院議場》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

夜の議場に、ランプが灯る

一枚の絵から始めたい。

下院議場
サミュエル・モールス《下院議場》1822年(1823年に加筆か)。油彩・画布。縦220.7センチ、横331.8センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。サミュエル・モールス《下院議場》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦220.7センチ、横331.8センチ。壁一面を覆うほどの大作である。

場所はアメリカ連邦議会の下院議場。時刻は夜である。

画面の中央、天井から巨大なシャンデリアが吊るされている。梯子に上った男が、そのランプを灯す準備をしている。

火はまだ、議場の全体には届いていない。

半円形の空間を、円柱の列がぐるりと囲む。柱のあいだには赤いカーテンが垂れる。

高い天井は、傘のように議場を覆う。その下に、机の列が扇形に広がっていく。

机に向かう議員たち。書類を繰る者。立ち話をする者。

夜の審議が、いままさに始まろうとしている。開会前の、ざわめきの時間である。

劇的な事件は何も起きていない。描かれているのは、国の政治が動き出す直前の静けさである。

当時のアメリカで、これほど大きな画面は珍しかった。

しかも主題は、王でも神話でもない。選挙で選ばれた議員たちの、日々の仕事場である。

共和国の日常を、祭壇画なみの大きさで描く。その選択自体が、一つの宣言だった。

八十の顔が、詰め込まれている

近づいて見ると、この絵の異様さがわかる。

議場にいる人物の一人ひとりに、顔が与えられている。80人を超える議員や関係者の、小さな肖像だと伝えられる。

つまりこの絵は、建築画の顔をした肖像画の集積なのである。

画家は実際に議事堂へ通った。議員を一人ずつ座らせ、顔を写し取っていったと伝えられる。

気の遠くなるような手間である。一枚の絵のために、何十もの肖像画を描いたに等しい。

実物どおりの顔が並んでいること。それがこの絵の売りであり、宣伝の言葉になるはずだった。

画面の左下には署名がある。所蔵館の記録によれば「S.F.B. MORSE. pinx / 1822」。

描いたのはサミュエル・モールス。モールス信号の、あのモールスである。

電信の発明者として歴史に残った男は、人生の前半を画家として生きた。

これはその、画家としての人生の話である。

入場料で、稼ぐつもりだった

モールスはこの大作を、注文で描いたのではない。

自費で描き、都市から都市へ巡回させる。会場に絵を掛け、入場料を取って見せる。

そういう興行の計画だったと伝えられる。

一枚の絵を見世物として巡回させる商売は、当時のアメリカに前例があった。

ヴァンダーリンのパノラマも同じ発想である。大画面は当時、劇場や新聞と並ぶ娯楽の器だった。

国の中心である議場を、原寸に近い迫力で観客の前に置く。地方の人々は、行ったことのない首都をこの絵で「見る」ことになる。

写真も電信もない時代である。遠い場所の光景を見せられるのは、絵だけだった。

入場料を払ってでも見たい光景を用意できれば、絵は劇場になる。モールスはそこに賭けた。

構想は壮大だった。しかし客は集まらず、興行は失敗に終わったと伝えられる。

理由はいくつも考えられる。政治の日常風景は、観客の目には地味に映ったのかもしれない。

所蔵館の記録によれば、絵は1823年に手を入れ直されたとみられる。画家は諦めていなかったのだろう。

それでも、二年近い労力を注いだ大作は、売り物のまま画家の手元に残った。

設計図の、小さな断片

この大作のために、モールスは小さな習作を重ねた。その一枚が残っている。

ジョゼフ・ゲールズ
サミュエル・モールス《ジョゼフ・ゲールズ》1821〜22年。油彩・板。縦14.0センチ、横8.9センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。サミュエル・モールス《ジョゼフ・ゲールズ》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦14.0センチ、横8.9センチ。手のひらに載る小さな板である。

描かれているのはジョゼフ・ゲールズ。ワシントンの新聞編集者である。

議員ではない。議場の様子を伝える、報道の側の人間である。画家はそういう顔ぶれまで絵に加えた。

議場の情景に組み込むための、頭部の設計図。筆は速いが、顔の造作は的確に押さえられている。

同じような小さな頭部習作を、モールスは何十枚も用意したと考えられる。

大作の中では豆粒ほどになる顔にも、こうして一人分の肖像が用意された。

巨大な野心の絵は、小さな断片の集積として組み上げられたのである。

牧師の子、歴史画を志す

ここで画家の来歴を確かめておきたい。

モールスは1791年、マサチューセッツ州チャールズタウンに生まれた。

父は牧師である。息子はイェール大学に学び、卒業ののち画家の道を選んだ。

大学では電気をめぐる講義にも触れたと伝えられる。この経験が、のちの伏線になったとも言われる。

若くしてロンドンに渡る。師事したのは、アメリカ出身の大家ベンジャミン・ウェストらである。

ウェストの周りには、大西洋を渡ってきた若いアメリカ人が集まっていた。その教室のことは、当サイトの別のコラムで書いた。

ベンジャミン・ウェストという教師である。

ロンドンでモールスが学んだのは、歴史画だった。

神話や歴史の大場面を、大画面に描く。それが絵画の最高位だと、当時のアカデミーは教えていた。

肖像画はその下に置かれた。生計のための仕事、注文主に仕える仕事とみなされていた。

モールスは頂点を目指した。

だが帰国した若い共和国に、歴史画を買う王室も教会もなかった。市場が求めるのは肖像である。

《下院議場》は、その状況への挑戦だった。注文がないなら、観客から直接に対価を取ればよい。

だが、この画家の名を世界が記憶しているのは、絵によってではない。

問い——なぜ、絵を捨てたのか

ここで問いを立てたい。

なぜ画家モールスは、絵をやめて発明家になったのか。

ある日、天啓のように電信を思いつき、迷わず絵筆を置いた。そんな物語を思い浮かべたくなる。

しかし残された絵を年代順にたどると、話は逆に見えてくる。

捨てたのではない。絵の市場のほうが、先にモールスを捨てたのである。

野心の絵は売れない。生計の絵は売れるが、心が続かない。そして最後の大舞台からも外される。

その空白に、電信が入り込んだ。

「絵をやめた発明家」という呼び名は、だから半分しか正しくない。

やめるまでの二十年あまり、モールスは絵で生き抜こうとし続けた。その跡を、順に見ていく。

象牙の上の、小さな顔

最初期の仕事から始める。

サイラス・マンスフィールド
サミュエル・モールス《サイラス・マンスフィールド》1808年ごろ。象牙に水彩。縦6.8センチ、横4.9センチ。メトロポリタン美術館蔵。サミュエル・モールス《サイラス・マンスフィールド》メトロポリタン美術館蔵

縦6.8センチ。象牙の薄板に水彩で描いた、細密肖像である。

開いた革のケースに収められている。持ち歩き、手元で開いて眺めるための絵である。

ケースごと手のひらに収まる。絵というより、装身具に近い存在である。

写真のない時代、人々はこうした小さな肖像を身につけた。家族や恋人の顔を、旅先へ連れていくためである。

描かれたサイラス・マンスフィールドがどんな人物か、当サイトでは詳細を確認できていない。

1808年ごろの作。モールスがまだ大学にいたころの仕事と考えられる。

学生モールスは、こうした細密肖像を描いて小遣いを稼いだと伝えられる。

なお当サイトで公開しているこの作品の画像は白黒である。所蔵館に残る古い記録写真であり、実物の彩色は写っていない。

象牙の艶も、水彩の淡さも、白黒の画面から想像するほかない。それでも、若い手の丁寧さは伝わってくる。

歴史画を志すより前から、モールスの手元にあった技術。それは、人の顔を小さく写し取る技術だった。

そしてその技術が、生涯にわたって画家の生計を支えることになる。

対の肖像——堅実な仕事

《下院議場》の興行が失敗したあと、モールスは肖像画で暮らしを立てた。

この時期の画家は、注文を求めて土地から土地へ移った。肖像画とは、半ば旅の職業だったと伝えられる。

イライファレット・テリー
サミュエル・モールス《イライファレット・テリー》1824年ごろ。油彩・画布。縦75.7センチ、横63.2センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。サミュエル・モールス《イライファレット・テリー》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵
リディア・コイト・テリー(イライファレット・テリー夫人)
サミュエル・モールス《リディア・コイト・テリー(イライファレット・テリー夫人)》1824年ごろ。油彩・画布。縦75.8センチ、横63.0センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。サミュエル・モールス《リディア・コイト・テリー(イライファレット・テリー夫人)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

夫婦の対の肖像である。寸法はほぼ同じ。並べて掛けるための二枚である。

夫は黒い上着に、白いクラヴァットを高く巻く。落ち着いた、堅実な身なりである。

妻は白いレースの室内帽をかぶり、赤い肩掛けをまとう。

二人とも、暗い背景から静かに浮かび上がる。奇抜さはどこにもない。注文主の望みどおりの、まっとうな肖像である。

夫妻がどんな人物だったか、記録は多くを語らない。ただ絵の中の二人は、手堅く暮らす市民に見える。

所蔵館の記録によれば、二枚は描かれた家の中で受け継がれた。娘から孫娘へ、そして曾孫へ。

1981年、その曾孫にあたる人物から美術館へ贈られている。

対の肖像は、しばしば片方だけが散逸する。二枚がそろって残ったこと自体、大切にされてきた証だろう。

肖像画とは、そういう絵である。家族の記憶とともに生き、壁の上から世代を見守る。

美術館ではなく、家庭のための絵。モールスは、その仕事を確かにこなせる画家だった。

州知事が、椅子に座る

やがて注文主の格も上がっていく。

デ・ウィット・クリントン
サミュエル・モールス《デ・ウィット・クリントン》1826年。油彩・画布。縦76.2センチ、横63.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。サミュエル・モールス《デ・ウィット・クリントン》メトロポリタン美術館蔵

デ・ウィット・クリントン。ニューヨーク州知事である。

エリー運河の建設を推し進め、ニューヨークを大陸の玄関口に変えた政治家。当時のアメリカで、もっとも力のある男の一人だった。

運河が開通したのは、その前年の1825年である。完成を祝う都市の熱気の中で、この肖像は描かれた。

赤い椅子に座り、こちらへ顔を向ける。背後には赤い模様のカーテンが垂れる。

椅子とカーテンの赤が、黒い服の量感を引き締める。権力者の肖像の、定石どおりの舞台装置である。

画面は縦76.2センチ。テリー夫妻の肖像と、ほぼ同じ規格である。注文肖像の、定型の大きさだった。

所蔵館の記録によれば、この絵は1909年に美術館が購入している。

こうした有力者の注文が来る。画家としての評価は、確かに上がっていた。

同じ1826年、モールスはニューヨークで新しい美術家団体の設立に加わった。ナショナル・アカデミー・オブ・デザインである。

画家たち自身が運営し、若い画家を育てる団体だった。初代会長には、モールスが就いた。

肖像は売れた。しかし

つまり、画家モールスは失敗者ではなかった。

肖像の注文は来る。画壇の要職にも就いた。

のちにはニューヨーク大学で、美術の教授職にも就いている。

会長として、絵画の地位を説く講演も行った。若い画家たちを育てる側に、モールスは立っていた。

それでも本人は満たされなかったと伝えられる。歴史画への未練を、語り続けたと伝えられる。

描きたいのは歴史画である。国民に語りかける大画面である。顔を一つずつ写す仕事は、そのための生計にすぎない。

野心の絵は売れず、生計の絵だけが売れる。

この食い違いが、少しずつ画家を疲れさせていった。

そして1830年代、決定的な出来事が続けて起きる。

娘を、詩神として描く

画家モールスの、集大成と呼ぶべき一枚がある。

スーザン・ウォーカー・モールス(ミューズ)
サミュエル・モールス《スーザン・ウォーカー・モールス(ミューズ)》1836〜37年ごろ。油彩・画布。縦187.3センチ、横146.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。サミュエル・モールス《スーザン・ウォーカー・モールス(ミューズ)》メトロポリタン美術館蔵

縦187.3センチ。等身大を超える大画面である。個人の肖像としては、破格の大きさと言ってよい。

描かれているのは長女スーザン。黄金色のドレスをまとい、膝の上に白い紙面を構えている。

鉛筆を手に、視線は宙へ向く。紙はまだ白い。何を描くかを、いままさに考えている。

題は《ミューズ》。娘を、芸術をつかさどる詩神に見立てた絵である。

肖像でありながら、寓意を担う。生計の絵と野心の絵を、一枚で兼ねようとした試みと言ってよい。

紙を前に構想を練る人物。それは、大画面を夢見続けた画家自身の姿にも重なる。

この絵は現在、モールスの画業を代表する一枚に数えられている。

白い紙には、まだ何も描かれていない。これから何でも描ける、ということでもある。

皮肉なことに、この絵がモールスの画業の頂点となった。

一八三七年、名前が呼ばれない

同じころ、ワシントンで大きな計画が動いていた。

連邦議会議事堂の中央には、円形の大広間ロタンダがある。その壁を飾る歴史画の連作を、国が画家たちに発注するのである。

国費で描かれ、国の中心に永久に掛かる。アメリカの歴史画家にとって、これ以上の舞台はない。

モールスは選ばれることを強く望んだと伝えられる。議場をまるごと描いた実績が、自分にはある。

1837年、注文を受ける画家が決まった。

その中に、モールスの名はなかった。

このとき、モールスは40代の半ばである。画壇の重鎮であり、実績もある。それでも呼ばれなかった。

選に漏れた理由は、はっきりとは伝わらない。だが本人はこの落選に深く傷ついたと伝えられる。

以後、モールスが大画面の構想を実らせることはなかった。国家の壁画という夢は、ここで閉ざされた。

野心の絵は売れなかった。生計の絵には疲れた。そして最後の大舞台からも、外された。

絵がモールスに残したものは、もうほとんどなかった。

船の上で、別の火花が

その空白に、別のものが入り込む。

さかのぼる1830年代の初め。ヨーロッパからの帰国船上で、モールスは電磁石をめぐる談話を聞いたと伝えられる。

電気は、導線がどれほど長くても一瞬で伝わるらしい。

ならば信号を電気に乗せれば、距離は消える。船室での着想は、やがて装置の試作へ向かった。

ロタンダ落選ののち、モールスは発明に傾注していく。

開発の道のりは長く、資金にも苦しんだと伝えられる。大学の画室が、装置の実験場になった。

そして1844年。ワシントンとボルティモアを結ぶ電信線で、公開実験が成功する。

打たれた電文は「What hath God wrought」。神の成し給うたことは、という聖書の句だったと伝えられる。

点と線の符号は、のちにモールス信号と呼ばれる。画家の名前は、こうして別の歴史に刻まれた。

電信の事業はやがて、画業では得られなかった富と名声をモールスにもたらした。

最後の、小さな頭部

画業の終わりごろの一枚が残っている。

男の頭部(マグワイア画帖より)
サミュエル・モールス《男の頭部(マグワイア画帖より)》1840年。ペンとインク・紙。縦20.6センチ、横18.7センチ。メトロポリタン美術館蔵。サミュエル・モールス《男の頭部(マグワイア画帖より)》メトロポリタン美術館蔵

八角形に切られた紙に、ペンで描かれた男の頭部である。

1840年。電信の開発に明け暮れていた時期の素描である。

大画面はもうない。国家的な主題もない。あるのは、名も伝わらない男の顔だけである。

それでも線は生きている。顔を的確につかむ手は、衰えていない。

所蔵館の記録によれば、この素描は収集家の画帖に貼り込まれて残った。1926年に美術館へ贈られている。

画帖の中の、小さな一枚。画家モールスの、静かな幕引きである。

見立て——議場と電線は、同じ夢である

ここで最初の大作に戻りたい。

《下院議場》は、何を見せる絵だったか。

首都の議場を、地方の観客の目の前に運ぶ絵である。80の顔を一望させ、国の中枢を「その場にいるように」見せる装置である。

つまりあの絵は、距離を消す機械だった。

画面の中で、議員たちは一つの部屋に集められていた。散らばった国の代表を、一望の下に置くために。

電信は、何をする機械か。

首都の言葉を、一瞬で地方へ運ぶ。国じゅうを一本の線でつなぎ、遠さを消す。

二つは同じ野心の産物である。広い国の全体を、離れた場所から一望させたい。

その夢を、まず絵の具で試みたのが《下院議場》だった。

絵では果たせなかった夢を、モールスは電線で果たした。

転身ではない。続きである。画家モールスと発明家モールスは、同じ一人の夢想家である。

絵は、残った

《下院議場》のその後を、所蔵館の記録がたどっている。

絵は1828年までに、ロンドンの画家仲間の手に渡った。以後、持ち主を転々とする。

一時は西海岸まで運ばれた記録もある。興行の夢を託された絵は、売り物として大陸をさまよった。

やがて画家ダニエル・ハンティントンが買い取り、1911年に美術館へ入った。

2014年からは、ナショナル・ギャラリーの所蔵である。いまはワシントンの壁に掛かる。

議事堂から遠くない美術館で、夜の議場はいまも開場を待っている。

ランプはまだ灯りきらない。80の顔は、光が届くのを待ち続けている。

モールスは1872年、ニューヨークで没した。世界は電信の恩人として、その死を悼んだと伝えられる。

画家としてのモールスが広く見直されるのは、ずっと後のことである。

電信は世界を変え、やがて役目を終えた。絵は売れないまま、いまも残っている。

どちらがモールスの本体だったのか。

梯子の上でランプを灯そうとする、あの小さな男の姿。それが答えのように見えてくる。

絵と発明は、この人の中で最後まで地続きだった。

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