絵を捨てた発明家——画家サミュエル・モールス
モールス信号の発明者は、人生の前半を画家として生きた。巡回興行に失敗した大作《下院議場》、生計のための肖像、そして国家的注文からの脱落。絵に捨てられた野心が電信へ流れ込むまでの道筋を、画家モールスの八点でたどる。

夜の議場に、ランプが灯る
一枚の絵から始めたい。

縦220.7センチ、横331.8センチ。壁一面を覆うほどの大作である。
場所はアメリカ連邦議会の下院議場。時刻は夜である。
画面の中央、天井から巨大なシャンデリアが吊るされている。梯子に上った男が、そのランプを灯す準備をしている。
火はまだ、議場の全体には届いていない。
半円形の空間を、円柱の列がぐるりと囲む。柱のあいだには赤いカーテンが垂れる。
高い天井は、傘のように議場を覆う。その下に、机の列が扇形に広がっていく。
机に向かう議員たち。書類を繰る者。立ち話をする者。
夜の審議が、いままさに始まろうとしている。開会前の、ざわめきの時間である。
劇的な事件は何も起きていない。描かれているのは、国の政治が動き出す直前の静けさである。
当時のアメリカで、これほど大きな画面は珍しかった。
しかも主題は、王でも神話でもない。選挙で選ばれた議員たちの、日々の仕事場である。
共和国の日常を、祭壇画なみの大きさで描く。その選択自体が、一つの宣言だった。
八十の顔が、詰め込まれている
近づいて見ると、この絵の異様さがわかる。
議場にいる人物の一人ひとりに、顔が与えられている。80人を超える議員や関係者の、小さな肖像だと伝えられる。
つまりこの絵は、建築画の顔をした肖像画の集積なのである。
画家は実際に議事堂へ通った。議員を一人ずつ座らせ、顔を写し取っていったと伝えられる。
気の遠くなるような手間である。一枚の絵のために、何十もの肖像画を描いたに等しい。
実物どおりの顔が並んでいること。それがこの絵の売りであり、宣伝の言葉になるはずだった。
画面の左下には署名がある。所蔵館の記録によれば「S.F.B. MORSE. pinx / 1822」。
描いたのはサミュエル・モールス。モールス信号の、あのモールスである。
電信の発明者として歴史に残った男は、人生の前半を画家として生きた。
これはその、画家としての人生の話である。
入場料で、稼ぐつもりだった
モールスはこの大作を、注文で描いたのではない。
自費で描き、都市から都市へ巡回させる。会場に絵を掛け、入場料を取って見せる。
そういう興行の計画だったと伝えられる。
一枚の絵を見世物として巡回させる商売は、当時のアメリカに前例があった。
ヴァンダーリンのパノラマも同じ発想である。大画面は当時、劇場や新聞と並ぶ娯楽の器だった。
国の中心である議場を、原寸に近い迫力で観客の前に置く。地方の人々は、行ったことのない首都をこの絵で「見る」ことになる。
写真も電信もない時代である。遠い場所の光景を見せられるのは、絵だけだった。
入場料を払ってでも見たい光景を用意できれば、絵は劇場になる。モールスはそこに賭けた。
構想は壮大だった。しかし客は集まらず、興行は失敗に終わったと伝えられる。
理由はいくつも考えられる。政治の日常風景は、観客の目には地味に映ったのかもしれない。
所蔵館の記録によれば、絵は1823年に手を入れ直されたとみられる。画家は諦めていなかったのだろう。
それでも、二年近い労力を注いだ大作は、売り物のまま画家の手元に残った。
設計図の、小さな断片
この大作のために、モールスは小さな習作を重ねた。その一枚が残っている。

縦14.0センチ、横8.9センチ。手のひらに載る小さな板である。
描かれているのはジョゼフ・ゲールズ。ワシントンの新聞編集者である。
議員ではない。議場の様子を伝える、報道の側の人間である。画家はそういう顔ぶれまで絵に加えた。
議場の情景に組み込むための、頭部の設計図。筆は速いが、顔の造作は的確に押さえられている。
同じような小さな頭部習作を、モールスは何十枚も用意したと考えられる。
大作の中では豆粒ほどになる顔にも、こうして一人分の肖像が用意された。
巨大な野心の絵は、小さな断片の集積として組み上げられたのである。
牧師の子、歴史画を志す
ここで画家の来歴を確かめておきたい。
モールスは1791年、マサチューセッツ州チャールズタウンに生まれた。
父は牧師である。息子はイェール大学に学び、卒業ののち画家の道を選んだ。
大学では電気をめぐる講義にも触れたと伝えられる。この経験が、のちの伏線になったとも言われる。
若くしてロンドンに渡る。師事したのは、アメリカ出身の大家ベンジャミン・ウェストらである。
ウェストの周りには、大西洋を渡ってきた若いアメリカ人が集まっていた。その教室のことは、当サイトの別のコラムで書いた。
ベンジャミン・ウェストという教師である。
ロンドンでモールスが学んだのは、歴史画だった。
神話や歴史の大場面を、大画面に描く。それが絵画の最高位だと、当時のアカデミーは教えていた。
肖像画はその下に置かれた。生計のための仕事、注文主に仕える仕事とみなされていた。
モールスは頂点を目指した。
だが帰国した若い共和国に、歴史画を買う王室も教会もなかった。市場が求めるのは肖像である。
《下院議場》は、その状況への挑戦だった。注文がないなら、観客から直接に対価を取ればよい。
だが、この画家の名を世界が記憶しているのは、絵によってではない。
問い——なぜ、絵を捨てたのか
ここで問いを立てたい。
なぜ画家モールスは、絵をやめて発明家になったのか。
ある日、天啓のように電信を思いつき、迷わず絵筆を置いた。そんな物語を思い浮かべたくなる。
しかし残された絵を年代順にたどると、話は逆に見えてくる。
捨てたのではない。絵の市場のほうが、先にモールスを捨てたのである。
野心の絵は売れない。生計の絵は売れるが、心が続かない。そして最後の大舞台からも外される。
その空白に、電信が入り込んだ。
「絵をやめた発明家」という呼び名は、だから半分しか正しくない。
やめるまでの二十年あまり、モールスは絵で生き抜こうとし続けた。その跡を、順に見ていく。
象牙の上の、小さな顔
最初期の仕事から始める。

縦6.8センチ。象牙の薄板に水彩で描いた、細密肖像である。
開いた革のケースに収められている。持ち歩き、手元で開いて眺めるための絵である。
ケースごと手のひらに収まる。絵というより、装身具に近い存在である。
写真のない時代、人々はこうした小さな肖像を身につけた。家族や恋人の顔を、旅先へ連れていくためである。
描かれたサイラス・マンスフィールドがどんな人物か、当サイトでは詳細を確認できていない。
1808年ごろの作。モールスがまだ大学にいたころの仕事と考えられる。
学生モールスは、こうした細密肖像を描いて小遣いを稼いだと伝えられる。
なお当サイトで公開しているこの作品の画像は白黒である。所蔵館に残る古い記録写真であり、実物の彩色は写っていない。
象牙の艶も、水彩の淡さも、白黒の画面から想像するほかない。それでも、若い手の丁寧さは伝わってくる。
歴史画を志すより前から、モールスの手元にあった技術。それは、人の顔を小さく写し取る技術だった。
そしてその技術が、生涯にわたって画家の生計を支えることになる。
対の肖像——堅実な仕事
《下院議場》の興行が失敗したあと、モールスは肖像画で暮らしを立てた。
この時期の画家は、注文を求めて土地から土地へ移った。肖像画とは、半ば旅の職業だったと伝えられる。


夫婦の対の肖像である。寸法はほぼ同じ。並べて掛けるための二枚である。
夫は黒い上着に、白いクラヴァットを高く巻く。落ち着いた、堅実な身なりである。
妻は白いレースの室内帽をかぶり、赤い肩掛けをまとう。
二人とも、暗い背景から静かに浮かび上がる。奇抜さはどこにもない。注文主の望みどおりの、まっとうな肖像である。
夫妻がどんな人物だったか、記録は多くを語らない。ただ絵の中の二人は、手堅く暮らす市民に見える。
所蔵館の記録によれば、二枚は描かれた家の中で受け継がれた。娘から孫娘へ、そして曾孫へ。
1981年、その曾孫にあたる人物から美術館へ贈られている。
対の肖像は、しばしば片方だけが散逸する。二枚がそろって残ったこと自体、大切にされてきた証だろう。
肖像画とは、そういう絵である。家族の記憶とともに生き、壁の上から世代を見守る。
美術館ではなく、家庭のための絵。モールスは、その仕事を確かにこなせる画家だった。
州知事が、椅子に座る
やがて注文主の格も上がっていく。

デ・ウィット・クリントン。ニューヨーク州知事である。
エリー運河の建設を推し進め、ニューヨークを大陸の玄関口に変えた政治家。当時のアメリカで、もっとも力のある男の一人だった。
運河が開通したのは、その前年の1825年である。完成を祝う都市の熱気の中で、この肖像は描かれた。
赤い椅子に座り、こちらへ顔を向ける。背後には赤い模様のカーテンが垂れる。
椅子とカーテンの赤が、黒い服の量感を引き締める。権力者の肖像の、定石どおりの舞台装置である。
画面は縦76.2センチ。テリー夫妻の肖像と、ほぼ同じ規格である。注文肖像の、定型の大きさだった。
所蔵館の記録によれば、この絵は1909年に美術館が購入している。
こうした有力者の注文が来る。画家としての評価は、確かに上がっていた。
同じ1826年、モールスはニューヨークで新しい美術家団体の設立に加わった。ナショナル・アカデミー・オブ・デザインである。
画家たち自身が運営し、若い画家を育てる団体だった。初代会長には、モールスが就いた。
肖像は売れた。しかし
つまり、画家モールスは失敗者ではなかった。
肖像の注文は来る。画壇の要職にも就いた。
のちにはニューヨーク大学で、美術の教授職にも就いている。
会長として、絵画の地位を説く講演も行った。若い画家たちを育てる側に、モールスは立っていた。
それでも本人は満たされなかったと伝えられる。歴史画への未練を、語り続けたと伝えられる。
描きたいのは歴史画である。国民に語りかける大画面である。顔を一つずつ写す仕事は、そのための生計にすぎない。
野心の絵は売れず、生計の絵だけが売れる。
この食い違いが、少しずつ画家を疲れさせていった。
そして1830年代、決定的な出来事が続けて起きる。
娘を、詩神として描く
画家モールスの、集大成と呼ぶべき一枚がある。

縦187.3センチ。等身大を超える大画面である。個人の肖像としては、破格の大きさと言ってよい。
描かれているのは長女スーザン。黄金色のドレスをまとい、膝の上に白い紙面を構えている。
鉛筆を手に、視線は宙へ向く。紙はまだ白い。何を描くかを、いままさに考えている。
題は《ミューズ》。娘を、芸術をつかさどる詩神に見立てた絵である。
肖像でありながら、寓意を担う。生計の絵と野心の絵を、一枚で兼ねようとした試みと言ってよい。
紙を前に構想を練る人物。それは、大画面を夢見続けた画家自身の姿にも重なる。
この絵は現在、モールスの画業を代表する一枚に数えられている。
白い紙には、まだ何も描かれていない。これから何でも描ける、ということでもある。
皮肉なことに、この絵がモールスの画業の頂点となった。
一八三七年、名前が呼ばれない
同じころ、ワシントンで大きな計画が動いていた。
連邦議会議事堂の中央には、円形の大広間ロタンダがある。その壁を飾る歴史画の連作を、国が画家たちに発注するのである。
国費で描かれ、国の中心に永久に掛かる。アメリカの歴史画家にとって、これ以上の舞台はない。
モールスは選ばれることを強く望んだと伝えられる。議場をまるごと描いた実績が、自分にはある。
1837年、注文を受ける画家が決まった。
その中に、モールスの名はなかった。
このとき、モールスは40代の半ばである。画壇の重鎮であり、実績もある。それでも呼ばれなかった。
選に漏れた理由は、はっきりとは伝わらない。だが本人はこの落選に深く傷ついたと伝えられる。
以後、モールスが大画面の構想を実らせることはなかった。国家の壁画という夢は、ここで閉ざされた。
野心の絵は売れなかった。生計の絵には疲れた。そして最後の大舞台からも、外された。
絵がモールスに残したものは、もうほとんどなかった。
船の上で、別の火花が
その空白に、別のものが入り込む。
さかのぼる1830年代の初め。ヨーロッパからの帰国船上で、モールスは電磁石をめぐる談話を聞いたと伝えられる。
電気は、導線がどれほど長くても一瞬で伝わるらしい。
ならば信号を電気に乗せれば、距離は消える。船室での着想は、やがて装置の試作へ向かった。
ロタンダ落選ののち、モールスは発明に傾注していく。
開発の道のりは長く、資金にも苦しんだと伝えられる。大学の画室が、装置の実験場になった。
そして1844年。ワシントンとボルティモアを結ぶ電信線で、公開実験が成功する。
打たれた電文は「What hath God wrought」。神の成し給うたことは、という聖書の句だったと伝えられる。
点と線の符号は、のちにモールス信号と呼ばれる。画家の名前は、こうして別の歴史に刻まれた。
電信の事業はやがて、画業では得られなかった富と名声をモールスにもたらした。
最後の、小さな頭部
画業の終わりごろの一枚が残っている。

八角形に切られた紙に、ペンで描かれた男の頭部である。
1840年。電信の開発に明け暮れていた時期の素描である。
大画面はもうない。国家的な主題もない。あるのは、名も伝わらない男の顔だけである。
それでも線は生きている。顔を的確につかむ手は、衰えていない。
所蔵館の記録によれば、この素描は収集家の画帖に貼り込まれて残った。1926年に美術館へ贈られている。
画帖の中の、小さな一枚。画家モールスの、静かな幕引きである。
見立て——議場と電線は、同じ夢である
ここで最初の大作に戻りたい。
《下院議場》は、何を見せる絵だったか。
首都の議場を、地方の観客の目の前に運ぶ絵である。80の顔を一望させ、国の中枢を「その場にいるように」見せる装置である。
つまりあの絵は、距離を消す機械だった。
画面の中で、議員たちは一つの部屋に集められていた。散らばった国の代表を、一望の下に置くために。
電信は、何をする機械か。
首都の言葉を、一瞬で地方へ運ぶ。国じゅうを一本の線でつなぎ、遠さを消す。
二つは同じ野心の産物である。広い国の全体を、離れた場所から一望させたい。
その夢を、まず絵の具で試みたのが《下院議場》だった。
絵では果たせなかった夢を、モールスは電線で果たした。
転身ではない。続きである。画家モールスと発明家モールスは、同じ一人の夢想家である。
絵は、残った
《下院議場》のその後を、所蔵館の記録がたどっている。
絵は1828年までに、ロンドンの画家仲間の手に渡った。以後、持ち主を転々とする。
一時は西海岸まで運ばれた記録もある。興行の夢を託された絵は、売り物として大陸をさまよった。
やがて画家ダニエル・ハンティントンが買い取り、1911年に美術館へ入った。
2014年からは、ナショナル・ギャラリーの所蔵である。いまはワシントンの壁に掛かる。
議事堂から遠くない美術館で、夜の議場はいまも開場を待っている。
ランプはまだ灯りきらない。80の顔は、光が届くのを待ち続けている。
モールスは1872年、ニューヨークで没した。世界は電信の恩人として、その死を悼んだと伝えられる。
画家としてのモールスが広く見直されるのは、ずっと後のことである。
電信は世界を変え、やがて役目を終えた。絵は売れないまま、いまも残っている。
どちらがモールスの本体だったのか。
梯子の上でランプを灯そうとする、あの小さな男の姿。それが答えのように見えてくる。
絵と発明は、この人の中で最後まで地続きだった。


