横49.5メートルの絵——ヴァンダーリンのパノラマ
縦3.6メートル、横49.5メートル。円形の部屋の内壁を一周する、端のない絵である。パリ帰りの歴史画家は、なぜ入場料を取る興行に人生を賭けたのか。若いアメリカで「大きな絵」を志した画家の、野心と挫折の一部始終をたどる。

横49.5メートル、という長さ
一枚の絵から始めたい。ただし今回は、大きさの話から入る必要がある。

縦3.6メートル、横49.5メートル。
数字を書き間違えたのではない。横幅が、およそ50メートルある。
壁一面を覆う、という言い方では足りない。部屋の壁をぐるりと一周してなお余る長さである。
当時の基準でも、歴史画の大作は横数メートルが相場だった。この絵は、その十倍を超える。
実際、この絵は壁に掛けるために描かれていない。円形の部屋の内壁全体に、輪のように張りめぐらすための絵である。
つまり、絵に「端」がない。右端まで歩いていくと、そこは左端につながっている。
当サイトの公開画像は、その設置の様子を写している。メトロポリタン美術館の一室で、画布は大きく湾曲している。
薄暗い円形の部屋の中で、絵の帯だけが明るく光る。
一枚の写真には、絵の一部しか収まらない。全体を見るには、部屋の中で体を回すしかない。
つまりこの絵の「全図」は、どこにも存在しない。体験だけが全図である。
観客は絵の前に立つのではない。絵の内側に立つ。
歩けば景色が動き、立ち止まれば景色も止まる。絵を「見る」というより、絵に「いる」体験である。
美術館というより、遊園地の装置に近い。そしてそれは、間違った印象ではない。
ヴェルサイユの庭に、囲まれる
描かれているのは、ヴェルサイユ宮殿とその庭園である。
視点は庭園の中に置かれている。どちらを向いても、刈り込まれた並木と白い彫像が続く。
噴水があり、池があり、散策する人々の姿がある。日傘の婦人がいて、立ち話をする紳士がいる。
人物はどれも小さな点景である。その小ささが、庭の途方もない広がりを測る物差しになる。
遠くには宮殿の長い建物が横たわる。窓の列が、点のように小さく描き込まれている。
そして空が広い。画面の上半分は、切れ目のない一続きの空である。
360度、どこにも額縁がない。視界の果てまで、すべてが絵である。
視線は上下ではなく、横へ横へと流れていく。首を回すたびに、新しい景色が現れる。
刈り込みの緑、泉水のきらめき、砂利道の白。フランス式庭園の秩序が、視界のすべてを満たす。
画家はパリ時代にこの庭を実際に歩いていたと考えられる。細部の確かさが、それを裏づけている。
絵の内側に立った観客は、大西洋を渡ることなくヴェルサイユの庭に立つ。
19世紀の初めの人々にとって、それはほとんど魔法に近い体験だったと考えられる。
では、なぜこんな絵が描かれたのか。
答えは単純である。これは売るための絵ではなく、見せて稼ぐための絵だった。
絵画でありながら、建築の一部であり、興行の装置である。その出自を、順にたどっていきたい。
パノラマという、見世物
この形式には名前がある。パノラマという。
「すべての眺め」ほどの意味で作られた造語だと伝えられる。
18世紀の末、イギリスで発明された興行である。円形の建物の内壁に、都市や戦場の眺めを360度描く。
観客は入場料を払って中に入る。暗い通路を抜け、中央の観覧台に上がり、ぐるりと見回す。
観覧台の上には覆いが張られ、絵の上端を隠した。足元の仕切りが、下端も視界から消した。
こうして絵の縁が見えなくなると、人はそれを現実のように感じる。この錯覚こそが商品だった。
ロンドンやパリでは専用の建物が次々に建ち、大勢の客を集めたと伝えられる。
パノラマ館は都市の名物となり、演目は数年ごとに入れ替えられた。
題材は都市の眺望や、ナポレオン戦争の戦場が多かったと伝えられる。
新聞が戦勝を報じれば、ほどなくその戦場のパノラマが掛かる。速報性も売り物だった。
写真もなく、映画もない時代である。遠い都市や戦場の光景を「見る」手段は、絵しかなかった。
だからパノラマは絵画であると同時に、報道であり、観光であり、娯楽だった。
この流行は大西洋を渡り、アメリカの諸都市でも興行が打たれるようになったと伝えられる。
暗い部屋に人を集め、大画面で遠い世界を見せ、入場料を取る。
映画館の先祖にあたる見世物、と言ってよいだろう。
描いたのは、パリ帰りの歴史画家
このヴェルサイユのパノラマを描いたのが、ジョン・ヴァンダーリンである。
1775年、ニューヨーク州キングストンに生まれた。1852年、同じ町で没した。
若いころに画才を認められ、有力者の後援を得てパリに渡ったと伝えられる。
そこで本格的に絵を学んだ。ロンドンではなくパリで学んだ、最初期のアメリカ人画家の一人である。
当時のアメリカの画家は、イギリスに学ぶのが普通だった。フランスを選んだ点で、彼は異例だった。
以後、彼は生涯に何度も大西洋を往復する。パリは彼にとって、第二の故郷といってよい町になった。
パリでは歴史画家として認められた。古代史に取材した大作で、サロンの金メダルを得たと伝えられる。
ナポレオン期のパリで、アメリカ人がつかんだ栄誉である。
新大陸の画家が、美術の本場で、最高格の画種で勝負して認められた。最初期の例の一つである。
つまり彼は、興行師である前に、正統の教育を受けた歴史画家だった。
その画家の代表作が、いま美術館に残る最大の作品が、見世物のための絵である。
ここには説明が要る。なぜ彼は、入場料を取る興行に人生を賭けたのか。
問い——なぜ歴史画家が、興行主になったのか
ここで問いを立てたい。
当時の美術には、はっきりした序列があった。頂点は歴史画である。
神話や聖書や歴史を大画面に描く「大きな主題」の絵が、最も高貴とされた。
肖像画はその下に置かれた。技術は要るが、個人の顔を写す仕事にすぎない、と見なされた。
序列には、経済の裏づけがある。歴史画は国家や教会の注文で成り立つ。市場ではなく、制度に支えられる画種である。
裏を返せば、制度のない土地では、歴史画家は生きられない。
その頂点を目指してパリで学んだ画家が、帰国後、見世物小屋の経営に乗り出した。
奇妙な転落に見える。
だが作品を年代順に並べると、見え方が変わる。これは転落ではなく、袋小路からの出口だった。
順に見ていきたい。
白い高襟の、自画像

まず、パリ時代の顔を見ておきたい。
25歳ごろの自画像である。白い高襟に、茶色の上着。
流行の身なりを、簡潔な筆で描いている。
暗い背景から、若い顔がまっすぐこちらを見る。
肌の描写はなめらかで、髪は柔らかく乱れている。
職人の作業着ではなく、紳士の身なりで描いている点にも注意したい。
絵描きではなく、教養ある芸術家として自分を示す。パリで学んだ者の矜持だろう。
まなざしには自信がある。身につけた技術への、静かな確信と読める。
この時期の彼は、アメリカで最も新しい教育を受けた画家の一人だった。
前途は明るく見えたはずである。
クレヨンで描かれた、母と子

同じころの肖像も残っている。
縦20.8センチの小さな紙に、クレヨンで描かれた母子像である。
白い服の母が、幼い息子を胸に抱く。線は柔らかく、陰影はきわめて繊細だ。
母の視線は静かで、子の頬はふっくらと丸い。
所蔵館の記録は、素材をおそらくコンテ・クレヨンと記している。
クレヨンや黒鉛による小さな肖像は、このころフランスで広く流行していた形式である。
彼はパリでその流行に触れ、技法を身につけたと考えられる。
小さな画面に、フランス仕込みの端正な素描の腕が見て取れる。
こうした小さな肖像は、注文主の手元に置かれ、身近な人の記念となった。
油彩の、母と子

こちらは油彩の母子像である。縦93.7センチ。肖像画として堂々とした画面である。
黒い服の母の腕に、白い服を着た金髪の幼児が抱かれる。
夫のウィレットは、独立戦争で名を上げたニューヨークの名士だったと伝えられる。
黒と白の対比が画面を引き締める。顔の描写は精密で、破綻がない。
幼児の肌の透明感と、母の落ち着いた表情。堅実な観察が支えている。
こうした母子の肖像は、富裕な家庭の記念として好まれた。確実に代金の入る仕事である。
肖像画家として、腕は申し分なかった。注文にも困らなかっただろう。
だが本人が本当に描きたかったのは、おそらくこれではなかった。
歴史画の、売れない国
独立して間もないアメリカには、歴史画の市場がほとんどなかった。
教会もなく、宮廷もなく、貴族もいない。大きな主題の絵を注文する者が、そもそもいない。
売れるのは肖像画だけだった。商人が、政治家が、軍人が、自分と家族の顔を注文した。
これはヴァンダーリン一人の問題ではない。
ロンドンのウェストの工房で歴史画を学んだ画家たちも、帰国後に同じ壁へ突き当たった。
歴史画の理想を掲げて帰り、肖像画で食いつなぐ。初期アメリカの画家に共通する軌跡である。
大作を描き上げ、入場料を取って巡回展示する道を試した画家もいた。安定した商売にはならなかった。
同じころ、この国を旅したロシアの外交官がいる。スヴィニンの見聞録である。
その目に映った若い共和国は、芸術より実利を重んじる国だった。
ロタンダという、賭け
そこでヴァンダーリンは、第三の道を考えた。
大きな絵を、一人の注文主にではなく、大衆に直接売る。一枚を売り切るのではなく、入場料で回収する。
それがパノラマだった。
1818年ごろ、彼はニューヨークに専用の円形建築を建てた。「ロタンダ」と呼ばれる建物である。
市の中心部に建てられたと伝えられる。画家が自前で興行場を持ったのである。
その内壁のために描いたのが、冒頭の《ヴェルサイユ宮殿と庭園のパノラマ》だった。
演目の選択には、パリ帰りの自負もにじむ。自分の目で見た本物の庭を、同胞に見せたかったのだろう。
ロタンダでは、パノラマとあわせて自作の歴史画も見せたと伝えられる。
見世物に来た大衆に、本命の歴史画を見せる。そういう計算もあっただろう。
歴史画で鍛えた腕を、丸ごと注ぎ込める大画面。しかも観客が入場料を払ってくれる。
理想と生計を一度に解決する妙案に見えた。
だが、興行は振るわなかった。
客足は伸びなかった。戦場や大火の演目に比べ、静かな宮殿の庭園は地味だったのかもしれない。
共和国の市民にとって、フランス王家の宮殿は遠い主題だった、という見方もできるだろう。
賭けは外れ、画家には借金が残ったと伝えられる。
建物も、やがて彼の手を離れたと伝えられる。40代の画家に残ったのは、巨大な画布だけだった。
それでも、肖像で食いつなぐ

1820年代の末、ヴァンダーリンは50代半ばにさしかかる。
描いているのは、やはり肖像画である。
頬髭をたくわえた紳士が、白いクラヴァットを締めて座る。
暗い背景に、顔だけが明るく浮かぶ。堅実で、破綻のない仕事である。
五十歳を過ぎた画家の筆は、なお安定している。だが画面から、若い日の野心はもう読み取れない。

こちらも同じころの肖像である。
黒い上着の男が書類を手にし、画面の右には赤いカーテンが下がる。
書類は職業を、カーテンは格式を示す。型に忠実な、しかし確かな肖像画である。
生計のための仕事と考えてよいだろう。
パノラマに敗れたあとも、絵で食べていく道は、結局これしかなかった。
かつてサロンの金メダルを得たと伝えられる画家が、一枚ずつ顔を描いて暮らす。
パリでともに学んだ世代のうち、歴史画で身を立てられた者は、ほとんどいなかった。
その胸中は、想像するほかない。
最後の大仕事——議事堂の壁
1830年代、大きな機会が巡ってくる。
連邦議会議事堂の円形大広間を飾る、歴史画の注文である。
その広間には、独立戦争を描いた歴史画が4枚掛かっていた。トランブルの歴史画である。
後年、そこへさらに4枚が加えられることになった。
建国の物語を絵で残す。若い共和国にとって、数少ない歴史画の公式注文だった。
同じ広間に自作を掛けることは、前の世代の画家たちの理想を継ぐことでもあった。
その1枚が、ヴァンダーリンに割り当てられた。主題は《コロンブスの上陸》。1836〜46年ごろの仕事である。
還暦を過ぎての、10年がかりの大仕事である。制作の多くはパリで進めたと伝えられる。

これはそのための人物習作である。
所蔵館の記録によれば、コロンブスの上陸に立ち会った人物の一人を描いている。
大画面の登場人物の一人ひとりに、こうした習作を重ねていく。歴史画の正攻法である。
16世紀風の衣装をまとって立つ姿が、灰色の紙に木炭と白チョークで描かれる。
チョークの白が、衣の張りと光をとらえている。入念な準備の跡である。
国家の壁に歴史画を掛ける。若い日の理想が、ようやく形になろうとしていた。
だが制作は難航したと伝えられる。60代の画家に、大画面はもう重かったのかもしれない。
完成した絵は議事堂に納められた。しかし、この大作が彼の名声を回復することはなかった。
中傷される画家、という主題

最晩年の一枚が、これである。
古代ギリシアの伝説的な画家アペレスにまつわる寓意画である。
古代の文献が伝えるところでは、アペレスは讒言で陥れられ、その体験を絵にしたという。
その失われた絵を、後世の画家たちは文章から再現しようと試みた。ルネサンスの作例が知られる。
画面では、誹謗や嫉妬の擬人像が、無実の若者を王座の前に引き立てる。
王の耳は長く、ささやきに傾いている。左右の従者が、その耳に讒言を吹き込む。
若者は両手を挙げ、身の潔白を訴える。だが行列は止まらない。
画面の左には、裸身の「真実」が立つ。飾りを持たない裸形こそが、偽りのなさのしるしである。
灰色を主体にした、彫刻の浮彫のような群像である。
色数は絞られ、筆致は引き締まっている。華やかさよりも、主題の苦さが前に出る。
74歳のヴァンダーリンが、なぜいまこの主題を選んだのか。記録は多くを語らない。
だが「中傷される芸術家」の物語を、失意の晩年に描いたことは動かない。
自分の画業への、無言の弁明だったのだろうか。
断定はできない。ただ、そう読みたくなる一枚である。
見立て——パノラマは、折衷案だった
改めて、冒頭の巨大な絵に戻りたい。
若いアメリカで「大きな絵」を志すことは、構造的に困難だった。
注文主がいないのなら、大衆から入場料を集めるしかない。
パノラマは、歴史画の理想と興行の現実との折衷案だった。
腕はあった。足りなかったのは、その腕を買う社会のほうだった。
その賭けは外れた。だが発想そのものは、時代を先取りしていたと言えるだろう。
事実、パノラマ興行はその後もアメリカで続いた。19世紀の半ばには、巻き取り式の動くパノラマが人気を集めたと伝えられる。
暗い部屋で、大画面が遠い世界を見せる。その仕組みは後に、映画館として世界を覆うことになる。
ヴァンダーリンの失敗は、早すぎた者の失敗だった。
引き取り——絵は、回り続けている
1852年、ヴァンダーリンは故郷キングストンで没した。貧窮のうちの死だったと伝えられる。
生まれた町と死んだ町が同じである。大西洋を何度も渡った生涯の、静かな終着だった。
興行は失敗し、議事堂の大作も彼に栄光をもたらさなかった。
歴史画家としての名は、長く忘れられかけた。だが絵は、興行の記憶ごと生き延びた。
だが横49.5メートルの画布は、破棄されずに残った。
所蔵館の記録によれば、この絵は1952年、故郷キングストンの団体から美術館へ寄贈された。
画家の没後、ちょうど100年にあたる年である。
いまはメトロポリタン美術館の円形の一室で、ふたたび観客を囲んでいる。
入場料を取る見世物として生まれた絵が、美術館の名品として迎えられている。
湾曲した画布、薄暗い照明、切れ目のない庭園。興行の形が、そのまま保存されている。
絵の内側に立てば、19世紀の観客が味わった驚きを、いまも追体験できる。
ヴェルサイユの庭は、その暗い部屋の中で、今日も静かに回り続けている。


