画家を知る

植民地の独学者が、王の画家になる——ベンジャミン・ウェスト

18歳の硬い植民地肖像から、英国王室の大画面まで。ペンシルベニアの宿屋の子は、ロンドンで歴史画の頂点に立ち、自分の工房を事実上の「アメリカ美術学校」にした。九点で、その異例の出世と、技を配った教師の顔の両方を見る。

サラ・アーシュラ・ローズ
ベンジャミン・ウエスト《サラ・アーシュラ・ローズ》メトロポリタン美術館蔵

十八歳の筆は、まだ硬い

一枚の肖像画から始めたい。

サラ・アーシュラ・ローズ
ベンジャミン・ウェスト《サラ・アーシュラ・ローズ》1756年。油彩・画布。縦73.7センチ、横59.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。ベンジャミン・ウエスト《サラ・アーシュラ・ローズ》メトロポリタン美術館蔵

若い女性が、石の欄干に肘を置いて立つ。

背景は灰青色の空で、頭の後ろだけがぼんやり明るい。

桃色の胴衣に、白い袖。胸元には小さな飾り。

顔は卵形に整えられ、眉は細く、表情は硬い。

腕の付き方はぎこちなく、布の襞は型どおりである。

1756年、作者は18歳だった。

場所はイギリス植民地のペンシルベニア。ロンドンから船で何週間もかかる辺境である。

美術学校はなく、手本になる絵もほとんどない土地である。

この硬さは、独学の硬さである。

当時の植民地で肖像を描いていたのは、看板描きと兼業の職人画家たちだった。

彼らは巡回で村々を回り、型紙のような構図に顔だけを嵌めて描いた。

その世界については巡回肖像画家のコラムで書いた。

若いウェストの絵も、出発点はこの職人的な世界の中にある。

なおこの絵は、20世紀にガービッシュ夫妻という素朴絵画の収集家が集め、
1964年に美術館へ寄贈した一枚である。

つまり後世は、この初期作を「アメリカの素朴画」の文脈で保存した。

同じ画家の晩年が王室の大作に至ることを思うと、収集の分類も面白い。

同じ時期の一組も見ておきたい。

サミュエル・ボウド博士
ベンジャミン・ウェスト《サミュエル・ボウド博士》1755〜56年。油彩・画布。縦90.4センチ、横76.5センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ベンジャミン・ウエスト《サミュエル・ボウド博士》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵
メアリー・ベセル・ボウド(サミュエル・ボウド夫人)
ベンジャミン・ウェスト《メアリー・ベセル・ボウド(サミュエル・ボウド夫人)》1755〜56年。油彩・画布。縦90.4センチ、横76.3センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ベンジャミン・ウエスト《メアリー・ベセル・ボウド(サミュエル・ボウド夫人)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

ペンシルベニアの医師夫妻の対の肖像である。

夫は鬘に茶の上着で、柱とカーテンを背にする。

妻は金色の衣に赤い布を掛け、欄干に腕を載せる。

二枚の画布の寸法は、縦90.4センチで揃う。対の注文の証拠である。

顔は正面気味、身体は借り物の型。柱もカーテンも、版画の手本から来た小道具だろう。

腕は長すぎ、手首は曲がりすぎている。

しかし、依頼主はこれで満足した。植民地には、比べる相手がいなかった。

対の肖像は、夫婦の家に並んで掛かるための絵である。

寸法を揃え、視線を内側に向け合わせる。

型は借り物でも、注文の作法は最初から本式だった。

問い——この画家は、なぜ「教師」になったのか

この素朴な画家が、のちにロンドンで国王の歴史画家になる。

英国王立美術院の第2代院長を務め、大西洋を渡ってくる
アメリカ人の画学生を、半世紀にわたって工房で受け入れた。

ここで問いを立てたい。

美術教育のない植民地に生まれた独学者が、
なぜヨーロッパの美術の中心で頂点に立ち、
なぜ「アメリカ絵画の教師」と呼ばれる存在になったのか。

当サイトの9点は、その道筋を年代順にたどれる並びになっている。

1756年から1809年まで、半世紀分の変化である。

一人の画家の中で、アメリカとヨーロッパの美術史が交差する。

大西洋を渡る

ウェストは1738年、ペンシルベニアのスワースモアに生まれた。

クエーカー教徒の宿屋の家の子で、絵は見よう見まねで始めたと伝えられる。

幼いころ、近隣の先住民から顔料の作り方を教わったという逸話を、
本人が後年好んで語ったと伝えられる。

事実かどうかは確かめようがない。

ただ、この逸話を宣伝に使う感覚そのものが、
「新大陸から来た天才」という彼の売り出し方をよく示している。

1760年、後援者の支援でイタリアへ渡る。

ローマでは古代彫刻と巨匠の絵を学んだ。

アメリカ生まれの画家がローマで学ぶこと自体、当時は初めて尽くしの出来事だった。

3年の滞在ののち、1763年にロンドンへ移る。

そして、そのままアメリカへは戻らなかった。

ロンドンで彼が選んだのは、肖像画ではなく歴史画である。

当時の美術理論では、ジャンルに序列があった。

頂点は歴史画。聖書、神話、古代史を描く「物語の絵」である。

肖像はその下、風景と静物はさらに下とされた。

植民地出身の新参者が、いきなり最上位の椅子を狙ったことになる。

無謀に見えるが、計算もあった。

ロンドンの肖像市場は、レノルズとゲインズバラという二大巨頭で埋まっていた。

空いていたのは、需要のわりに担い手の少ない歴史画の席である。

新参者は、混んだ市場ではなく、空いた市場を選んだ。

1768年に王立美術院が設立されると、ウェストは創立会員に名を連ねる。

初代院長レノルズの死後、1792年に第2代院長となった。

来歴も学歴もない移民が、設立わずか四半世紀の美術の総本山を率いたのである。

名を決定づけたのは、1770年の《ウルフ将軍の死》と伝えられる大作である。

カナダの戦場で没した英軍司令官を、古代の英雄のような構図で、
しかし当世の軍服のまま描いた。

歴史画は古代の衣装で描くという当時の常識に対し、
現代の服で現代の出来事を描いてみせたのである。

賛否を呼んだが、結果は成功だった。版画になり、広く売れたと伝えられる。

この成功で、ウェストは国王ジョージ3世の庇護を得る。

以後、王の歴史画家として、宮廷のための大作を担い続けた。