一行に、金の出どころが七つある——パッカード・コレクション、1975年
コレクションの名、本人からの寄贈、四つの基金、一つの遺贈、会社の寄贈。一件の受け入れを支えるために、七つの財布が並んでいる。百七十七点をまとめて動かすには、それだけの手当てが要った。長い一行の読み方を示したい。

一行が、三行分ある
メトロポリタン美術館の記録で、出所の行がいちばん長くなるのはどういう場合か。
一つの答えが、これである。
ハリー・G・C・パッカード東洋美術コレクション。
ハリー・G・C・パッカードによる寄贈。
およびフレッチャー基金、ロジャーズ基金による購入。
ハリス・ブリスベイン・ディック基金、ルイス・V・ベル基金による購入。
ジョーゼフ・ピュリツァー遺贈。
ならびにアネンバーグ基金社の寄贈。
一九七五年。
ここまでで、記録の上では一行である。
読点で区切られているだけで、途中で切れてはいない。
読みやすくするために、ここでは分けて書いた。
数えると、金の出どころが七つ書かれている。
コレクションの名が一つ。
本人からの寄贈が一つ。
基金が四つ。
遺贈が一つ。
会社からの寄贈が一つ。
前の回で読んだロジャーズ基金と、ピュリツァー遺贈が、どちらもこの中にいる。
今回は、この一行を九点で読みたい。

絹が、ほとんど茶色になっている。
六百年以上たっているので、当然ではある。
その暗い地の中に、人の姿が浮かぶ。
立っている。
髪は左右で束ねられ、頭の横で丸く膨らむ。
童子の髪型である。
顔は下を向き、目は伏せている。
胸の前で、両手を合わせている。
衣は膝の下まであり、裾が広がる。
足もとに、台のようなものが見える。
輪郭の線は残っているが、色はほとんど飛んでいる。
表装は、鮮やかな金茶色の裂である。
絵の暗さと、表装の明るさの差が大きい。
表装のほうが、はるかに新しいからである。
番号が語る規模
番号を見たい。
一九七五・二六八・二五。
一九七五年の、二六八番目の受け入れ、その二五番目。
当サイトで公開している同じ受け入れの作品を数えると、七十七点ある。
枝番は四から一七七まで確認できる。
つまり、この一件の受け入れは、少なくとも百七十七点を含む。
一つの受け入れとしては、きわめて大きい。
だから、出所の行がこれだけ長くなる。
一点なら、一つの財布で足りたかもしれない。
百七十七点なら、そうはいかない。
買ったのか、もらったのか
長い一行を、意味の単位で切り分けたい。
最初に来るのは、コレクションの名である。
集めた人の名を冠した、まとまりの名前。
次に、その人からの寄贈。
つまり、一部は無償で渡された。
その次に、購入。
つまり、残りは代金を払って手に入れた。
そして、その代金の出どころが四つの基金と一つの遺贈と一つの会社の寄贈である。
一件の受け入れが、寄贈と購入の混合になっている。
こういう形は、大きなコレクションを丸ごと動かすときによく使われる。
売る側は、全額を現金で受け取らない。
一部を寄贈にすることで、税の扱いが変わる。
買う側は、全額を用意しなくてすむ。
双方に理由がある形式である。
もっとも、館の記録はその事情を書かない。
書かれているのは、寄贈と購入の両方があった、という事実だけである。

横長の画面が、縦長の掛軸の中ほどに貼られている。
もとは画帖の一葉だったものを、掛軸に仕立て直したのだろう。
第十七回で扱った、形を変える仕立てである。
画面には、一人の人物が座っている。
淡い緑の衣を着て、烏帽子をかぶる。
右手に細長い板を持ち、胸の前に立てている。
笏である。
顔は右を向き、口ひげと顎ひげがある。
袴は白と黒の市松の文様。
上部の余白に、和歌が二行、崩し字で書かれている。
右上に、詠み手の名が小さく入る。
表装の紙には、幾何学の文様が織り出されている。
寸法が、三段になっている
この一点の寸法欄を、よく見たい。
画面が二十八・六掛ける三十二・四センチ。
表装を含めると百二十一・三掛ける四十二・二センチ。
軸首を含めると百二十一・三掛ける四十七・六センチ。
三段書きである。
軸首とは、掛軸の下端の棒の両端に付く飾りのことである。
これが左右に出っ張るので、幅だけが五センチほど増える。
高さは変わらない。
つまり、この三段目は幅のためだけに書かれている。
収蔵の箱を作るとき、この数字が要る。
軸首がぶつかれば、箱に入らない。
記録の欄は、そういう実務のために増えていく。
下絵が、一点入っている

線だけで描かれている。
一人の男が、斜めを向いて座っている。
頭は剃られ、額が広い。
顔の輪郭、目、鼻、口。
いずれも細い線で、迷いなく引かれている。
顔だけは、線が丁寧である。
一方、体は輪郭だけである。
衣の襞は、数本の線で示されるにとどまる。
手は袖の中で、形が曖昧である。
背景は何もない。
紙の白がそのまま残る。
題に、下絵とある。
つまり、これは完成品ではない。
別に仕上げた肖像があり、その準備として描かれたものである。
第十七回で扱った、本画のための頁と同じ位置づけである。
準備の段階で、顔だけを詰めている。
肖像画では、顔が似ているかどうかがすべてだからだろう。
表装は、深い紫の裂である。
下絵に、これだけの表装を付けている。
つまり、後の時代に、これ自体が鑑賞の対象になった。
準備のための紙が、作品として扱われるようになる。
その転換が、表装に表れている。
山水が、四点続く
九点のうち三点は、縦に細長い山水である。

異様に細長い画面である。
高さが幅の四倍以上ある。
下から上へ、風景が積み上がっていく。
最下部に水辺と小舟。
その上に岩と木立。
さらに上に、家屋の屋根。
もっと上に、切り立った崖。
最上部に、遠い山の稜線。
一つの画面のなかで、視点が何度も上がっていく。
近景から遠景へ、下から上へ。
東アジアの山水画に共通する組み立てである。
技法の欄に、繻子とある。
絹の織り方の一種で、表面に光沢がある。
墨がにじみにくく、線が硬く出る。
表装は、明るい青緑色の裂である。

こちらも細長い。
墨の濃淡だけで描かれている。
中ほどに、岩の塊が積み上がる。
その隙間に、松の木が斜めに出る。
下のほうに、水と橋。
橋の上に、人がいるように見える。
上部は霞んで、山の輪郭だけが薄く残る。
右上の余白に、文字が三行ほど。
その下に赤い印。
題は、秋に友を訪ねる、という意味である。
山水画には、こうした物語の題が付くことが多い。
描かれているのは風景だが、読み方は物語である。

九点のうち、いちばん大きい。
表装を含めて、高さが二メートル三十四センチある。
画面だけでも百七十四センチ。
人の背丈より高い。
構図は前の二点と同じく、下から上へ積み上がる。
下に木立と水。
中ほどに、白く抜かれた霞の帯。
その上に、黒い山の塊。
さらに上に、遠い峰。
霞の白は、紙の地をそのまま残したものである。
墨を置かないことで、空気を作っている。
右のほうに落款と印。
親子である
四点目と五点目と六点目の作者について、少し触れたい。
五点目と六点目は、親と子である。
館の記録は、前者を一七四四年から一八二〇年、後者を一七八二年から一八四六年としている。
年の重なり方から見ても、親子関係と矛盾しない。
同じ受け入れのなかに、親の作と子の作が並んで入っている。
集めた人が、意識してそろえた可能性が高い。
一人の画家を追うのではなく、系統を追う。
そういう集め方をすると、こうなる。
鷺が、二点

墨だけで描かれている。
画面の下半分に、太い枝が横たわる。
枝の上に雪が積もり、白く残されている。
その枝の上に、白い鳥が二羽。
一羽は首を縮めてうずくまる。
もう一羽は、その手前で背を丸める。
鳥の白も、紙の地である。
輪郭の線と、まわりの淡い墨だけで形が出ている。
上のほうから、細い枝が垂れ下がる。
枝の先に、雪の塊が点々と付く。
背景は塗られていない。
表装は、花の文様が織り出された裂である。
絵は墨だけなのに、表装は華やかである。
この対比は、しばしば意図的に作られる。

前の一点と違い、色が入っている。
画面の下に、白い鷺が二羽立つ。
一羽は首を高く伸ばし、もう一羽は水面を見る。
嘴は黄色みを帯びる。
その背後に、牡丹の花。
紅色の花弁が幾重にも重なる。
上のほうから、柳の枝が長く垂れる。
細い葉が、無数に散る。
さらに上に、竹らしい葉。
画面いっぱいに、植物が詰まっている。
余白が少ない。
前の一点が余白ばかりだったことと、対照的である。
同じ鷺という主題で、扱いがここまで違う。
そして、この二点は隣り合う番号である。
一〇八と一〇九。
集めた人の手元でも、並んでいた可能性がある。
扇が一点

扇である。
開いた状態で撮影されている。
竹の骨が下から放射状に伸びる。
紙は薄い黄土色。
画面の右寄りに、牡丹が墨で描かれる。
花は二輪。
輪郭を描かず、墨の面で作られている。
葉は濃い墨で、大きく広がる。
左上に、落款と赤い印。
左半分は、ほとんど空白である。
扇は畳むと、絵が折れる。
折り目のところで、線が切れる。
だから、細かい描き込みには向かない。
墨の面で描くのは、その制約への答えでもある。
この一点だけ、掛軸ではない。
同じ受け入れのなかに、形式の違うものが混じっている。
集めた人について
出所の行の先頭にある名前について、記録から分かることを書く。
館は、この人の名を冠したコレクションとして受け入れている。
東洋美術という語が、コレクションの名に入っている。
そして、受け入れの年は一九七五年である。
九点の内訳を見ると、日本の絵画に偏っている。
十四世紀の仏画が一点。
十七世紀の歌仙絵が一点。
十八世紀から十九世紀の南画が六点。
扇が一点。
つまり、江戸時代の文人画に重心がある。
文人画は、職業の絵師ではない人が描いた絵を指す。
学者や商人が、余技として描く。
日本では十八世紀から十九世紀に流行した。
欧米での評価が高まるのは、二十世紀の後半である。
一九七五年という受け入れの年は、その時期に重なる。
集めた人が何を狙っていたかまでは、記録には書かれていない。
しかし、九点の並びは、一つの分野に集中している。
これは、館が自分で買い集めた場合には起こりにくい偏りである。
前の回で見た基金の買い物は、分野がばらばらだった。
個人の集めたものは、偏る。
その偏りごと受け入れるのが、コレクションを丸ごと買うということである。
四つの基金の名
出所の行に戻りたい。
四つの基金の名を並べる。
フレッチャー基金。
ロジャーズ基金。
ハリス・ブリスベイン・ディック基金。
ルイス・V・ベル基金。
いずれも、人の名が付いている。
つまり、四人の遺産が、それぞれ財布になっている。
そこに、ピュリツァー遺贈が加わる。
五人目である。
さらに、会社の名を持つ寄贈が一つ。
そして、集めた本人からの寄贈。
七つの出どころが、一点の作品を支えている。
一点あたり、いくらか
金額は記録に書かれていない。
分かるのは、七つの出どころが必要だったという事実だけである。
百七十七点をまとめて動かすには、一つの財布では足りなかった。
館は、複数の財布を組み合わせた。
これは、館の内部での調整を意味する。
部門ごとに使える財布が違うこともある。
用途が限定された基金もある。
それらを組み合わせて、一つの買い物にする。
出所の行の長さは、その調整の跡である。
読みにくいが、省略されていないことには意味がある。
どの財布が使われたかを、後から確認できるようにしてある。
寄贈と購入を、混ぜる理由
寄贈と購入が混ざった受け入れについて、もう少し書いておきたい。
大きなコレクションが動くとき、全額の現金取引になることは少ない。
売る側にとって、一括で現金を受け取ると税の負担が重くなる。
一部を寄贈にすれば、その分は控除の対象になりうる。
買う側にとっても、資金の手当てが楽になる。
こうして、部分寄贈と部分購入を組み合わせた形が生まれる。
この形は、二十世紀の後半のアメリカでは一般的だった。
館の記録は、その割合を書かない。
何点が寄贈で、何点が購入だったかも分からない。
分かるのは、両方があったという事実だけである。
そして、一件の受け入れ番号のもとで、全部が同じ行を持つ。
だから、一点ずつ見ても、それが寄贈された分か買われた分かは判別できない。
記録は、そこを区別しないと決めている。
まとまりとして扱う、という判断の一部である。
番号の抜けを、数える
当サイトで公開している同じ受け入れの作品は七十七点である。
枝番は四から一七七まで散らばる。
つまり、百点ほどが当サイトには載っていない。
理由は一つではない。
公開されていないものもある。
権利の確認が済んでいないものもある。
画像が用意されていないものもある。
当サイトが扱うのは、提供元が公開を認めた画像だけである。
だから、館の所蔵の全体像とは一致しない。
このことは、番号の抜けを見れば分かる。
四の次が二五で、その次が一〇〇である。
抜けている番号の向こうに、見えていない作品がある。
出所の行を頼りに数を推し量るとき、この前提は忘れないほうがよい。
集めた人の名が、先頭に来る
この行で、いちばん最初に書かれるのはコレクションの名である。
購入でも寄贈でもなく、まとまりの名前が先頭に立つ。
これは、書き方として珍しい。
たいていの行は、寄贈か購入かという動詞から始まる。
ここでは、集めた人の名が先に来る。
つまり、館はこのまとまりを、まとまりとして扱うと決めた。
ばらばらの九点ではなく、一つのコレクションの九点である。
番号の枝番が一続きになっているのも、同じ意図の現れだろう。
集めた人の仕事を、記録の上で保存している。
表装の色が、九通りある
九点のうち、掛軸が七点ある。
そのすべてに表装が付いている。
そして、表装の色と文様が、七点とも違う。
金茶の裂。
幾何学の文様を織った紙。
深い紫。
青緑。
淡い紅。
花文の錦。
濃い茶。
表装は、絵と同時に作られるとは限らない。
傷めば、付け替えられる。
集めた人が、自分の好みで仕立て直すこともある。
だから、表装の様子は、その絵が最後に手入れされた時期を示している。
絵は六百年前、表装は百年前。
そういう組み合わせが、ふつうに起こる。
館の記録は、表装の年を書かない。
寸法の欄に、表装を含めた数字が入るだけである。
見ている画像のなかで、いちばん新しい部分が表装である。
そう思って見ると、色の鮮やかさの理由が分かる。
長い行を、読む練習
出所の行が長いとき、読み方には順序がある。
まず、いちばん最後の年を見る。
いつ館に来たかが分かる。
次に、いちばん最初を見る。
まとまりの名があれば、そのまとまりを調べればよい。
そのあとで、中身を分解する。
寄贈か購入か。
購入なら、どの財布か。
この順で読むと、長い行も片づく。
そして、財布の名が多いほど、その受け入れが大きかったと考えてよい。
行の長さは、規模の目安になる。
次の回では、行の中に別の種類の言葉が入る例を読みたい。
誰それの思い出に、という一句である。
そこには、金の出どころではなく、人への気持ちが書かれている。
出所の行が、記録の欄でありながら、それだけではなくなる場面である。
長さの理由も、これまでとは違う。
財布の数ではなく、書き添えたい名前の数で長くなる。
同じ長い行でも、長くなる理由は一つではない。
読む側は、その理由のほうを見分けたい。
財布が並ぶ行と、名前が並ぶ行。
同じ長さでも、指しているものはまるで違う。

