作品を知る

凍った川が、二点あった——ファン・デル・ネール・戴進・アッピアンほか九点

川は動いているが、絵は動かない。九点で数えると、水面が止まっているのは三点で、うち二点は凍っている。氷河の水源を撮った一点もある。水に建物が映るのは、流れのない運河の一点だけだった。岸が両方見えるのは四点だった。

凍った川の遊び
アールト・ファン・デル・ネール《凍った川の遊び》メトロポリタン美術館蔵

川が、凍って人を載せている

一枚の板絵に、凍った川がある。

23.2×34.9センチしかない。

横長の小さな画面である。

画面の下半分は、一面の氷である。

氷は白と灰色で、ところどころ茶色い。

その上に、人が二十人以上いる。

滑っている人、立っている人、しゃがんでいる人。

いずれも小さく、輪郭だけである。

黒い衣が多い。

左の岸には、家が数軒ある。

屋根は雪をかぶっている。

奥には、細い塔と木立が見える。

画面の上半分は、空である。

雲が厚く垂れ、下のほうだけが赤い。

夕方らしい。

雲の切れ目から、橙色の光が漏れる。

その光が、氷の上に長く伸びている。

館の記録の題によれば、これは氷の上の遊びである。

つまり、この川は道であり、広場でもある。

凍った川の遊び
アールト・ファン・デル・ネール《凍った川の遊び》1660年頃。館の記録では、油彩・板。23.2×34.9センチ。番号は32.100.11。メトロポリタン美術館蔵。アールト・ファン・デル・ネール《凍った川の遊び》メトロポリタン美術館蔵

川は、動いているものである。

だが絵は動かない。

流れを描くとは、動かないもので動きを示すことである。

その方法は、いくつもある。

波を描く、泡を描く、岸の形で速さを示す。

あるいは、凍らせて止めてしまう。

九点を並べて、川の描かれ方を数えたい。

凍った川が、二点あった

集めかたは、館の記録の題によっている。

川、河、渓、流れにあたる語が入るものを拾った。

九点とも、水が描かれている。

外れは一点もなかった。

そして、九点のうち二点が凍った川だった。

一点は、いま見た十七世紀半ばの板絵。

もう一点は、それより五十年ほど古い板絵である。

全体で44.3×66.5センチ。

こちらのほうが大きく、明るい。

画面の下半分は、やはり氷である。

その上に、人が四十人以上いる。

赤や青や黄の衣で、はっきり描き分けられる。

手前の数人は、顔の向きまで分かる。

橇を押す人、転びかけている人がいる。

右のほうに、風車が立つ。

左には、大きな建物と裸の木がある。

空は青く、白い雲が流れる。

鳥が数羽、空を横切る。

同じ主題の二点だが、時刻が違う。

一点は夕方、一点は昼である。

そして、人の描き方も違う。

夕方の一点では、人は影として置かれる。

昼の一点では、一人ずつの衣が見える。

凍ったアムステル川でのスケート
アダム・ファン・ブレーン《凍ったアムステル川でのスケート》1611年。館の記録では、油彩・板。全体44.3×66.5センチ。番号は2010.20.1。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。アダム・ファン・ブレーン《凍ったアムステル川でのスケート》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

川の始まりを撮る

九点のうち一点は、川の水源を撮っている。

写真で、画面は38.7×48.3センチ。

紙は40×50.7センチある。

写っているのは、氷河の末端である。

画面の中央に、白い氷の塊が大きく広がる。

氷は割れ、層が斜めに見える。

その下に、暗い洞のような穴が開く。

そこから水が出ているはずだが、細部は見えない。

手前は、石の転がる河原である。

石は大小さまざまで、白く光る。

左右には、切り立った黒い岩壁がある。

空は、上端にわずかに写るだけである。

館の記録の題によれば、これは川の水源である。

つまり、この場所から下流のすべてが始まる。

館の記述によれば、この写真は当時の風景画に似ているという。

そして、同時代の画家の名を挙げている。

その画家も、川の場面を数多く描いた。

写真と絵が、同じ主題を同じ時期に扱っていた。

スイス、グリンデルワルト、上氷河、リュッチネ川の水源
アドルフ・ブラウン《スイス、グリンデルワルト、上氷河、リュッチネ川の水源》1875〜77年。館の記録では、湿板コロジオンの陰画から作った調色済みのカーボン・プリント。画面38.7×48.3センチ。紙は40×50.7センチ。番号は1992.237。クリーヴランド美術館蔵。アドルフ・ブラウン《スイス、グリンデルワルト、上氷河、リュッチネ川の水源》クリーヴランド美術館蔵

流れの速い川、遅い川

流れの速さを見たい。

九点で、水の様子から速さが読める。

速い流れが、二点。

遅い流れが、四点。

止まっている水が、三点である。

止まっている三点は、凍った川二点と、運河の一点だった。

速い二点のうち、一点はリトグラフである。

館の記録に、寸法の欄はない。

画面の中央に、二本の大きな針葉樹が立つ。

幹はまっすぐで、枝が段になって広がる。

その手前に、岩の多い斜面がある。

岩のあいだを、水が流れ落ちる。

水は白い線と、細かい点で描かれる。

奥には、雪をかぶった山が見える。

空は明るく、雲が薄い。

石版の細かい線だけで、これだけの調子が作られている。

館の記録には、記述の欄がない。

書かれているのは、題と技法と番号だけである。

アルプスの渓流
アレクサンドル・カラム《アルプスの渓流》十九世紀半ば。館の記録では、リトグラフ。番号は1934.157。クリーヴランド美術館蔵。アレクサンドル・カラム《アルプスの渓流》クリーヴランド美術館蔵

遅い流れの代表は、木炭の素描である。

紙は59.4×98.5センチ。

九点のなかで、いちばん大きい。

台紙まで含めると60.5×99.5センチになる。

画面は横長で、全体が暗い。

左右に、大きな木が立つ。

枝が上で交差し、画面を覆う。

その下に、川が横たわる。

水面は暗く、わずかに光る。

中央の奥だけが明るく、そこに光が抜ける。

手前の岸に、人が二人立っている。

小さく、輪郭だけである。

館の記録によれば、三人の漁師がいるという。

一人は、木の陰にいるのだろう。

館の記述は、この画家の木炭の扱いを細かく書いている。

棒と粉を使い、布や紙でこすった。

パン屑まで使ったという。

そして最後に、紙の表面を掻き落として明るい部分を作る。

その手順で、これまでにない調子の幅を作ったと館は書く。

森の端の川岸に立つ三人の漁師
アドルフ・アッピアン《森の端の川岸に立つ三人の漁師》1868年。館の記録では、ベージュの紙に木炭、ぼかしと掻き落とし、白チョークの差し。紙は59.4×98.5センチ。台紙は60.5×99.5センチ。番号は2021.140。クリーヴランド美術館蔵。アドルフ・アッピアン《森の端の川岸に立つ三人の漁師》クリーヴランド美術館蔵

川辺の人は、何をしているか

川のそばにいる人を数えたい。

人が描かれているのは、七点である。

そのうち、滑っているのが二点。

釣りをしているのが、一点。

遊んでいるのが、一点。

休んでいるのが、一点。

舟に乗っているのが、一点。

歩いているのが、一点である。

泳いでいる人は、一人もいない。

水に入っている人も、いない。

川は、そばにいる場所として描かれている。

入る場所としては描かれない。

日本の版画が、その一例である。

紙は38.8×25.4センチ。

画面の下に、細い流れがある。

水は青と白の線で示される。

その岸に、女性が四人いる。

一人は立ち上がり、団扇を高く上げている。

一人は身を乗り出し、水面を見ている。

二人は座っている。

館の記述によれば、蛍を追っているという。

そして、袖が風にひるがえることで動きが示されている、と書く。

館の記録によれば、この一枚は三枚続きの中央である。

そして館は、左右の二枚を持っていないと書いている。

この画家の作品は、これで三点目になる。

寺と橋の回でも取り上げた。

三点とも、組物の一部が欠けている。

川辺で蛍を追う女たち
鳥文斎栄之《川辺で蛍を追う女たち》1796〜97年頃。館の記録では、木版、紙に墨と色。紙は38.8×25.4センチ。番号は1920.523。クリーヴランド美術館蔵。鳥文斎栄之《川辺で蛍を追う女たち》クリーヴランド美術館蔵

川のそばで、人は休む

中国の掛幅を見たい。

画面は138.2×75.2センチ。

軸の端まで含めると232.5×96.3センチになる。

二メートル三十を超える。

画面の左に、切り立った岩壁がある。

その上に、松が横へ張り出す。

右のほうは、空白が大きい。

墨がほとんど置かれていない。

画面の中ほど、岩の下に、人物が一人座っている。

白い衣で、片腕を立てた膝に置く。

衣の前が開いている。

その足もとに、細い流れがある。

館の記述によれば、この人は帝位を断った隠者である。

山で農耕を選んだという。

そして館は、面白い逸話を添えている。

帝から地位を勧められたとき、その人は川へ行って耳を洗った。

不快な話を聞いた耳を、清めるためである。

つまり、この絵の川には特別な意味がある。

ただの風景ではない。

館の記録には、印が五つあることも書かれている。

そのうち一つだけ、押した人が特定されている。

残る四つは、誰のものか分からない。

渓流に憩う隠士・許由
戴進《渓流に憩う隠士・許由》十五世紀。館の記録では、掛幅。絹に墨と淡彩。画面138.2×75.2センチ。軸端を含めて232.5×96.3センチ。番号は1974.45。クリーヴランド美術館蔵。戴進《渓流に憩う隠士・許由》クリーヴランド美術館蔵

川と運河は、どう違うか

九点のうち一点は、運河だった。

油彩で、86.5×58.6センチ。

縦長の画面である。

両側に、建物が高く立ち上がる。

壁は黄土色と白で、剥がれた跡がある。

窓には鎧戸があり、洗濯物が干してある。

その間を、水が奥へ延びる。

水面は緑がかった灰色で、建物を映す。

映った像は、揺れて崩れている。

奥に、低い橋が架かる。

橋の上に、小さな人影がある。

手前の水面には、舟が二艘浮かぶ。

黒い細長い舟である。

館の記録の題は、運河という。

運河は、人が掘った水路である。

川と違って、流れがほとんどない。

だから水面が鏡になり、建物を映す。

九点のうち、建物が水に映るのはこの一点だけだった。

流れがあると、像が崩れて映らない。

ヴェネツィアの運河、サン・トロヴァーゾ地区
ロバート・フレデリック・ブラム《ヴェネツィアの運河、サン・トロヴァーゾ地区》1885年頃。館の記録では、油彩・カンヴァス。86.5×58.6センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。ロバート・フレデリック・ブラム《ヴェネツィアの運河、サン・トロヴァーゾ地区》スミソニアン協会蔵

川が、遠くを横切る

最後の一点は、川が遠景にある。

油彩で、額なしで43.9×67.6センチ。

横長の画面である。

左には、大きな木立がある。

木は暗い緑で、上のほうが明るい。

右のほうは開けていて、低い土地が続く。

その奥に、細い水の帯が見える。

さらに奥に、丘と町の影がある。

空は上のほうが青く、地平の近くは黄色い。

夕方だろう。

手前は、乾いた道と草である。

館の記述によれば、この場所は宮殿に付属した公園である。

川を見下ろす段々の庭で知られていたという。

そして館は、この眺めが当時よく描かれたものだと書く。

さらに、この画家についてはほとんど分かっていないとも書く。

残っているのは風景画が多く、題から制作地が推せる程度だという。

館の記録は、分からないことを分からないと書いている。

セーヌ川近くのサン=クルーの眺め
アレクサンドル・ポー・ド・サン=マルタン《セーヌ川近くのサン=クルーの眺め》1809年。館の記録では、布に油彩。額なしで43.9×67.6センチ。番号は1977.121。クリーヴランド美術館蔵。アレクサンドル・ポー・ド・サン=マルタン《セーヌ川近くのサン=クルーの眺め》クリーヴランド美術館蔵

川は、季節を持つ

九点で、季節が読めるものを見たい。

冬とはっきり分かるのが、三点だった。

凍った川の二点と、氷河の一点である。

夏らしいのが、二点。

蛍を追う版画と、運河の油彩である。

秋らしいのが、一点。

木の葉の色が変わっている素描である。

残る三点は、季節が読めない。

墨の掛幅と、リトグラフと、遠景の油彩である。

川は、季節がいちばん出やすい場所である。

凍り、増え、涸れ、色が変わる。

その変化が、そのまま画面に出る。

とくに凍った川は、季節を疑いようがない。

氷の上を人が歩けるのは、冬の一時期だけである。

しかも、毎年凍るとは限らない。

暖かい冬なら、氷は張らない。

だから凍った川の絵は、特定の年の記録でもある。

もっとも、記録にその年は書かれていない。

書かれているのは、制作年だけである。

制作年と、描かれた場面の年が同じとは限らない。

前に、六十年前の光景を描いた版画を見た。

凍った川の二点も、記憶で描かれた可能性はある。

館は、そこまで書いていない。

数え直す

九点を並べ直したい。

水が画面の下半分にあるのは、六点。

水が奥に横たわるのは、二点。

水が画面を縦に貫くのは、一点である。

最後の一点は、運河だった。

人が描かれているのは、七点。

いちばん多い一点で、四十人以上。

いちばん少ない一点で、一人である。

橋が架かっているのは、二点。

舟があるのは、二点だった。

岸は、どこまで描かれるか

川には、必ず岸がある。

その岸の描かれ方を数えたい。

両岸が画面に入るのは、四点。

片岸だけが入るのが、四点。

岸が分からないのが、一点である。

両岸が入る四点では、川の幅が読める。

凍った川の一点では、対岸の家まで見える。

幅は数百メートルはあるだろう。

運河の一点では、両側の建物まで数メートルしかない。

同じ「両岸が見える」でも、幅がまるで違う。

片岸だけの四点では、川の幅が分からない。

手前の岸だけがあり、向こうは霞むか、画面の外へ出る。

その処理は、川を広く見せる。

見えない部分があるほうが、大きく感じられる。

岸が分からない一点は、氷河の写真である。

氷が川床を埋めていて、岸の線が読めない。

館の記録は、川の幅を書かない。

書かれるのは、作品の幅だけである。

九点でいちばん幅の広い作品は、98.5センチの素描だった。

そこに描かれた川の幅は、たぶん数十メートルである。

紙の幅と、川の幅は関係がない。

当たり前のことだが、記録を読むときには忘れやすい。

川は、画面の下に置かれる

数えた結果から、一つのことが言えそうである。

川は、たいてい画面の下半分にある。

九点のうち六点が、その配置だった。

理由は単純である。

水は低いところへ流れるからだ。

見る人が立っている位置より、水面は必ず低い。

だから画面の下になる。

例外は、運河の一点だった。

こちらは、水路が奥へ向かって延びる。

見る位置が水面すれすれにあるため、水が画面の中央を占める。

舟から見た眺めに近い。

そしてもう一つ、例外がある。

氷河の写真である。

こちらは、水が凍って積み上がっている。

だから画面の中央に、白い塊として立つ。

液体なら下へ行くが、固体なら積める。

同じ水でも、状態が変われば画面の位置が変わる。

水を描く技法は、材で決まる

九点の技法を並べておきたい。

油彩が四点、木炭が一点、石版が一点。

木版が一点、写真が一点、絹に墨が一点である。

同じ水を描くのに、七通りの手が使われている。

油彩では、白の絵具を厚く置いて泡を作る。

木炭では、粉をこすって面を作り、掻き落として光を出す。

石版では、細かい点と線で流れを刻む。

木版では、青と白の版を重ねて波形を摺る。

写真では、露光の長さで水の見え方が変わる。

長く開ければ、動く水は白い霧になる。

絹に墨なら、にじみで水を消す。

描かないことで、水を示すこともできる。

掛幅の一点では、流れが細い線数本しかない。

それでも、そこに水があると読める。

読めるのは、岩と人の配置がそう示しているからだ。

つまり水は、周りのものによっても示される。

材が違えば、示し方も変わる。

館の記録の技法欄は、その手がかりになる。

木炭に「掻き落とし」と書いてあれば、明るい部分の作り方が分かる。

写真に「湿板」とあれば、露光に時間がかかったと分かる。

技法欄は、画面の見え方を裏から説明している。

水面は、映すか、映さないか

水面の扱いも数えておきたい。

対岸や建物を映しているのが、二点。

映していないのが、七点である。

映すには、条件が要る。

水面が静かで、光が斜めから当たること。

そして、水が濁っていないこと。

運河の一点は、その条件を満たしていた。

もう一点は、遅い流れの素描である。

暗い水面に、木の形がわずかに映る。

残る七点では、水面は映さない。

凍った二点は、そもそも表面が氷である。

速い流れの二点は、波で像が崩れる。

氷河の一点には、水面そのものがほとんどない。

映すか映さないかで、画面の性格が変わる。

映せば、画面のなかに画面ができる。

前に鏡や窓を扱ったときと同じ構造である。

映さなければ、水はただの面になる。

記録は、川の名を書くことがある

最後に、記録の欄を確かめておきたい。

九点のうち、川の名が題に入っているのは三点だった。

凍った川の一点、氷河の一点、そして遠景の一点である。

いずれも、実在の川の名である。

残る六点では、川に名がない。

《アルプスの渓流》、《渓流に憩う隠士》、《川辺で蛍を追う女たち》。

いずれも、どの川かは分からない。

これは、前に扱った山や道と同じである。

名のある場所と、名のない場所がある。

ただし、川には特徴がある。

名が上流から下流まで一つで通ることだ。

山は峰ごとに名が変わる。

道は区間ごとに名が変わる。

川は、河口から水源まで同じ名で呼ばれる。

だから、水源を撮った写真にも川の名が付いている。

そこはまだ、川になる前の氷である。

それでも、記録はその名で呼んでいる。

名前が、場所ではなく流れ全体を指しているからである。

これは、川という地形の特殊なところだと思う。

山も道も、部分ごとに違う名で呼ばれる。

川だけが、一本の名を最初から最後まで持つ。

だから題に川の名があっても、どこを描いたかは分からない。

上流か、下流か、河口か。

その情報は、題の残りの部分に書かれる。

今回の三点では、いずれも地名が併記されていた。

町の名、氷河の名、公園の名である。

川の名と、場所の名。

二つそろって、はじめて位置が決まる。

名のない六点では、その二つとも欠けている。

どこの、どのあたりかが分からない。

それでも、川であることだけは画面から分かる。

水が低いところを流れているからである。

その一点だけは、どの絵でも共通していた。

凍っていても、氷河でも、運河でも同じである。

水は、必ず低いほうにある。

低いほうへ流れるという性質だけで、川は川と分かる。

名がなくても、それは変わらない。

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