同じ二語が、百年ぶん並ぶ——ロジャーズ基金で買われた722点
一九〇三年から二〇〇〇年まで、同じ財布の名が出所の行に並び続ける。名を持つ人は一九〇一年に亡くなっている。元本を使わず利息で買う仕組みが、唐の俑から江戸の鹿までを館へ運んだ。その一世紀を読みたい。作者の欄に九百年ずれた人名が入る例もある。

同じ二語が、百年ぶん並ぶ
メトロポリタン美術館の記録を、出所の行で並べ替えてみる。
すると、同じ二語で始まる行がひたすら続く区画がある。
ロジャーズ基金。
そのあとに年が付く。
ロジャーズ基金、一九〇四年。
ロジャーズ基金、一九一四年。
ロジャーズ基金、一九五三年。
当サイトで公開している作品だけを数えても、七百二十二点がこの行を持つ。
年の幅は、一九〇三年から二〇〇〇年まである。
ほぼ一世紀にわたって、同じ財布から買い続けられている。
人の名が付いているが、その人はとうに亡くなっている。
今回は、この一つの行を九点で追いたい。

白黒の画像である。
背の低い馬が、四本の脚で立っている。
首は太く、鬣は短く刈られている。
その背に、人が横向きに座っている。
服は筒袖で、両手を前に出している。
手綱を握っていた形だが、手綱そのものは残っていない。
頭には小さな冠のようなものが載る。
馬の体は濃く、鞍と脚の一部が白く抜けている。
釉薬の掛かり方の差である。
台は長方形の板で、四脚がその上に立つ。
高さ四十センチ。
墓に納めるために作られた俑である。
記録の分類の欄も、墓の陶器と記している。
作者の欄に、別の時代の人がいる
この一点の記録には、おかしなところがある。
作者の欄に、人名が入っている。
そして、その人の生没年は一六〇八年から一六六一年と書かれている。
十七世紀の人である。
一方、作品の年は七世紀から八世紀。
九百年の開きがある。
唐時代の墓の副葬品を、十七世紀の人が作ることはできない。
明らかな誤りである。
こういう混入は、大きなデータベースでは起こる。
同じ姓の別人が結び付いたか、登録の途中で行がずれたか。
理由は記録からは分からない。
当サイトはこの誤りを引き継いでいるので、ここに書いておく。
作者の欄は空であるべきものである。
元本を使わない、という決まり
基金の仕組みを、もう少し丁寧に見ておきたい。
まとまった金が館に渡される。
館はそれを一つの口座にまとめ、名前を付ける。
そして、元本には手を付けない。
運用して得た利息だけを、買い物に使う。
こうすると、財布は減らない。
毎年、決まった額が使えるようになる。
一度きりの寄贈が、毎年の予算に変わる。
寄贈する側から見れば、これは強い動機になる。
自分の名が、一度ではなく毎年出る。
しかも、何十年でも続く。
館の側から見ても、都合がよい。
来年いくら使えるかが、あらかじめ分かる。
売り立てに出る品を、待って買うことができる。
出所の行に同じ二語が並ぶのは、この仕組みの直接の結果である。
一方で、弱点もある。
利息は、時代によって上下する。
物の値段も上がる。
百年前と同じ額では、同じものは買えない。
だから、館は基金を一つに絞らない。
新しい寄贈があるたびに、新しい財布を作る。
第八回で見る予定の一行には、六つの財布の名が並んでいる。
一点を買うのに、複数の財布から少しずつ出した結果である。
ロジャーズという人
出所の行の名前について、分かっていることを書く。
十九世紀のアメリカで、機関車を製造した実業家である。
一九〇一年に亡くなり、その遺産の大部分を館に残した。
館はその元本を使わず、運用の利息だけを買い物に充てた。
だから、百年たっても財布が空にならない。
出所の行に一九〇三年から二〇〇〇年までの年が並ぶのは、そのためである。
生前の寄贈ではない。
本人は、自分の金で何が買われるかを見ていない。

縦長の絹の画面である。
地の色は濃い茶褐色に変わっている。
もとは白かったはずの絹が、時間で焼けている。
その上に、草花が下から上へ伸びている。
淡い紅色の大きな花が、四つほど開く。
葉は細長く、切れ込みがある。
茎の途中に、白い小さな花が集まっている。
画面の上のほう、花のあいだに蝶が二頭。
下のほうにも一頭いる。
翅は薄く、輪郭だけが残っている。
画面は百一センチだが、表装を含めると二百七センチになる。
倍の長さである。
掛けるための布が、絵の分だけまた必要になる。
一九一四年と一九五三年に、山がある
年ごとの件数を数えると、平らではない。
一九一四年が百五十二点。
一九五三年が百三十二点。
一九一八年が百二点。
この三年だけで、公開分の半分近くになる。
つまり、毎年こつこつ買っていたのではない。
大きな買い物が、何年かおきに来ている。
まとまった売り立てが出たときに、まとめて買う。
そういう使われ方をしていたのだろう。
基金という仕組みは、その待ち方を可能にする。
使わなかった年の分は、次の年に回せる。
個人の寄贈では、そうはいかない。

白黒の画像である。
丸い碗に、平たい蓋が載っている。
蓋の中央に、低い摘みが付く。
碗の側面に、龍が描かれている。
体をうねらせ、爪を広げた姿である。
まわりに雲の形が散る。
蓋の上にも、同じ龍が回っている。
線は細く、密度が高い。
そして、高台の近くに小さな文字が見える。
館の番号が、器に直接書き込まれている。
十七、一一八、八八a。
記録の番号と同じ並びである。
作品の表面に番号を書くのは、いまも行われている作業である。
外れない場所に、消せる材料で書く。
写真に写り込むと、こうして見える。
版画の番号は、別の体系である
四点目と五点目は、番号の形が違う。

横長の画面である。
右手に二階建ての建物があり、簀子が張り出している。
そこに人がいて、下を見ている。
建物の前を、浅い川が手前へ流れる。
水のなかに、女たちが裾をからげて立っている。
手に器を持っている者、身をかがめる者。
左手前でも、二人が水に入っている。
奥は林で、木々が丸く茂る。
空は上のほうだけ藍色に刷られている。
右上に題箋があり、そこに文字が入る。
その左に、店の名らしい文字が縦に並ぶ。
番号は、年と枝番の形ではない。
日本の版画を示す記号と、通し番号である。
第十七回でも触れた体系である。
この番号には、受入年が入らない。
だから、出所の行の年だけが受け入れの時期を示す。
一九一九年。

海に面した場所である。
画面の中ほどに、大きな白い円が浮かぶ。
満月である。
その手前を、雁の群れが斜めに横切る。
十羽ほどが、隊列を作って下ってくる。
水面は薄い水色で、右へ広がる。
左に帆柱が何本も立ち、船が並ぶ。
岸辺には松の緑と、赤い建物。
空の下のほうが橙色に染まる。
上端は藍色の帯になっている。
夜明けか夕暮れかは、色だけでは決まらない。
月が満ちているので、日没直後の可能性が高い。
前の一点と、番号は百四十三離れている。
受け入れの年は三年違う。
同じ財布から、三年おきに版画が買われている。
番号の形が、三通りある
九点の番号を並べてみたい。
一〇・二二一・一。
一二・三七・一三四。
一七・一一八・八八のaとb。
JP一一七〇。
JP一三一三。
二五・六〇・一〇。
五二・一六八。
五三・一一八・一。
五九・一三七・一。
三通りの形がある。
一つ目は、受入年の下二桁で始まるもの。
これがいちばん多い。
二つ目は、記号と通し番号の組み合わせ。
日本の版画に使われている体系である。
三つ目は、枝番の付いたもの。
蓋と身のように、部品が分かれるときに使う。
三通りが同じ表に同居している。
これは、部門ごとに登録の作法が違った名残である。
版画の部門は、点数が多い。
年ごとに数え直すより、通しで振ったほうが速い。
やきものは、蓋と身が離れる。
だから枝番が要る。
番号の形は、そのものの扱われ方に合わせて選ばれている。
三年おきの、二枚
四点目と五点目は、同じ画家の版画である。
受け入れの年は一九一九年と一九二二年。
三年しか離れていない。
そして、番号は百四十三離れている。
つまり、この三年のあいだに、日本の版画が百四十点ほど登録された。
同じ財布から続けて買っていた時期があることが、番号の差から分かる。
版画は一枚の値が安い。
まとめて買っても、絵画一点ぶんに届かないことがある。
数を集めやすい分野である。
館の版画の所蔵が厚くなるのは、こういう買い方の積み重ねによる。
一方で、同じ図柄が他館にもある。
一枚を見て、これが唯一のものだと考えないほうがよい。
摺りの状態と、色の残り方で、一枚ずつの価値が変わる。
一世紀のあいだに、買われたもの
九点の年を並べたい。
一九一〇年、唐の俑。
一九一二年、明の花鳥。
一九一七年、有田の蓋物。
一九一九年と一九二二年、広重の版画。
一九二五年、染付の皿。
一九五二年、陶器の鵜。
一九五三年、江戸の美人図。
一九五九年、江戸の鹿。
前半に中国と初期の日本のやきもの。
後半に日本の絵画。
四十年の空きがあるのは、たまたま選んだ九点の都合である。
しかし、買われる対象が時代とともに移っていることは確かである。

白黒の画像である。
丸い皿を真上から撮っている。
縁が濃く、太い帯になっている。
その内側に、白い面が広がる。
面の上に、笹の葉が何枚も伸びている。
葉の間に、小さな鳥が二羽とまる。
下のほうには、丸い石のような形。
線は細く、濃淡が二段ほど使われている。
縁の濃い部分は、口銹と呼ばれる処理だろう。
ここで、記録の年と作者に注意したい。
十六世紀とある。
しかし、有田で磁器が焼かれるようになるのは十七世紀の初めからとされる。
作者に挙げられた名も、伝説的な人物である。
中国で技法を学んで帰った人と伝えられるが、実在の確証は乏しい。
この作者名と年は、古い時期の伝承に基づく記述と考えるのが妥当だろう。
館がその後どう考えているかは、公開されている記録からは読み取れない。
二十世紀のやきものも買う

黒い鳥が、腹を床につけて伏せている。
首は前へ低く伸び、嘴が斜め下を向く。
嘴は褐色で、先が細い。
喉のあたりだけ、色が淡くなっている。
胴は艶のある黒で、光を強く返す。
翼は体に沿って畳まれ、輪郭だけが浮かぶ。
尾は後ろへ長く伸びる。
全長四十一センチ。
実際の鵜より、少し小さいくらいである。
技法の欄が、色を部位ごとに書き分けている。
喉、嘴、目、裏。
四か所について、それぞれ色が記される。
写真では分からない情報が、文字で補われている。
古い記録ほど、こういう書き方をすることがある。
写真が高価だった時代の名残だろう。
表と裏に、絵がある

縦長の掛軸である。
画面の中ほどに、女性が二人いる。
一人は身をかがめ、もう一人はその横に立つ。
衣は白と黒を基調に、赤が差してある。
背景は無地の淡い色で、何も描かれていない。
その上下に、表装の裂が付く。
裂には花や葉の文様が織り出されている。
そして、画面の上、表装の部分に月と枝が描かれている。
丸い月と、白い花をつけた枝。
つまり、絵は画面の中だけでは終わっていない。
技法の欄に、裏面についての記述がある。
裏側にも絵がある、という意味である。
第十七回で見た屏風の表と裏に近い形である。
掛軸で表裏の両面に絵があるのは珍しい。
公開されている画像は表側だけである。

一頭の鹿が、体を左に向けて立っている。
首をひねり、顔だけがこちらを向く。
角は枝分かれし、上へ伸びる。
体の毛は淡い茶で、輪郭が細い線で引かれる。
背に白い斑点が並ぶ。
脚は細く、蹄が小さく描かれる。
足もとに、細い草が一叢。
背景は何もない。
絹の地の色がそのまま残る。
左下に、赤い印が一つ押されている。
焼けた絹と、残った絹
九点のうち、絹に描かれたものが三点ある。
明の花鳥、江戸の鹿、そして裏面に絹を使った掛軸である。
絹は、時間とともに色が変わる。
白かった地が、黄色から茶へと進む。
繊維が糖に変わり、酸化していくためである。
十四世紀の花鳥は、地がほとんど茶色になっている。
十九世紀の鹿は、まだ薄い黄色である。
同じ絹でも、五百年と二百年では見え方が違う。
紙に描かれたものは、また別の変わり方をする。
繊維が短いので、折れや裂けが出やすい。
一方で、色は絹より残りやすいことがある。
技法の欄に紙とあるか絹とあるかは、いま見えている色の説明でもある。
館の記録は、そこまでは書かない。
材料の名を書くだけである。
読む側が、材料から時間の作用を補って見ることになる。
一枚の写真に、番号が写る
三点目の蓋物には、器の表面に番号が書かれていた。
これは、館が所蔵品に施す標識である。
外れる札では、離れてしまう。
だから、直接書く。
書く場所は、展示のときに見えないところが選ばれる。
高台の内側、裏面、底。
材料も選ばれている。
必要なら消せるものを使う。
古い写真では、その番号が写り込むことがある。
作品の記録写真であると同時に、管理の記録写真でもあったからだろう。
いまの撮影では、番号が写らない角度が選ばれる。
同じ器でも、撮り直せば番号は消える。
見えているものが古い写真かどうかは、そういうところからも分かる。
死んだ人の名で、買い続ける
出所の行を、もう一度読む。
ロジャーズ基金、一九五九年。
名前を持つ人は、一九〇一年に亡くなっている。
五十八年後の買い物に、その名が付いている。
これは奇妙なことである。
しかし、基金という仕組みはそのように作られている。
元本を減らさず、利息で買う。
買ったものには、元本を作った人の名を書く。
寄贈者は一人だが、買い物は無数になる。
一つの遺贈が、七百件以上の出所の行に姿を変えた。
そして、その七百件は分野がばらばらである。
唐の俑、明の絵、有田の磁器、江戸の版画、二十世紀の陶器。
一人の好みではない。
館の学芸員が、その時々に必要と判断したものである。
買った人の名は、残らない
基金で買われた作品には、もう一つ特徴がある。
誰がそれを選んだかが、記録に残らない。
出所の行に書かれるのは、財布の名だけである。
実際には、学芸員が調べ、値を交渉し、決裁を通している。
その仕事は、出所の行には現れない。
来歴の欄に、売り立ての名や仲介した商人の名が入ることはある。
しかし、館の内側で誰が動いたかは書かれない。
寄贈なら、贈った人の名が残る。
購入なら、金を出した人の名が残る。
選んだ人の名は、どちらにも残らない。
七百二十二点を選び続けた人たちの名は、この行からは読めない。
出所の行が記録しないもののなかで、これはいちばん大きい空白かもしれない。
人の名と、判断の名
寄贈の行と、基金の行は、性格が違う。
寄贈の行は、贈った人の好みを記録する。
その人が集めたものが、そのまま入るからである。
基金の行は、館の判断を記録する。
金だけが渡され、何を買うかは館が決める。
だから、同じ「人の名が入る行」でも、意味が逆である。
前者は、外から来た好みの記録。
後者は、内側の判断の記録。
出所の行を読むときには、この違いを押さえておきたい。
ロジャーズ基金と書かれた七百二十二点は、この館が百年かけて何を集めようとしたかの一覧でもある。
次の回では、もう一つの大きな基金を読む。
新聞で財を成した人の遺贈が、日本の版画を二百点近く買った話である。
そして、その回で見る出所の行は、この回よりさらに長い。
一行のなかに、財布の名が六つ並んでいる。
一点を買うために、六つの財布から少しずつ出したのである。

