一辺が、二十センチ台——エドワード・ミッチェル・バニスター
九点はいずれも小さい。最も小さい一点は縦16.5センチ、横13.2センチである。支持体は板と板紙で、硬く、持ち運べる。同じ画家には縦1メートルを超える絵もある。小さな画面の用途を考えたい。三点は、年が記録されていない。

一辺が、二十センチ台
九点の寸法を並べると、いずれも小さい。
最も小さい一点は、縦16.5センチ、横13.2センチである。
最も大きい一点でも、縦27.2センチ、横48センチにとどまる。
同じ画家には、縦1メートルを超える大画面もある。
九点は、その対極にある一群である。
同じ画家が、桁の違う大きさの絵を並行して作っている。
大きな絵は展示や販売のためのものだろう。
では、小さな絵は何のためか。九点を並べて考えたい。
支持体が、板と板紙
九点の技法の欄を読むと、支持体が三通りある。
板紙に油彩が四点、板に油彩が二点、カンヴァスを板紙や板に貼ったものが三点。
いずれも硬い下地である。木枠に張った布ではない。
硬い下地は、小さな画面に向く。反りにくく、持ち運びやすい。
そして、その場で描いて、そのまま鞄に入れられる。
カンヴァスを板紙に貼ったものが三点あるのは、事情が少し違う。
布に描いてから貼ったのか、貼ってから描いたのかは、記録に書かれていない。
保存のために後から貼られた可能性もある。
九点の内訳
先に、九点の中身を確かめておく。
板紙に油彩が四点、板に油彩が二点、カンヴァスを板紙や板に貼ったものが三点である。
主題は、森と野が五点、水辺が三点、人物のいる一点。
年は1873年から1887年ごろ、うち三点は年不詳である。
いずれも同じ画家の小さな油彩である。
屋外で描くための道具
屋外で油彩を描くには、いくつかの条件が要る。
絵具箱、筆、そして持ち運べる画板。
板紙を何枚か重ねて持てば、一日に数点描ける。
乾ききらないうちに重ねると擦れるので、間に仕切りを挟む。
九点の大きさは、その箱に収まる寸法だと考えられる。
もっとも、館の記録には制作の場所が書かれていない。
小さいから屋外で描いた、とは限らない。
ここでの読みは、大きさと筆づかいからの推測にとどまる。
厚く置く絵具
九点の絵具は、いずれも厚い。
筆の跡が盛り上がり、光を受けて陰影を作る。
薄く溶いて塗り重ねる方法もあるが、時間がかかる。
厚く置けば、一度で色が決まる。乾く前に次の色を隣に置く。
この描き方は、屋外の短い時間に合っている。
速い筆
九点を見比べると、いずれも筆が速い。
絵具は厚く、一度置いたらほとんど直していない。
輪郭線はなく、色の面が直接ぶつかる。
細部はほとんど描かれない。木は塊、人は点である。
短い時間で、天気と光を捉えることが目的になっている。
天気は変わる。日は動く。待ってくれない。
だから、迷っている時間がない。置いた色をそのまま残す。
九点の画面に修正の跡が少ないのは、その事情による。

九点で最も小さい一点である。縦長で、掌に収まる。
画面の中央に、二人の人物がいる。
右の一人は立つ。赤い頭巾をかぶり、黄色い上衣と青い裾である。
左の一人は座る。白い衣で、上体を後ろへ倒す。
背後は暗い木立で、緑と褐色が混ざる。
手前の左下には、水面らしい灰色の帯がある。
上部には、明るい部分がわずかに見える。空である。
人物の顔は描かれない。色の点で示される。
小さな画面のなかで、赤と黄だけが強い色である。
人物の衣は、当時の農村の装いだと考えられる。
頭に布を巻き、前掛けを着ける。働く人の姿である。
九点のうち、人物がはっきり描かれるのはこの一点だけである。
小さい画面の、強い色
小さな画面では、色の面積も小さい。
そこに強い色を一つ置けば、画面全体が引き締まる。
九点の多くは、褐色と緑でまとめられる。
そのなかに、赤や黄が一か所だけ入る。
面積の小さい色ほど、強く効く。九点はその原則に従っている。
同じことは、白についても言える。
暗い画面のなかの白い雲、白い波、白い洗濯物。
いずれも小さいが、画面の中で最も目を引く。

森の中の道を描いた画面である。
左右から木が立ち上がる。幹は細く、上へ伸びる。
葉は暗い緑の塊で、上部を覆う。
中央だけが明るく開く。奥の草地が見える。
その明るい部分に、牛が二頭立つ。褐色と白である。
牛のそばに、人らしい小さな影がある。
手前は道で、褐色の絵具が横に流れる。
右下に、署名らしい文字と年が入る。
明るい中央と暗い周囲の対比で、奥行きが作られている。
木を、塊で描く
九点の木は、一本ずつ葉を描かれていない。
暗い緑や褐色の塊として置かれる。
そのなかに、幹の線が数本入る。それだけで木立になる。
小さな画面では、これ以上の描き込みは入らない。
離れて見たときに木に見えれば足りる。
中央だけを、明るく
九点のうち五点で、画面の中央か一部だけが明るい。
周囲は暗く沈む。目は明るい部分へ行く。
これは、森や曇天を描くときによく使われる型である。
小さな画面では、この対比がとくに効く。
見る側の視線を、確実に一か所へ集められる。

九点で最も暗い一点である。
画面の上半分は空で、青灰色と褐色が混ざる。
中ほどに、明るい雲の塊がある。黄がかった白である。
雲の輪郭は柔らかく、周囲に溶ける。
下半分は地面で、ほとんど黒に近い。
わずかに緑が混ざる。草地だと考えられる。
手前には、暗い塊が横たわる。岩か土である。
題には、雨上がり、とある。
空の明るさが、雨の去ったことを示している。
曇りの空
九点の空を見比べると、晴れた青空はほとんどない。
灰色、白、黄、そして黒に近い雲。
曇りの日は、影が柔らかい。形が丸くまとまる。
強い日差しでは、明暗が割れる。九点の画面には、その割れがない。
天気の選び方も、この画家の好みだと考えられる。
空の面積
九点の空の面積を見比べると、幅がある。
最も広い一点では、画面の半分以上を空が占める。
最も狭い一点では、木の隙間からわずかに覗くだけである。
空を広く取れば、天気が主題になる。狭ければ、地上が主題になる。
九点の配分は、その都度変えられている。
天気を、題に書く
九点の題を読むと、天気に触れるものが三点ある。
雨上がり、日没の場面、そして突風。
残る六点は、無題か、場所や物の名である。
天気が明らかな画面にだけ、その語が題に入る。
館が画面を見て付けた題だと考えられる。

横長の画面である。
中央左に、人物が一人立つ。肩に細長い棒を担ぐ。
竿だと考えられる。もう一方の手に、丸いものを提げる。
人物は道の上にいる。道は手前から奥へ伸びる。
道の左右には、低い茂みが並ぶ。褐色と赤茶である。
手前の右下に、木の枝が数本転がる。赤い色が混ざる。
空は白に近い灰色で、平らである。
奥には低い木立が横に並ぶ。
右下に、署名と年が入る。
道という線
九点のうち四点に、道が描かれる。
手前から奥へ、細くなりながら伸びる。
道があると、奥行きが一目で伝わる。
しかも、人がそこを歩く場所であることも示される。
小さな画面で距離を作るのに、最も手軽な方法である。
署名と年
九点のうち四点に、署名らしい文字が見える。
うち二点には、年も添えられる。
小さな習作にも署名を入れるのは、売る可能性があったからかもしれない。
あるいは、単に習慣だったのかもしれない。
館の記録は、署名について何も書いていない。画像でしか確かめられない。

九点のなかで、最も物が多く描かれた一点である。
中央に、大きな屋根の小屋が立つ。屋根は褐色で、急な傾斜である。
小屋の壁には、網らしいものが掛かる。暗い塊になっている。
左には、木の柱と青い舟が見える。
手前の地面は明るい褐色で、平らである。
その上に、長い材木が斜めに横たわる。数本ある。
左下には、桶らしい黒い形がある。
奥には、水面と空がわずかに見える。
生活の道具が散らばる場所が、そのまま画面になっている。
材木と網
いま見た一点には、材木と網が描かれる。
どちらも、置かれたままの形である。整えられていない。
散らかった場所を描くのは、絵としては難しい。まとまりがつきにくい。
それでも描くのは、そこが働く場所だからだろう。
きれいに片づいた風景ではなく、使われている場所が選ばれている。
働く場所を、描く
九点のうち四点に、人の仕事の跡がある。
網の掛かる小屋、耕す人、竿を担ぐ人、牛を追う道。
風景だけの画面は五点である。
同じ画家の大きな作品では、牛や働く人が繰り返し出てくる。
小さな板でも、同じ関心が続いている。

九点で最も横に長い一点である。縦の1.8倍ある。
画面の上半分は空で、黄と橙が横に広がる。
上端は緑がかった暗い色で、下へ向かって明るくなる。
中ほどに、細い水平の帯がある。遠くの陸地である。
その帯の上に、小さな点が並ぶ。木か建物だと考えられる。
下半分は暗い野で、緑と褐色が混ざる。
手前には、細長い暗い形が横たわる。倒木か、水路である。
左下に、署名らしい文字がある。
空の明るさと、地面の暗さの差が、九点で最も大きい。
空を、何色で塗るか
いま見た一点の空には、四つの色が横に重なる。
上から、暗い緑、橙、黄、そして淡い黄褐色。
日没の空は、上下で色が変わる。その変化を層で示している。
境目はぼかされ、色が滑らかにつながる。
小さな画面でも、この処理は丁寧に行われている。
横長という形
九点のうち、縦横の比が二倍近いのはこの一点だけである。
横に長い画面は、広がりを見せるのに向く。
空を大きく取り、地面を細くすれば、遠くまで見渡せる。
日没の空を主題にするなら、この形が合う。
判型の選び方も、主題に応じて変わっている。

九点で最も早い年の一点である。
画面のほとんどを、暗い木立が覆う。
木の幹は細く、縦に何本も並ぶ。
葉は褐色と暗い緑で、塊として置かれる。秋の色である。
木々のあいだに、わずかに明るい部分がある。
右奥に、白い建物らしい形が小さく見える。
手前の地面は暗く、細部が沈む。
上部の空は、木の隙間からわずかに覗く。
全体に暗く、画像では細部が読み取りにくい。
秋の色
いま見た一点の葉は、褐色と暗い緑である。
緑が残りながら、褐色が混ざる。秋の初めだと考えられる。
九点のうち、季節が読み取れるのは三点である。
秋の葉が一点、日没が一点、そして嵐が一点。
残る六点には、季節の手がかりが少ない。
暗い画面と、写真
暗い画面は、写真に写りにくい。
黒に近い部分は、階調がつぶれる。
九点のうち三点は、画像で細部が判別しにくい。
実物なら、光の角度を変えれば見えるかもしれない。
ここで書いた描写は、画像から読み取れた範囲にとどまる。

九点で最も明るい一点である。
画面の下半分は、緑の草地である。
その中ほどに、人と家畜がいる。人は棒を持ち、家畜は前を行く。
耕している場面だと考えられる。
左には、白い布が数枚干されている。洗濯物である。
中央奥に、屋根の低い建物がある。
その周りには木が立ち、黄色い葉が混ざる。
上部の空は薄い灰色で、平らである。
右下に、署名らしい文字がある。
遠くの建物
九点のうち四点に、建物が小さく描かれる。
いずれも遠くにあり、輪郭だけである。
近くに描けば、建物が主題になってしまう。
遠くに置けば、風景の一部にとどまる。
人の暮らしを示しながら、主題は風景のままにする工夫である。
洗濯物という細部
いま見た一点には、干された白い布が描かれる。
小さな点のような形が、横一列に並ぶ。
この細部があると、そこに人が住んでいることが伝わる。
建物だけでは、使われているかどうか分からない。
小さな画面のなかで、この数点の白がよく働いている。

九点の最後は、荒れた海である。
画面の上半分は暗い雲で、ほとんど黒に近い。
中ほどに、白い雲の塊が横に伸びる。渦を巻く。
その下に、波が白く砕ける。細かい筆で置かれる。
右には、舟が一艘傾く。帆柱が斜めに立つ。
舟の上には、赤い点がある。灯りか衣だと考えられる。
奥の右には、細い塔が立つ。灯台である。
下部は暗い海で、波の白だけが浮かぶ。
嵐の一瞬を捉えた画面である。
波の白
いま見た一点の波は、白い絵具を厚く置いて作られる。
暗い海の上に、短い筆で白を重ねる。
一つずつの筆跡が見える。速く動かした跡である。
波は形が定まらない。輪郭を取ると嘘になる。
置いた筆の跡がそのまま波に見える。小さな画面ならではの効果である。
船の傾き
いま見た一点では、舟が斜めに傾く。
水平線と平行なら、静かな海に見える。
傾ければ、揺れていることが伝わる。
帆柱の角度一つで、天気が変わる。
小さな画面では、こうした一本の線が大きく効く。
灯台の名が、題に入る
この一点の題には、灯台の名が入る。
場所が特定される数少ない例である。
九点のうち、地名や施設名が題に入るのはこの一点だけである。
残る八点は、無題か、一般名である。
題の情報量が、九点のあいだで大きく違う。
縦長は、一点だけ
九点のうち、縦長の画面は一点だけである。
残る八点は横長である。
風景を描くには、横長が自然である。視野の形に近い。
縦長を選ぶのは、人物や高い木を主題にするときである。
九点の縦長の一点も、二人の人物が主題になっている。
無題が、四点
九点のうち四点は、無題として登録されている。
かわりに、括弧の中に説明が入る。森の道の牛、畑を耕す男。
括弧の中身は、館が画面を見て書いた説明である。
作者が題を付けなかったのか、伝わらなかったのかは分からない。
同じ画家の無題の扱いについては、九枚とも、無題である——エドワード・ミッチェル・バニスターで扱った。
年が、幅で書かれる
九点の年の欄を見ると、書き方が三通りある。
一年で確定するものが三点、幅で書かれるものが三点、年不詳が三点である。
署名に年が添えられていれば、確定できる。
なければ、画風から推定するか、空欄にするしかない。
小さな習作ほど、年が残りにくい。
見る距離
小さな画面は、近くで見ることを前提にしている。
離れて眺めるには小さすぎる。
近くで見れば、筆の跡や絵具の厚みまで見える。
そこが見どころになる。細部の描写ではなく、手の動きが見どころである。
大きな画面とは、見方が違う絵である。
習作か、作品か
九点は、いずれも作品として登録されている。
習作という区別は、記録には書かれていない。
署名の入ったものもあり、売られた可能性もある。
小さくても完結した絵として扱われている。
大きさは、格付けとは別の話である。
大きな絵との関係
小さな板の画面が、大きな絵の下絵になったかどうかは分からない。
同じ構図の大画面が見つかれば、対応が確かめられる。
九点については、そうした対応は確認できていない。
下絵として描かれたのか、それ自体が目的だったのか。
館の記録には、その区別が書かれていない。
同じ寄贈から
九点はすべて、同じ番号の系列に属する。
一括して館に入ったことを示す。
一人の画家の小品が、これだけまとまって残るのは珍しい。
散らずに伝わったからこそ、大きさや支持体を並べて比べられる。
まとまりは、それ自体が情報である。
三つの寸法の群
九点の寸法を細かく見ると、三つの群に分かれる。
縦16センチ台が一点、縦20センチから22センチが三点、縦25センチから27センチが五点である。
同じ大きさの板を何枚か用意して、順に使ったのだろう。
寸法の群は、買った板の束に対応しているのかもしれない。
もっとも、記録には板の入手先までは書かれていない。
大きさから読む
この記事は、寸法の欄から入った。
一辺が二十センチ台という数字が、この一群の性格を決めている。
持ち運べる大きさ、短い時間、厚い絵具、少ない細部。
すべてがその数字とつながっている。
同じ画家の牛の主題については、牛が、何度も出てくる——エドワード・ミッチェル・バニスターにも書いた。





