描かれた人の名が、出所の行にもある——ジョージ・ベローズ
肖像に描かれた本人の名が、その絵の出所の行にも現れる。自分の肖像を、自分の名の収集として館へ渡したからである。似た名の寄贈者がいる一点もある。同時代の作品だからこそ起きる名の重なりを読みたい。番号は、夫妻で別々に振られている。

描かれた人の名が、出所の行にもある
八点の出所の行を読むと、奇妙なことに気づく。
三点の行が、チェスター・デイル・コレクションとある。
そして、そのうち一点の題は《チェスター・デイル》である。
もう一点の題は《モード・マレー・デイル》。
括弧には、チェスター・デイル夫人、と添えられる。
つまり、描かれた本人と、その配偶者の肖像が、本人の名の収集に入っている。
自分の肖像を、自分の名で館へ渡したことになる。
出所の行と題の欄に、同じ名が並ぶ。
こういう例は、記録の中でもそう多くない。
収集家が、画家に描かれる
肖像は、注文して描いてもらうものである。
注文するのは、たいてい描かれる本人か、その家族だ。
八点のうち二点は、同じ夫妻を描いている。
年は1919年と1922年。三年の差がある。
同じ画家に、続けて注文したことになる。
その画家の作品を、この夫妻は多く集めていた。
館の公開データを見ると、この収集の名を持つ絵は多い。
未使用の作品だけでも、二百点以上がこの行を持つ。
集めるだけでなく、描いてもらってもいた。
収集家と画家の関係が、二点の肖像に残っている。

男が、上半身より少し下まで描かれる。
体は正面を向き、顔もこちらを向く。
髪は短く、額の上で分けられる。
口髭を蓄える。
肩から、大きな外套が掛かる。
外套は暗い赤褐色で、縁に緑と赤の縞が入る。
その縞が、胸の前で斜めに走る。
首もとには、白い襟と赤い蝶結びが見える。
両手を下で組み、細い杖を握る。
杖は横向きに持たれる。
背景は暗い灰褐色で、何も描かれない。
顔と、縞の入った布だけが明るい。
外套の質感が、絵の主題のようになっている。

女性が、椅子に腰かける。
体はやや右を向き、顔はこちらを見る。
頭には、青みを帯びた帽をかぶる。
帽は縁が広く、額を覆う。
衣は淡い緑がかった白で、光沢がある。
肩から、暗い色の外套が掛かる。
胸もとには、青い紐が縦に垂れる。
両手を膝の前で組み、長い手袋をはめる。
手袋は黄土色で、肘まで届く。
背景は暗い紫褐色で、平らである。
技法の欄には、板に油彩とある。
八点のうち、板に描かれているのは二点だけだ。
括弧の中に、別の呼び名
八点の題を見ると、三点に括弧が付く。
括弧の中には、別の呼び名が入る。
誰それ夫人、という形である。
結婚後の呼ばれ方を、括弧で添えている。
題の主となる名は、その人自身の名だ。
括弧の中は、当時よく使われた呼び方である。
二つを並べて書くのは、どちらでも探せるようにするためだろう。
古い文献では、夫人という形でしか出てこないことがある。
新しい記録では、本人の名を先に置く。
その両方を一つの題に収める。
括弧は、ここでも二つの粒度を畳む役に立っている。
括弧の使い方と、考え方は同じである。
主となる情報を先に、付随する情報を後に。
番号が、一つずつ分かれている
二点の番号を見ると、面白いことが分かる。
1944.15.1と1944.16.1。
同じ年だが、受入番号が違う。
15番目の受入と、16番目の受入である。
夫妻の肖像でありながら、別々の受入として扱われている。
一度にまとめて処理すれば、同じ受入に入れられたはずだ。
そうしなかった理由は、記録に書かれていない。
考えられるのは、書類の上で別の扱いだったということだ。
一方が夫の名義、他方が妻の名義だったのかもしれない。
いずれにせよ、記録は分けている。
分けた以上、番号も別になる。
番号が別なら、後から別々に扱える。

女性が、上半身で描かれる。
体は正面を向き、顔はやや右へ傾く。
髪は赤く、肩の上で巻く。
肌は明るく、背後の暗さと対をなす。
右腕を胸の前に上げ、体を隠す。
左手は下へ垂れ、指が開く。
腕には、金色の輪がはまる。
首にも、金色の飾りが回る。
肩から、黒い布が背後へ落ちる。
右下には、赤い布が広がる。
背景は暗い青灰色で、上部が明るい。
赤い髪と赤い布が、画面の左右で呼応する。
同じ収集の行を持つ、三点目である。
二十年後の受入
三点目の番号は1963.10.84である。
先の二点より、十九年遅い。
同じ収集の名でありながら、受入の年が離れている。
これは、収集家の存命中に一部が渡り、残りが後から渡ったことを示す。
大きな収集が一度に館へ移るとは限らない。
別の記事でも、同じ形を見た。
出所の行は変わらず、番号だけが動く。
行が群を示し、番号が時間を示す。
三点は、その原則をよく表している。

女性が、籐の椅子に腰かける。
体は正面を向き、顔もこちらを向く。
白いつばの広い帽をかぶる。
帽には、淡い緑の帯が巻かれる。
衣は白く、襟もとに薄い布が重なる。
腰には、鮮やかな緑の帯が締められる。
左手を椅子の肘に置く。
その手の下に、緑の飾りが見える。
背景は深い緑と青で、暗い。
椅子の籐の目が、細かく描かれる。
白い衣と緑の帯の対比が強い。
出所の行の寄贈者は、題の人物と同じ名と頭文字を持つ。
同一人物かどうかは、記録には書かれていない。
板とカンヴァスが、混ざる
八点の技法の欄を見ると、板が二点、カンヴァスが六点である。
二十世紀の絵で板が使われるのは、やや珍しい。
板は硬く、絵具の乗りが変わる。
筆の跡が残りにくく、面が滑らかになる。
八点のうち板の二点は、いずれも肖像である。
顔の肌をなめらかに描きたい場合に、板が向く。
もっとも、これは推測にとどまる。
館の記録には、なぜ板を選んだかは書かれていない。
書かれているのは、板であるという事実だけだ。
事実から先は、見る側が考えることになる。
考えるための材料として、技法の欄がある。
材料だけを渡して、結論は渡さない。
名が重なるとき、記録は何も言わない
いま見た一点について、もう少し書いておきたい。
題にある名と、寄贈者の名は、下の名と頭文字が共通する。
姓は違う。
同じ人物が、後に姓を変えたのかもしれない。
親族かもしれない。まったくの別人かもしれない。
館の記録は、そのどれとも言わない。
書かれているのは、題の名と、寄贈者の名だけである。
推測を書けば、記録ではなくなる。
読む側は、二つの名が似ていることに気づくだけだ。
気づいたうえで、確かめる材料がなければ止める。
記録の読み方として、これは大事な手順である。
気づくことと、決めつけることは違う。

少女が、全身で立つ。
黒い帽をかぶり、白い襟の衣を着る。
上着は濃い緑で、袖が長い。
裾は膝の下まで届く。
足には黒い靴下と靴。
右手に、小さな傘を持つ。
傘は畳まれ、放射状の骨が見える。
左手には、赤い花を持つ。
背後の左は青灰色、右は緑の布が垂れる。
足もとの床は、深い赤である。
顔は正面を向き、目が大きい。
八点の中で、二番目に背の高い画面である。

少女が、横向きに立つ。
体は左を向き、顔もその向きに近い。
白い衣は足首まで届く。
袖は長く、手首で絞られる。
腰には帯が回る。
両手を前で組む。
足には黒い靴下と、丈の高い靴。
髪は褐色で、肩の上で巻く。
背景は暗い緑褐色で、平らである。
床との境が、はっきりしない。
白い衣だけが、画面の中で明るい。
八点でいちばん背の高い画面である。
三つの出所の行
八点の出所の行を数えると、四通りある。
チェスター・デイル・コレクションが三点。
ポール・メロン夫妻のコレクションが三点。
個人の寄贈が二点。
大きな収集が二つ、そこに個人の寄贈が加わる形だ。
同じ画家の作品が、二つの大きな収集の両方に含まれている。
同時代の画家であれば、複数の収集家が同時に集めることになる。
その結果、館の記録に同じ画家が別々の行で並ぶ。
十八世紀の画家とは、事情が違う。
あちらは家に伝わった肖像が個別に届いた。
こちらは、同時代の市場で集められている。

横長の画面に、長椅子が置かれる。
その上に、女性が横たわる。
体は右へ伸び、頭は左に置かれる。
顔は下を向き、目は伏せられる。
髪は明るい褐色で、肩に落ちる。
長椅子には、赤紫の布が掛かる。
その上に、色の異なる布片を縫い合わせた掛布が敷かれる。
掛布の布片は、六角形である。
赤、緑、黄、白の六角が並ぶ。
背後の壁には、緑地に赤い花の壁紙がある。
左には、緑の鎧戸が見える。
右奥には、花瓶と花が置かれる。
模様の多い背景と、単純な人体が対をなす。
戦争の場面を、一点だけ
八点のうち一点は、他と大きく違う。
1918年に描かれた、戦時の場面である。
題は《ドイツ兵が来る》。
画面には、暴力の結果が描かれている。
館の記録には、題と年と寸法だけがある。
何を典拠にした場面かは、書かれていない。
当時、報じられた出来事をもとに描かれた作品群がある。
その報道の内容は、後に検証の対象にもなった。
館の記録は、そこには踏み込まない。
踏み込まないことで、判断を読む側に委ねている。

横長の画面である。八点でいちばん幅が広い。
中央に、二人の人物が組み合う。
一方は軍装の男、他方は民間の若者である。
若者の腕から、血が流れている。
右には、軍装の人物が横一列に並ぶ。
いずれも銃を構えるか、こちらを見る。
左には、白い衣の女性たちが立つ。
手を上げ、身を寄せ合う。
手前の地面には、倒れた人物がいる。
背後には、崩れた建物と煙が見える。
空は灰色で、雲が低い。
色は灰と褐色に抑えられ、血の赤だけが強い。
暴力の場面が、直接に描かれている。
大きさが、二つの群に分かれる
八点の寸法を並べると、二つの傾向がある。
一つは、縦が横より大きく、縦長になる群。
肖像の五点がここに入る。
もう一つは、横が縦より大きい群。
裸婦の一点と、戦争の場面の一点である。
縦長は、立つ人や座る人を収めるのに向く。
横長は、横たわる人や、複数の人物を並べるのに向く。
画面の形が、主題を決めているとも言える。
逆に、主題が形を決めているとも言える。
どちらが先かは、作品によって違うだろう。
寸法の欄を並べると、その関係が見えてくる。
数字だけの欄だが、読み方によっては主題まで語る。
十七年の仕事が、八点に入る
八点の制作年を並べると、1907年から1924年までになる。
十七年の幅がある。
いちばん早い一点は、白い服の少女の全身像だ。
いちばん遅い一点は、掛布の上に横たわる裸婦である。
初期の一点は、背景が暗く、色数が少ない。
後期の一点は、模様の多い背景に、明るい色が並ぶ。
同じ画家の画面が、十七年で大きく変わっている。
もっとも、その変化を八点で語るのは危うい。
八点は、出所の行を軸に選んだものだからだ。
制作年の順に選んだわけではない。
年の並びに傾向が見えても、それは偶然かもしれない。
記録から言えるのは、八点の年が十七年に散っていることまでである。
受入の年は、七十七年に散る
制作年に対して、受入の年はもっと散っている。
1944年が二点、1963年、1979年、1983年が三点、2021年。
最初と最後で、七十七年ひらく。
描かれた期間の四倍以上である。
作品が作られる速さと、館に集まる速さは違う。
十七年で描かれたものが、七十七年かけて集まる。
そして、まだ増えるかもしれない。
いちばん新しい一点は、2021年の受入だ。
つまり、この画家の作品はいまも館へ届いている。
館の収蔵品は、完成した集合ではない。
いまも動いている途中の集合である。
番号の頭の四桁が、その動きを示している。
肖像が、五点を占める
八点のうち五点は肖像である。
夫妻の二点、少女の二点、そして帽の女性の一点。
残る三点は、裸婦が二点と、戦争の場面が一点。
肖像が多いのは、選び方の結果でもある。
しかし、この画家が肖像を多く描いたことも確かだ。
同時代の画家は、注文の肖像で生活を支えることが多かった。
収集家が自分と配偶者を描かせるのも、その一例である。
そして、その肖像が収集の一部として館へ渡る。
肖像は、注文した人の家に残りやすい。
家に残れば、いつか寄贈の対象になる。
出所の行に個人の名が多いのは、そういう経路のためだ。
肖像画と寄贈は、記録の上でつながりやすい。
帽が、三点に出てくる
八点のうち三点で、人物が帽をかぶる。
青みを帯びた帽、白いつばの広い帽、黒い帽。
いずれも室内の場面である。
室内で帽をかぶるのは、当時の装いの一部だった。
外出着のまま座って描かれている、ということでもある。
肖像の中の装いは、その人の立場や好みを示す。
帽の形や色が、時期の手がかりになることもある。
もっとも、館の記録は装いについて何も書かない。
書かれるのは、題と年と技法と寸法と出所だけだ。
装いの情報は、画像の側にしかない。
記録と画像は、そうやって役割を分けている。
文字で書ける情報と、書きにくい情報がある。
描かれた人と、贈った人
八点を通して見えるのは、名の重なりである。
描かれた人の名が、出所の行にも現れる。
自分の肖像を、自分の名の収集として館へ渡す。
似た名の人物が、その肖像を贈る。
こういう重なりは、同時代の作品だからこそ起きる。
十五世紀の板絵では、まず起きない。
描かれた人も、注文した人も、とうに亡くなっているからだ。
同時代の絵では、描かれた人が贈り主になりうる。
その結果、題の欄と出所の行に同じ名が並ぶ。
美術館の記録は、そういう重なりを隠さない。
名の重なりを、どう読むか
題の欄と出所の行に同じ名があるとき、読み方は二つある。
一つは、単なる偶然として流すこと。
もう一つは、そこに関係があると見ること。
八点の場合、一つは明らかである。
夫妻の肖像が、その夫妻の名の収集に入っている。
もう一つは、判断できない。
名は似ているが、姓が違う。
記録は、どちらとも言わない。
言えないことを言わないのは、記録の基本である。
読む側は、その沈黙も含めて読むことになる。
沈黙は、情報がないことを示す情報でもある。
八点の行を並べると、その沈黙の位置まで見えてくる。
そして、沈黙の位置は、これから埋まるかもしれない場所でもある。
寄贈の書類が確認されれば、関係は分かるだろう。
分かった時点で、館は記録を足すはずだ。
いまの空白は、調べが済んでいないというしるしである。
同じことは、他の欄にも言える。
年の欄の幅も、作者の欄の修飾語も、いまの状態を示すだけだ。
記録は、完成したものとして読むべきではない。
途中経過として読むほうが、実際に近い。
八点の行は、その途中経過の一枚である。
十年後に同じ八点を引けば、行が増えているかもしれない。
増えていなければ、それはそれで一つの情報だ。
調べが進まなかった、あるいは進めても分からなかった。
どちらにせよ、いま読める範囲が、いまの記録である。
その範囲を超えて読もうとしないことが、記録との付き合い方になる。
超えたくなったときは、自分で調べるほかない。
館の記録は、そのための出発点として置かれている。
出発点であることを知っていれば、空白も怖くない。
空白は、これから何かが入る場所である。
そして、いま入っている行は、誰かが調べて書いたものだ。
書いた人の名は、記録には出てこない。
出てこないまま、その仕事だけが残っている。



