売る場面は、並べることで示される——李嵩・歌麿・ピサロほか九点
品を並べれば売り場になり、並べなければただの荷物である。売るの九点を数えると、買う人がいるのは三点だけで、金銭が動く瞬間はどこにも描かれていなかった。売り手と目が合う作も一点もない。商いの絵は、商いの手前で止まっている。

荷を置いたまま、売り手が駆け出す
画帖の一葉である。
画は24.1×26センチしかない。
絹は褐色に変わっている。
画面の輪郭は、四隅が丸い。
団扇の形をしている。
画面の右に、大きな荷がある。
荷は、細い枠に品を吊り下げたものである。
枠は木で、二段になる。
そこから、無数の小さな物が下がる。
壺、笛、玩具、面、旗、鳥籠。
数えられないほど多い。
一つ一つは、爪ほどの大きさである。
荷の下には、車輪らしいものがある。
荷のそばに、子どもが数人いる。
子どもは荷に手を伸ばす。
画面の左には、別の集まりがある。
そこにも、子どもが数人いる。
一人は棒を振り上げる。
一人は石を持つ。
地面に、細長いものがいる。
蛇である。
その二つの群れのあいだを、男が走る。
男は左へ向かう。
体は前へ傾き、袖が後ろへ流れる。
顔は子どものほうを見る。
口は開いている。
背には、まだ小さな荷を負う。
線は細く、一本ずつ引かれる。
色は薄く、褐色に近い。

館の記録では、この宮廷の画家は子どもと行商人とその品々を細密に描くのに優れていた。
そして館は、この一葉の場面について書いている。
子どもたちが棒と石で蛇を攻めている。
行商人は子どもたちのほうへ駆け寄り、商品を置き去りにしているという。
さらに館は、こう続けている。
ある皇帝の治世に描かれたこの絵で、幼い子をめぐって起きる出来事は、その皇帝の事情に触れているのかもしれないという。
館の記録は、そう推測している。
つまり売る場面が、売らない一瞬を描いている。
売るは、九つの場所に現れる
この一葉を出発点に、売ることにまつわる九点を数えていく。
売る場面には、三つの要素がある。
品と、売る人と、買う人である。
そして品は、たいてい並べられる。
並べ方が、その商いの性格を示す。
先に言ってしまうと、九点のうち、売る場面は六点である。
そのうち、買う人がいるのは三点だけである。
二点では、売ることは画家自身の生計である。
そして一点では、売る品は画面に見えない。
つまり九点のうち三点で、売る相手がいない。
扇を売る人が、大きく描かれる
二点目は、版画である。

縦長の版画である。
高さ37.8センチ、幅25.1センチある。
画面に、女が二人いる。
手前の一人は、上半身が大きく描かれる。
顔は左を向く。
眉は細く、目は伏せられる。
髪は結い上げられ、簪が挿さる。
衣は白地に、細かい文様がある。
肩から、桃色の布が掛かる。
その後ろに、もう一人いる。
そちらは顔を上げ、右を向く。
二人のあいだに、扇がある。
扇は開かれ、面が白い。
もう一つの扇は、黒い。
黒い扇は、大きく画面を占める。
画面の右下に、丸いものがある。
丸には、絵が描かれている。
団扇の面である。
その面には、人物が描かれる。
つまり売られているのも、絵である。
背景は、淡い黄土色である。
館の札には「扇」と「女性たち」がある。
館の記録は、それ以上のことを書いていない。
つまり買う人は、画面にいない。
九点のうち、売る品が絵なのは、この一点である。
市の中で、栗を売る
三点目は、版画である。

縦長の版画である。
画面は19.8×15.1センチしかない。
線は細く、灰色である。
画面の手前に、人が数人いる。
いちばん手前の一人は、背中を見せる。
肩は丸く、帽子をかぶる。
その右に、女が立つ。
女は籠を抱える。
顔は下を向く。
中央には、低い台がある。
台の上に、丸いものが積まれる。
栗である。
台の脇に、火のある鉢がある。
奥には、群衆がいる。
群衆は小さく、線だけである。
さらに奥には、建物の壁が続く。
壁には、窓が並ぶ。
いちばん上には、屋根と煙突がある。
線は上へ行くほど細くなる。
館の記録では、この画家は本質的に風景の画家だった。
版画の多くは、農民のいる風景であるという。
そして館は、こう続けている。
その像は、労働に疲れた働き手を決して見せない。
この画家は、田舎の暮らしの心地よさを伝えることに関心があったという。
さらに館は、構図について書いている。
手前に人物を置く配置は、当時の画家たちに影響していた別の国の美術の、平らな意匠と二次元的な空間の考えを映しているという。
館の記録は、そう説明している。
つまり売る場面は、風景の一部として描かれている。
台の前で、猫が横切る
四点目も、市の場面である。

横長の版画である。
画面は30.4×34センチある。
色は、黄と赤と緑と黒である。
面は平らに塗られる。
画面の上のほうに、日除けがある。
日除けは黄と赤の縞である。
縞は横に走る。
その下に、台が並ぶ。
台の上に、品が散らばる。
品は小さく、色の点である。
何かは、判別できない。
画面の左に、人が二人いる。
一人は帽子をかぶり、身をかがめる。
もう一人は、白い衣で立つ。
その足元に、黒い塊がある。
塊は大きく、輪郭が丸い。
犬らしい。
右下にも、黒い形がある。
そちらは細長い。
猫である。
猫は歩いている。
背景は、白い紙のままである。
館の記録では、この一組の版画は、都市の暮らしについての観察を集めている。
賑やかな街路から、画室の窓から見た遠い眺めまであるという。
そして館は、こう続けている。
有名な建造物を記念するのではなく、この画家は近所の小さな場面を好んだ。
買い物をする人、散歩する人、そして品を売る物売りが住む場面であるという。
館の記録は、そう説明している。
つまり売る場面は、街路の一部である。
九点のうち、犬と猫がいるのは、この一点である。
牛を挟んで、男たちが立つ
五点目は、素描である。

横長の紙である。
画は29.5×41.7センチある。
線は茶色で、淡彩が加わる。
画面の中央に、牛がいる。
牛は横を向く。
体は太く、背が高い。
角は短く、前へ曲がる。
首は下がり、頭が低い。
その右に、男が数人立つ。
男たちは背が高く、帽子をかぶる。
外套は長く、床まで届く。
一人は牛のほうを指す。
一人は腕を組む。
顔は、どれも小さい。
牛の左には、別の群れがある。
そちらにも、牛と人がいる。
奥には、低い建物がある。
建物の脇に、細い塔が立つ。
空には、鳥が数羽飛ぶ。
地面は明るく、影が短い。
館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。
つまり場面の説明はない。
題が、売る相手を示している。
牛は、品である。
しかし牛は、自分で立って歩く。
九点のうち、品が生きているのは、この一点である。
店先が、写真に写る
六点目は、写真である。

横長の写真である。
画面は20×27.2センチある。
全体が、褐色がかっている。
画面いっぱいに、建物がある。
屋根は草葺きで、厚い。
軒は低く、前へ張り出す。
軒の下は、暗い。
その暗がりの中に、人が並ぶ。
数えると、十人以上いる。
多くは白い衣を着る。
一人は、頭に布を巻く。
手前には、低い台がある。
台の上に、果物が積まれる。
果物は丸く、大小がある。
台の脇には、籠がある。
籠は円く、口が広い。
地面は乾いた土である。
土には、車の轍がある。
左の隅にも、人が立つ。
館の記録では、こうした職業の場面は、十九世紀の植民地の写真で好まれた主題だった。
そして館は、この一枚について書いている。
こうした像は、旅に出ない人びとに、土地の暮らしと習俗を伝えた。
ただし、それは西の側の目を通して見られたものであるという。
館の記録は、そう明記している。
つまり売る場面が、見せるために撮られている。
九点のうち、館が視点の偏りを断っているのは、この一点である。
荷車に住み、物を売る
七点目も、写真である。

縦長の小さな写真である。
画面は10.8×8.6センチしかない。
画面の中央に、大きな荷車がある。
荷車は木で、箱の形をしている。
屋根は丸く、煙突が立つ。
側面には、小さな窓がある。
窓の内側に、人の顔が見える。
荷車の下には、大きな車輪がある。
車輪は片方だけ見える。
荷車の前に、人が数人いる。
左の一人は、立って腕を組む。
中央の一人は、椅子に座る。
その膝に、子どもがいる。
右の一人は、しゃがむ。
足元には、道具が散らばる。
奥には、木の柵がある。
さらに奥に、建物が並ぶ。
空は明るく、雲が薄い。
館の記録では、この写真家の協力者である記者が、こう書いている。
この都市には、さまよう定まらない習いから、遊牧の群れとも呼べる人びとがいる。
そして館は、こう続けている。
その人びとは荷車に住み、都市を移動した。
季節の仕事に就くか、市や祭りで安い品を売るか、戸口を回って売ったという。
館の記録は、そう説明している。
つまり売る品は、写っていない。
写っているのは、住まいと、家族と、道具である。
九点のうち、売る品が見えないのは、この一点である。
扇に絵を描いて、生計を立てる
八点目からは、売るのは画家である。

細長い掛幅である。
画は124×49.4センチある。
画面の上のほうに、山がある。
山は青緑で、丸い。
山の裾に、小さな家が並ぶ。
家は屋根だけが見える。
山から、川が流れ下る。
川は白く残される。
川の両側には、田がある。
田は薄い緑で、四角く区切られる。
中ほどには、木立がある。
木は細く、上へ伸びる。
竹らしいものも混じる。
その奥に、家がいくつかある。
手前は、水が広がる。
水面には、舟が一艘浮かぶ。
舟には、人が二人乗る。
一人は棹を持つ。
一人は座る。
館の記録では、この画家は父を早くに亡くし、はじめは扇に絵を描いて売って生計を立てた。
やがて、ある都市の文人の輪の中に場所を得て、その中心の一人になったという。
そして館は、この画面を説明している。
川は山あいの村から流れ下り、農地を抜ける。
そして手前の岸辺の、木と竹に囲まれた漁村へ至るという。
館の記録は、そう説明している。
つまり売られたのは、この画家の別の絵である。
扇の絵は、安く、数多く作られた。
九点のうち、売ることが経歴として書かれるのは、この一点で二点のうちの一点目である。
扇は日用の品である。
絵を描いても、値は高くならない。
そのかわり、数が出る。
館に残っているのは、この掛幅のほうである。
売られた扇は、残っていない。
生計を支えた絵ほど、消えやすい。
扇と絵の関係については、手の中の扇で扱った。
絵を売り、教えて、山へ行く
最後の一点でも、売るのは画家である。

横長の小さな画面である。
額なしで29.5×49.2センチしかない。
画面は、渓流の一部である。
視点は低く、水面に近い。
画面の中央に、大きな岩がある。
岩は褐色で、角ばる。
岩の上に、苔が生える。
苔は明るい緑である。
その脇に、木の根が出る。
根は太く、うねる。
根のあいだから、水が落ちる。
水は白く、細い筋になる。
筋は数本ある。
画面の左にも、岩がある。
岩は暗く、影に沈む。
奥には、木の幹が立つ。
幹は太く、上で切れる。
空は、見えない。
画面いっぱいが、水と岩と木である。
遠くの眺めは、まったくない。
手を伸ばせば届く範囲だけが描かれる。
売るための絵としては、めずらしい選び方である。
名所でも、広い眺めでもない。
買い手が場所を特定できない絵である。
館の記録も、場所は記録されていないと書く。
売れた先も、書かれていない。
館の記録では、女性が多くの障壁に直面していた時代に、この画家は風景画家として成功した最初の一人になった。
そして館は、生計について書いている。
作品を売ることに加えて、女性のための野外の写生旅行を組んで収入を得たという。
さらに館は、この一枚について書いている。
場所は記録されていないが、ある年の夏の旅で描かれたらしい。
低い視点から近くを写し、木の根、傾いた岩、苔、草むら、そして緩やかな水の落ちる様子を収めているという。
館の記録は、そう説明している。
つまり売ることと、教えることが並んでいる。
九点のうち、売る以外の収入が書かれるのは、この一点である。
売ることと教えることは、どちらも人を相手にする。
描くことだけが、一人でできる。
そして館の記録は、場所が記録されていないと断っている。
描いた場所より、売った事実のほうが残っている。
水の落ちる場面については、滝で扱った。
数えてみると
九点を並べ直す。
売る場面は、六点である。
行商人、扇売り、栗売り、市の台、牛の商い、そして店先。
そのうち、買う人がいるのは三点である。
売る品が見えないのが、一点。
売ることが画家の生計なのが、二点である。
もう一つ数える。
九点のうち、品が並べられているのは四点である。
吊り下げられた小物、積まれた栗、台の上の品、積まれた果物。
並べ方は、吊るす、積む、置くの三通りである。
吊るすのは、小さくて数の多い品。
積むのは、形のそろった品。
置くのは、大きくて数の少ない品である。
品の性質が、並べ方を決めている。
吊るす一点だけが、荷ごと動かせる。
動く売り場と、動かない売り場がある。
動く売り場は、三点である。
行商人、扇売り、そして荷車の人びと。
動かない売り場は、二点である。
草葺きの店先と、市の台。
屋根があるかどうかが、その差になる。
屋根があれば、雨の日も売れる。
なければ、天気が商いを決める。
九点のうち、雨や雪の日は一点もない。
どれも、売れる日が選ばれている。
商いの絵は、よい日を描く。
悪い日は、記録にも絵にも残りにくい。
残るのは、品の並んだ日である。
九点は、そのよい日ばかりを並べている。
さらに数える。
九点のうち、館の記録が売ることに触れるのは五点である。
題に売る語があるのは、四点である。
扇売り、栗売り、物売り、牛を売る男。
記録の説明文に出るのは、三点である。
行商人、荷車の人びと、そして二人の画家。
題と説明文の両方に出るのは、一点もない。
言えることと、言えないこと
言えるのは、売る場面が「並べることで示される」ということである。
品を並べれば、売り場になる。
並べなければ、ただの荷物である。
九点のうち四点で、品は並べられていた。
そして最初の一葉では、その並べたものが置き去りにされていた。
置き去りにした瞬間が、選ばれている。
言えないのは、売る場面に買う人が要るという話である。
九点のうち六点で、買う人はいない。
いるのは、売る人と、品だけである。
売買の相手は、画面の外にいる。
見る側が、その位置に立つことになる。
売り手は、たいていこちらを見ていない。
目が合うのは、九点のうち一点もない。
買う客としてではなく、通りすがりとして見ている。
最後に、はじめの一葉へ戻る。
荷には、数えきれない品が下がっている。
その全部が、いま誰にも見られていない。
売り手は、走り去っている。
商いが止まった一瞬に、品だけが残る。
九点を数え終えて残るのは、その残された荷のほうである。
荷は、売るために作られた。
そして、売られる前の状態で描かれている。
九点のうち、実際に金銭が動く場面は一つもない。
手から手へ品が渡る瞬間も、描かれていない。
描かれるのは、その前か、その周りである。
商いの絵は、商いの手前で止まっている。
止まったところに、品が積まれている。
積まれた品は、数えられる。
渡されてしまえば、数えられなくなる。
数えられるうちが、絵になる時間である。
最初の一葉では、その数が最も多い。
吊るされた品は、数えきれない。
数えきれないものを、細い線で一つずつ描いている。
描く手数が、そのまま商いの規模になる。
手数の多さが、豊かさを示している。
そして、その全部が置き去りにされている。
売り手は、子どものほうへ走っている。
商いより、子どもが先に来ている。
館の記録も、その順序を場面の中心に据えている。
売る絵でありながら、売らない場面である。
九点の入口が、その逆説になっている。
