暮らしと名画

鏡は、映すか、並べるか——ニューマン・ロートレック・カメロンほか九点

一人を二人に見せる鏡、何も映っていない姿見、掲げられた古代の手鏡。鏡の九点を数えると、鏡が鏡として働いていたのは一点だけだった。残りは枠だけの鏡か、書名の中の鏡である。映すものが、そのまま手本の名になる。

鏡に映る婦人
カール・ニューマン《鏡に映る婦人》スミソニアン協会蔵

二人に見える、一人

油彩である。

127×76.3センチ。

縦に長い。

画面に、女が二人いるように見える。

右の一人は、背を向ける。

左の一人は、こちらを向く。

二人は、同じ衣を着ている。

緑と青の、細かい点で埋められた衣である。

肩に、橙の布が掛かる。

髪は、どちらも高く結われる。

顔の向きだけが、逆である。

実際には、一人である。

画面の中央に、縦の線がある。

鏡の枠である。

左は、鏡に映った姿である。

右は、鏡の前に立つ本人である。

鏡の前に、小さな棚がある。

青と白の壺が、載る。

筆は、細かい点の重なりである。

色が、混ざらずに並ぶ。

鏡に映る婦人
カール・ニューマン《鏡に映る婦人》一九一〇年より前。館の記録では、油彩・カンヴァス。127×76.3センチ。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。カール・ニューマン《鏡に映る婦人》スミソニアン協会蔵

館の記録は、ごく短い。

作者と題と材料と寸法である。

年は、ある年より前としか書かれていない。

題は、括弧に入っている。

つまり、作者が付けた題ではない。

館が、内容から付けた呼び名である。

鏡に映る婦人。

それだけで、この画面を言い当てている。

九点の最初に、これを置く理由である。

鏡は、一人を二人にする。

そして、どちらが本人かを見分けさせる。

見分ける手がかりは、顔の向きだけである。

衣も、髪も、寸法も同じである。

鏡は、大きさを変えない。

平らな鏡なら、映った姿は実物と同じ大きさになる。

だから、二人に見える。

この画家は、点を並べて色を作る描き方をしている。

点の細かさも、左右で変わらない。

映すことについては、水は、器の形で示されるで扱った。

鏡の前で、後ろを向く

厚紙に描かれた油彩である。

62.2×47センチ。

縦長である。

画面の中央に、女が立つ。

裸である。

背を向けている。

髪は、赤みがかった金である。

高く結われる。

背の中央に、浅い溝が走る。

腰は、細い。

脚は、黒い靴下を履く。

その境目が、腿の上にある。

足元に、白い布が落ちる。

右に、寝台らしいものがある。

左に、大きな枠がある。

姿見である。

枠は、木でできている。

しかし、映っているものが見えない。

角度のせいである。

背景は、赤い。

筆は、粗い。

鏡の前の女
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《鏡の前の女》1897年。館の記録では、油彩・厚紙。62.2×47センチ。番号は2003.20.15。メトロポリタン美術館蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《鏡の前の女》メトロポリタン美術館蔵

館の札は、三つある。

女性の裸体、娼婦、そして鏡である。

鏡という札が、はっきり付いている。

題にも、鏡の前という語が入る。

しかし、鏡には何も映っていない。

正確には、映っているものがこちらから見えない。

女は、鏡のほうを向いていない。

背を向けて立っている。

前の一点では、鏡が一人を二人にした。

ここでは、鏡はあるのに働いていない。

枠だけが、画面の左にある。

それでも、題は鏡の前の女である。

鏡があるというだけで、この場面は身支度の場面になる。

映っていなくても、鏡は意味を出す。

そして、映らないほうが都合のよい場合もある。

映せば、顔が見えてしまう。

顔が見えれば、誰かがわかる。

この画面の人物には、名がない。

背を向け、鏡にも映らない。

二重に、顔が避けられている。

身支度については、身支度は、後ろから描かれるで扱った。

鏡を、掲げて見る

赤像式の混酒器である。

高さ30.5センチ。

上が広く、下がすぼまる。

低い脚が、下にある。

両側に、小さな取っ手が付く。

地は、黒い。

図は、赤い。

画面の左に、女が座る。

箱の上に腰を下ろす。

衣は、襞が細かい。

髪は、後ろでまとめる。

右手を、顔の高さに上げる。

その手に、丸いものがある。

鏡である。

柄が付いている。

女は、それを見ている。

前に、若者が立つ。

背に、翼がある。

手に、細い布を持つ。

女の後ろに、柱がある。

柱に、文字が刻まれる。

赤像式ベル型クラテル(混酒器):アプロディテとエロス
グラーツの画家《赤像式ベル型クラテル(混酒器):アプロディテとエロス》紀元前370年から360年のあいだ。館の記録では、陶。全体で高さ30.5センチ。番号は1924.534。クリーヴランド美術館蔵。《赤像式ベル型クラテル(混酒器):アプロディテとエロス》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この柱の文字を読んでいる。

愛の女神の名が、記されている。

こうした札は、壺には珍しい。

そして、解釈が分かれている。

描かれた女が、その女神自身なのか。

それとも、婚礼を前にした花嫁が、自分を女神に見立てているのか。

決着はついていない。

前の二点では、鏡は室内の家具だった。

ここでは、鏡は手に持つ小さな道具である。

そして、掲げて見ている。

自分を見るという動作が、この壺の主題である。

女神なのか、花嫁なのか。

鏡を見ることが、その問いを生んでいる。

見た人が、そこに誰を見ているか。

画面には、映った顔は描かれていない。

鏡の面は、こちらから見て裏側である。

見えているのは、丸い板の背中だけである。

つまり、見ている中身は誰にも見えない。

見ているという動作だけが、写されている。

手に持つ、鏡そのもの

青銅と硝子でできている。

全体で27.3×14.6センチ。

柄の付いた鏡である。

柄は、細く長い。

下の端は、丸い。

柄の上に、鏡の部分がある。

輪郭は、円ではない。

不規則に波打っている。

縁が、大きく反り返る。

その反りが、布のように見える。

中央に、人の形がある。

女が一人、立っている。

全身を、布で覆われている。

顔だけが、わずかに見える。

腕は、体の前で組まれる。

青銅の表面は、暗い。

硝子の面は、裏側にある。

手鏡
ヴィッレ・ヴァルグレン《手鏡》1895年ごろ。館の記録では、青銅と硝子。全体で27.3×14.6センチ。番号は1976.120。クリーヴランド美術館蔵。ヴィッレ・ヴァルグレン《手鏡》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、短い。

作者と題と年と材料と寸法だけである。

説明の文はない。

題は、手鏡である。

前の一点の壺に描かれていたものと、同じ種類の道具である。

二千三百年ほど離れている。

それでも、柄が付いて、丸い面がある形は変わらない。

ただし、こちらは裏側が凝っている。

人の姿が、浮き彫りにされている。

使うときは、この面が外を向く。

つまり、他人から見えるのは裏である。

自分に見えるのは、映った顔である。

道具の飾りは、使う人には見えない位置にある。

この鏡の裏の女は、布に全身を覆われている。

顔だけが、わずかに出る。

鏡の裏に、顔を隠した人がいる。

表では、使う人の顔が映る。

隠れた顔と、映る顔が背中合わせになっている。

据えて使う、鏡

木と硝子でできた家具である。

高さ58.4センチ。

幅46.4センチ。

奥行き24.1センチ。

下は、引き出しの箱である。

引き出しが、二段ある。

前面は、木目が波打つ。

真鍮の取っ手が、左右に付く。

足は、四本ある。

短く、丸く削られる。

箱の上に、二本の柱が立つ。

柱のあいだに、鏡が吊られる。

鏡は、長方形である。

枠は、細い。

上下に、軸がある。

角度を変えられる。

上には、緩い曲線の飾り板が渡る。

化粧鏡
トマス・シーモア《化粧鏡》一八一〇年から一五年。館の記録では、マホガニーとカバの化粧板・硝子・松材。高さ58.4センチ。番号は10.125.384。メトロポリタン美術館蔵。トマス・シーモア《化粧鏡》メトロポリタン美術館蔵

館の記録は、短い。

作者と題と年の幅と材料と寸法である。

説明の文はない。

題は、化粧鏡である。

前の一点と、同じ用途の道具である。

違うのは、大きさと据え方である。

手鏡は、持ち上げて使う。

この鏡は、卓の上に置いて使う。

置けば、両手が空く。

両手が空けば、髪を結える。

そして、角度が変えられる。

顔の高さに合わせて、傾ける。

引き出しには、櫛や紅が入る。

道具と鏡が、一つの家具にまとまっている。

前の回で見た、身支度の絵を思い出す。

あの絵の女たちの前にも、こうした鏡があった。

この一点は、輸入した材と地元の材を組み合わせている。

見える面には、木目の美しい化粧板を貼る。

見えない部分は、松である。

家具では、こうした使い分けがふつうである。

表に出る面だけに、良い材を使う。

本の題に、鏡がある

多色摺の絵本である。

27.9×18.4センチ。

厚さは1.6センチ。

開いた状態で撮られている。

右の頁に、女が三人いる。

一人は、文机に向かう。

筆を持つ。

一人は、横たわる。

一人は、その後ろに座る。

左の頁にも、女が二人いる。

一人は、立つ。

一人は、腰を下ろす。

建物の柱と、障子が描かれる。

庭に、木が一本ある。

葉が、細かい。

線は、細く、均一である。

色は、抑えられている。

紙は、褐色に焼けている。

青楼美人合姿鏡
勝川春章《青楼美人合姿鏡》1776年。館の記録では、木版多色摺の絵本・墨と色・紙。27.9×18.4センチ、厚さ1.6センチ。番号はJIB31。メトロポリタン美術館蔵。勝川春章《青楼美人合姿鏡》メトロポリタン美術館蔵

館の札は「女性たち」「読書」「植物」の三つである。

鏡の札はない。

しかし、書名に鏡の字がある。

姿鏡、という語である。

これは、道具の鏡ではない。

一覧、あるいは見本という意味である。

ある種の人々の姿を、並べて見せる。

その並びを、鏡と呼ぶ。

英語の題も、鏡の語をそのまま使っている。

つまり、同じ比喩が両方の言語にある。

前の五点では、鏡は物だった。

ここでは、鏡は本の性格を言う語である。

映すのではなく、並べる。

並べたものを見て、読者が自分を測る。

そこまで含めて、鏡と呼んでいる。

この本は、絵本である。

文字より、絵が多い。

一人ずつの姿を、頁ごとに見せていく。

並べ方そのものが、目録に近い。

厚さは一・六センチしかない。

薄い本の中に、何人分もの姿が入っている。

芝居の題にも、鏡がある

錦絵である。

35.7×24.4センチ。

縦長である。

地は、黒い。

画面の中央に、男が一人いる。

腰を深く落とす。

片膝を、地に近づける。

体は、大きくねじれる。

顔は、上を向く。

目を、見開く。

口は、への字に結ばれる。

頭は、剃られている。

上半身は、裸に近い。

赤い布が、腰に巻かれる。

両手で、刀を握る。

刀は、水平に構えられる。

足元に、黒い塊がいくつもある。

泥である。

上に、文字が三行ある。

二代目嵐璃寛の団七九郎兵衛(夏祭浪花鑑)
春梅斎北英《二代目嵐璃寛の団七九郎兵衛(夏祭浪花鑑)》1832年。館の記録では、木版多色摺。35.7×24.4センチ。番号は1980.84。クリーヴランド美術館蔵。春梅斎北英《二代目嵐璃寛の団七九郎兵衛(夏祭浪花鑑)》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この芝居を書いている。

一八三二年、大坂のある芝居小屋での上演である。

演じられた役は、力のない者のために立つ男という型に属する。

この芝居は、いまも人気がある。

歌舞伎で最もよく知られた殺しの場面がある。

主人公が、悪辣な舅を殺す場面である。

その場で、役者は何度も見得を切る。

舞台には、本物の泥が使われる。

館は、こうした絵の分類にも触れる。

役者絵と呼ばれ、贔屓の客が集めた。

さて、この芝居の題である。

浪花鑑という。

鑑の字は、鏡と同じ由来である。

手本、あるいは映し出すもの、という意味である。

つまり、大坂を映す鏡という題である。

前の一点の本の題と、同じ使い方である。

そして、こちらは芝居の題である。

本でも、絵でもない。

上演されるものに、鏡の字が付く。

映す相手は、見ている客である。

客が、自分の町の姿をそこに見る。

そういう仕掛けを、題が名乗っている。

書名が、聖性の鏡

写本の一葉である。

図は20.5×11.3センチ。

紙全体は26.2×15.7センチ。

上に、文字が四行ある。

画面の上半分に、天使が五人いる。

翼を広げて、飛ぶ。

手に、盆や器を持つ。

一人は、羽根だけを着ている。

他の四人は、衣を着る。

下半分は、地面である。

草が、緑である。

中央に、布が広げられる。

その上に、食べものが並ぶ。

丸い瓜には、刃物が添えられる。

左に、男が座る。

右にも、男が座る。

こちらは、こちらを向く。

岩が、いくつも転がる。

岩の表面に、顔がある。

荒野のイエスに食物を運ぶ天使たち(『聖性の鏡』より、フォリオ五十五表)
ムハンマド・シャリーフ《荒野のイエスに食物を運ぶ天使たち(『聖性の鏡』より)》一六〇二年から四年。館の記録では、樹脂テンペラ・墨・彩色・金・紙。図の寸法は20.5×11.3センチ。番号は2005.145.55.a。クリーヴランド美術館蔵。ムハンマド・シャリーフ《荒野のイエスに食物を運ぶ天使たち(『聖性の鏡』より、フォリオ五十五表)》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この場面を書いている。

四十日の断食を終えるために、五人の天使が天から食物を運んだ。

麭、瓜、切るための小刀、生の葱。

香りのよい米の料理と煮込みらしいものも見える。

酒の杯もある。

四人は衣を着て、一人は羽根だけをまとう。

洗礼のあと、四十日を荒野で過ごした場面である。

館はさらに、岩についても書く。

多くの岩に、顔がある。

これは、この地域の絵の約束である。

そして、この頁だけが署名を持つ唯一の一葉だという。

書名は、聖性の鏡である。

ここでも、鏡は本の題である。

信仰を映す鏡、という意味だろう。

三点続けて、鏡が書名になった。

日本の本、日本の芝居、そして西の宗教書。

離れた場所で、同じ比喩が使われている。

映すものが手本になる、という考え方は広い。

そして、どの場合も物の鏡は出てこない。

題にだけ、鏡がある。

鏡のように、覗きこむ

写真である。

図の寸法は28.4×22.4センチ。

縦長である。

画面のほとんどを、顔が占める。

若い女である。

正面を向く。

目は、大きく、こちらを見る。

瞳が、暗い。

眉は、細い。

鼻筋は、まっすぐである。

唇は、閉じる。

顎は、細い。

髪は、長く垂れる。

肩の外へ、広がる。

輪郭が、にじむ。

首から下は、暗く沈む。

背景も、暗い。

焦点は、目のあたりだけに合う。

ジュリア・ジャクソン・ダックワース
ジュリア・マーガレット・カメロン《ジュリア・ジャクソン・ダックワース》1867年。館の記録では、湿板ネガからの鶏卵紙印画。図の寸法は28.4×22.4センチ。番号は1996.343。クリーヴランド美術館蔵。ジュリア・マーガレット・カメロン《ジュリア・ジャクソン・ダックワース》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この撮影の事情を書いている。

写された人は、作者の姪であり、同名であり、代子であり、愛した模特児だった。

このとき二十一歳、婚礼の数週間前である。

作者の常のやわらかい焦点が、なりゆく感じを与えている。

当時の女の人生の、大きな変わり目にふさわしい。

そして、こう書かれている。

大胆に近代的な、正面からの接写である。

それは、写真機の前で構える態度よりも、鏡を覗きこむ態度に近い。

思索と、自らへの問いを感じさせる。

館はさらに、この写真が四点組の一部だとも書く。

同じ原板から作られ、それぞれが前の像の左右を反転したものらしい。

反転すると、顔の印象が変わる。

つまり作者は、顔をありのまま記録することを重んじた。

ここに、鏡は写っていない。

鏡のようだ、という記録の一語があるだけである。

数えてみると

九点を数え直す。

鏡が画面に写っているのは、五点である。

映る婦人、ロートレックの姿見、壺の手鏡、青銅の手鏡、化粧鏡。

書名に鏡の語があるのが、三点。

記録の比喩だけが、一点。

写っている五点を、さらに分ける。

映った姿が見えるのは、一点だけである。

ロートレックの姿見には、何も映っていない。

壺の鏡は、面がこちらを向いていない。

道具の二点は、鏡そのものだから、何も映していない。

つまり、鏡が鏡として働いている絵は、九点のうち一点である。

書名の三点は、いずれも一覧や手本の意味だった。

姿鏡、浪花鑑、聖性の鏡。

三点とも、映すのではなく、並べる。

言えることと、言えないこと

言えるのは、鏡が二つの意味を持つということである。

一つは、映す道具。

もう一つは、手本や一覧である。

後者は、比喩から来ている。

正しい姿を映すものが、手本になった。

そして、この比喩は言語をまたいで通じる。

日本語の鑑も、英語の鏡も、書名に使われる。

九点のうち三点が、それだった。

言えないことも、いくつかある。

まず、絵の中の鏡は、映った像を描きにくい。

映せば、同じものを二度描くことになる。

そして、映る角度を正しく描くのは難しい。

だから多くの絵で、鏡は枠だけになる。

九点でも、映った姿が見えたのは一点だけだった。

次に、最後の一点には鏡がない。

鏡を覗きこむようだ、という記録の言葉だけがある。

それを九点に入れたのは、こちらの判断である。

比喩の鏡を数えはじめると、際限がなくなる。

どこで止めるかは、決めなければならない。

最後に、道具としての鏡は二点あった。

一つは手に持ち、一つは据える。

どちらも、裏側に飾りがある。

使っている本人には見えない側である。

鏡は、見るための道具でありながら、見られる面を持っている。

その両面が、九点を通してずっと入れ替わっていた。

見るための面は、平らで、何も描かれていない。

見られるための面には、彫りや飾りがある。

平らなほうが、役に立つ。

飾ったほうは、役に立たない。

前の回の帽子でも、同じことがあった。

役に立たない側に、手がかかっている。

そして、鏡に映った像は絵にならない。

絵にすれば、それは映った像の絵になる。

映っているという事実は、描けない。

描けるのは、同じものが二つ並ぶ形だけである。

九点の最初の一点が、それをしていた。

二人に見える一人を描く。

それが、鏡を描く唯一のやり方である。

そして、鏡は光を返すだけの板である。

何も持たず、何も加えない。

それでいて、見た人に自分を見せる。

見せられた人は、そこで何かを思う。

思ったことは、鏡には残らない。

残らないから、比喩として便利なのだろう。

そして、鏡を描いた絵は、たいてい身支度の場面になる。

九点でも、そう読める場面が三点あった。

鏡があれば、人は自分を整える。

整えるところを描けば、その人の生活が出る。

鏡は、生活を画面に引き込む道具でもある。

そして、鏡は置く角度で何を映すかが変わる。

置き方が、絵の内容を決めてしまう。

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